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ドラクエライバルズ失敗の原因を考察する


【ドラクエライバルズとは 】

ドラクエライバルズというゲームをご存知だろうか。
2017年11月より2021年7月まで配信されていたスクウェア・エニックス製のスマートフォン向けゲーム――いわゆるソシャゲである。カードを集めてデッキを組み対戦を行う、デジタルカードゲーム(DCG)といわれるジャンルのゲームだ。

2017年ごろといえば、ソシャゲ全盛期と言ってもいいころで、「パズル&ドラゴンズ」や「モンスターストライク」といった大型タイトルは、年間1000億円以上の売上をあげることもあった。そんなバブルじみた活況を呈すソシャゲ界に、老舗スクエニが満を持して投入したのがドラクエライバルズである。

ドラクエという看板、スクエニの持つ資本力、開発力。ライバルズが発表されたとき、誰もが新たな覇権ゲーの登場か、と色めき立ったものである。
番宣や公式大会には堀井雄二が登場するなど、宣伝にも熱が入っていた。スクエニとしても、ライバルズを新たな経営の柱として期待していたものと思われる。

しかし、その期待とは裏腹に、サービス開始後、ライバルズの売上は思ったように伸びず、低空飛行が続いた結果、2021年4月にサービス終了が発表される運びとなった。スクエニがドラクエの名を冠して世に送り出したゲームとしては異例に短い、3年強の稼働であった。

売上はあまりよくなかった本作であるが、一方ではそのゲームとしての出来の良さを高く評価していたプレイヤーも多い。私もその一人である。

私はリリース初期にこのゲームに出会い、ずっぽりとはまった。本当に熱病にとりつかれたかのように遊んだ。それこそスマホの角が丸くなるぐらいプレイした。

大晦日だろうが、元旦だろうが、日課のようにログインしていたゲームだったので、サービス終了の知らせを受けたときは本当にショックだった。みぞおちに穴が空いているような感覚で、しばらくは食事も喉にとおらないほどだった。サービス終了から半年以上たった今も、いまだに引きずっているほどである。

なぜ、ライバルズは失敗したのだろう。
サービス終了の報を受けて以来、ことあるごとにそんな疑問が頭に浮かんできた。
私はゲーム業界の人間ではない。そしてまた、ゲーム業界に詳しいわけでもない。有名プレイヤーや配信者でもない。単なる一プレイヤーである。そんな人間がこんなことを思い悩んでも意味などないのかもしれない。
しかし、ただ、なんとなく自分の中にあるもやもやした思いを、文字にして吐き出したくて、記事にしてまとめることにした。

色々と解釈違いもあろうが、ドラクエライバルズというゲームについて、とあるプレイヤーから見た一側面の記録として、読んでいただければ幸いである。

【失敗要因の概要】

改めてライバルズが失敗に終わった原因はなんだったのだろうか。
巷間、よく挙がるのは次のような意見だ。

「テンポが悪かった」「ユーザーインターフェイスが良くなかった」「エロくなかった」「マンネリ化」「先攻の勝率が高い、一部のリーターが強すぎるなどバランスが悪い」「床とかパワフルバッジといった新システムが次の弾ではほとんど意味がなくなる」「人気キャラ出し惜しみ」「なにかにつけて運営の対応・開発が遅い」

個人的にはインターフェイスはシンプルでわかりやすくて良いと思っていたのだけれど、多くの人が上記のような理由を挙げる以上は、こういった要素も失敗理由としてあったのだろう。

他にも失敗の要因は、色々と考えられる。

ゲームそのものの持つ問題に加えて、開発・運営に関わっていた人材の質とか、スクエニ内での力関係といった、内部の人間にしかわからない問題もあったのだろう。

ただ、ここでは、そういう内部事情については取り上げない。というより、私はそんなことがわかる立場の人間ではない。ここにまとめるのは、ただのプレイヤーだった私が、ライバルズを3年ほどプレイして感じたこと、考えたことになる。

さて、私なりに様々に考察を重ねた結果、ライバルズ失敗の要因は、下記の4点に集約できるのではないかと思い至った。

「1.課金システム周りの整備不足」
「2.デッキに組み込めるカード数の少なさ」
「3.英雄カードの採用」
「4.ゲーム性の高さによるユーザー離れ」

以下、この4つの要因について、ひとつづつ章立てし、詳細に解説を行う。


【第1章:課金システム周りの整備不足】

ソシャゲがサービス終了に追い込まれる原因。
畢竟、それはただひとつの理由による。
稼げない。 
ライバルズの撤退理由も、つまるところそれに尽きる。
思ったほど稼げない。それが単純かつ明白なライバルズの失敗だった。

それでは、なぜライバルズは稼げなかったのか。
それはライバルズの集金体制、すなわちプレイヤーを課金に誘導する構造が未熟だったためである。

以下、この章ではライバルズの課金体制、及びその抱えていた問題について解説する。

ライバルズは基本無料で遊べるゲームである。家庭用ゲームのような売り切り制ではない。他の多くのソシャゲと同じように、錬金石などのアイテムを瞬時に、大量に取得したいプレイヤーが任意に課金するシステムとなっている。

その課金だが、ライバルズは知名度のわりに課金額が少ないことは界隈(どこだよ)では有名な事実だった。ソシャゲ課金額ランキングでも50位以下にいることが常態であった。

なぜライバルズプレイヤー達は課金しなかったのか?
身も蓋もなく言ってしまうと、課金しなくても遊べたからである。

「課金なしでも遊べる」とはソシャゲの宣伝文句でよくあるフレーズなのだが、多くの場合はプレイヤーを釣るための方便にすぎない。

しかし、ライバルズの場合、本当にまったく課金しなくても遊べてしまうのである。普通に遊ぶ分には無課金でもまったく問題ない。それどころか無課金でも余裕でランキング上位に入れる。というより課金の多寡とゲーム内の勝敗が、ほぼほぼ無関係なゲームだったのである(第3章で述べる英雄カードを除く)。

「課金なしで遊べるのはいいことじゃないか」
うむ、確かにプレイヤーの立場からするとそうだ。
私もプレイしている当初は「なんて親切なゲームなんだ」「スクエニって気前のいい会社なんだな」と無邪気に喜んでいた。

しかし、ビジネスの視点に立って見れば、この課金なしで遊べる親切設計こそが、ライバルズの首を締める大きな要因となったのであり、残念ながら商品としては設計が間違っていたと言わざるを得ない。

では、なぜライバルズは課金しなくても遊べたのか。
ひとつにはボーナスでもらえるゴールドが多かったためである。

他のソシャゲ同様、ライバルズではログイン時や、クエストを達成することによってゴールドがもらえた。(初期の)ライバルズでは、明らかにこれらボーナスの設定を間違えており、普通にログインとクエストをこなしているだけで、課金が不要なぐらいゴールドがもらえたのだ。

さらに、闘技場という、勝てば大量のゴールドや錬金石、カードが手に入るシステムもあって、ある程度強い人が闘技場をやれば、ありあまるほどの資産を入手することができた。

他にもシーズンが変わるごと(一月毎)にボーナスがもらえたり、何かとイベントがあって記念品が配られたりして、課金しなくても潤沢に資産が集まるのである。

もうひとつ、課金が増えないボトルネックとなっていたのが、デッキに入れられるカード枚数が少ないことである。特に「デッキに入れられるレジェンドカードは1種につき1枚」という仕様が、このゲームに課金を必要としない大きな原因だった。(レジェンドカードって何?って人は、要は手に入りにくくて強力なカードだと思ってください)

例えば「シャドウバース」というDCGではデッキにレジェンドカードを1種につき3枚入れられる。すなわちレジェンドカードを1種につき3枚持っていないと、理想のデッキが組めない可能性がある。そのため、プレイヤーはカードを集めるために、何度もカードパックを購入せねばならない。

対して、ライバルズでは1種につき1枚しか必要ないのでガチャの必要性は薄い。そのうえ、同じレジェンドカードを2枚以上持っている場合、2枚目からは必要ないので、砕いて錬金石に変えることにより大量の錬金石を手に入れることができた。

結果的に
「貯めたゴールドでカードを引く」
→「ダブったカードを錬金石に変える」
→「錬金石で持っていないカードを作る」
→「ほとんどのカードを持っているので、次から手に入ったカードは全てダブりカードになる」
→「入手したカードは全て錬金石に変える」
というサイクルが課金なしで回ってしまうことになった。


ライバルズは、上記のような理由により、ほぼ無課金で遊べるゲームになっていたのである。

ついでに言うと、ライバルズに無課金勢が多かった原因として、初期のライバルズではカードのレアリティと強さが一致していなかったということもある。

ライバルズのカードはレアリティ(入手難度)によって「ノーマル、レア、スーパーレア、レジェンド」の4種に分かれるのだが、これらはあくまでレアリティによる区別であり、カードの強さとはあまり関係がなかった。

普通、カードゲームでは基本的にレアリティの高いカードが強く、そういったカードを持っていないと勝てないので、みんな課金するのである。

対してライバルズでは「強いノーマルカード」とか「強くないレジェンドカード」が普通に存在していた。

あるいは、これは「ライバルズは課金すれば勝てるゲームでは有りません」という運営からの意思表示だったのかもしれない。

個人的には、レアリティと強さが比例しないことは非常によいことだと思う。なぜなら入手しづらいカードほど強いのであれば、カードゲームは金持ちが有利なコレクションゲームになってしまうからだ。
無論、希少なカードやスキンを集めて蒐集欲・優越感を満たす楽しみ方自体は否定しない。だが、それは「よく思考した者が勝利を得る」というゲームの本道とは、分けて存在すべきものだと思う次第だがいかがだろうか。

私の個人意見はともかくとして、ライバルズの仕様は、ユーザーに課金させる仕組みづくりとしては失敗だったことは否めない。

ゲーム性もそうだが、ライバルズというゲームはゲーマーが考える(青臭い)理想を体現してしまったゲームという一面がある。

浮き世の算盤勘定を抜きにして見れば、ライバルズは実に純粋無垢で可憐なゲームであり、腐敗した世界(ソシャゲ界)に堕とされたGODCHILDのような趣すらある。

しかし、人は夢を食んで生きてはいくことはできぬ。企業は黒字を出さねばサービスを維持できぬ。
商品やサービスを開発する際には、まず、継続的に事業運営が可能なのか、冷徹に客観的に煮詰めるべきであるということ、理想を語るのはその後であるということ、そんなつまらない教訓をライバルズは私達に教えてくれる。

なお、補足であるが、ライバルズも中盤以降は、他のソシャゲ同様に、それがないと勝てないような強力カードをレジェンドカード、スーパーレアカードで連発するようになった。商売だから仕方ないこととはいえ、個人的には残念なことであった。


【第2章:デッキに組み込めるカード数の少なさ】

ライバルズのゲームデザイン上の大きな瑕疵は、1デッキのカード枚数を30枚と設定したことである。

この仕様が課金の少なさにつながっていたことはすでに述べた。
だが、1デッキに要するカードが少ないことによる問題は、課金周りにとどまるものではない。もうひとつ大きな弊害を産んでいたのだ。

それはデッキの多様性の阻害である。

1デッキが30枚だと、勝つのに必須である強カードをいれるだけで枠がすべて埋まってしまい、個性的なカードや、弱いけど好きなカードを入れる余地がないのだ。

そのため、ライバルズでは皆、同じようなデッキを使う傾向が見られた。いわゆるテンプレデッキといわれるデッキが環境を席巻し、ほとんど同じデッキとの対戦ばかり続くような対戦環境になってしまっていた。

この点もユーザー数の減少を招く一因になったものと思われる。課金誘導のネックになったことも合わせて考えるに、1デッキ30枚の設定は失敗だったと言ってよい。

いまさらではあるが、本来は「1デッキ45枚のカードで構成、カード1種につき3枚まで入れられる」ぐらいの設定で設計するべきだったのではないだろうか。そうすれば、環境を支配するデッキが作りづらく多様性が生まれただろう。お遊びカードも入れる余地があっただろうし、もっと多くのプレイヤーが個性的なコンセプトデッキを作って遊ぶ環境になったのではないだろうか。

せっかく魅力的なモンスターが多いドラクエのゲームなんだから、決まったモンスターしか使えないようなシステムにしたことはもったいなかった(イラストや3Dモデルの出来は良かったのでなおさら)。

運営も課金の弱さ、デッキの多様性の少なさには気づいていたと思われるが、1デッキのカード枚数という要素はゲーム設計の根幹にあたるため、後から変更するのが難しい部分であった。結局は、問題を自覚しながらも抜本的な改革は行えず、ずるずると引きずってサービス終了に追い込まれてしまった感がある。


【第3章:英雄カードの採用】

今でこそ失敗作との烙印を押されがちなライバルズであるが、驚異的な事前登録者を計上するなど、滑り出しは上々だった。

しかし、その華麗なスタートダッシュのわずか数ヶ月後には、課金が伴っていない、初期ユーザーが離れている、新規ユーザの獲得が進んでいない、といった諸問題が顕在化していた。

ソシャゲ課金額ランキングなどでも下のほうにいて、パズドラやモンストといった覇権ゲーから王座を奪うことなど、望むべくもない状況であった。サービス開始から半年ほどたったころには、早くもライバルズは期待はずれとみなされる空気になっていた。

上記のような閉塞状況を打ち破るべく、運営が2018年11月に投入した新システムが、「英雄カード」であった。
しかし、結果的にはこれがライバルズにとどめを刺した最悪の一手となった。

英雄カードとは何か? 
簡単に言うと「必ず初期手札に来る超強力なカード」である。

カードゲームは普通、ランダムに配られるカードで勝負を行う。その中にあって「必ず初期手札に来る」ことは、運に頼らず狙いの戦略を実行できるため、圧倒的なアドバンテージなのだ。そのうえカードの性能自体も異常なほど優秀で、これがないと勝つのは難しいといえるほどのカードだった。

それだけでも大概、頭が悪いのだが、英雄カードにはもうひとつ凶悪な特徴があり、それは「錬金が不可能」というものだ。

DCGでは錬金石をカードに変換できるのだが、英雄カードはその対象ではなかった。英雄カードが欲しければひたすらカードパックを購入し続けるよりほかない。

この英雄カード登場により、ライバルズは一気に重課金を強いられるゲームに変貌してしまったのである。

確かに無課金で遊べてしまうのも、経営的には問題があったのだろうが、いくらなんでも振れ幅が極端すぎる。

しかも、勇者カードの恐ろしい点は、どれだけ課金しても入手確定とはならないことにある。理論上は百兆円課金しても、運が悪いと入手できない。

当時、排出確率からして英雄カード3種を安定して入手するには、課金が5万から10万は必要であると試算されていた記憶がある。これはほかのDCGの相場と比べても法外な額であり、特に未成年者には捻出が困難な額であった(大人でも普通にきついが)。

そして、実際に英雄カードが実装されると、予想されたとおり、英雄カード難民が多数発生した。

掲示板は「5万円突っ込んだのに英雄カード引けないんだが」「いくら課金しても英雄カード引けないので引退します」「これでライバルズも終わりやね」「運営は死んだらレブレサック行き」といった阿鼻叫喚が飛び交う地獄と化した。

カードゲームではそれがないと勝てないほど強力なカードを人権カードと呼ぶが、当時、英雄カードを持っていないプレイヤーは本当に基本的人権がない有様で、ただひたすら英雄カード所持者に勝ち星を搾取される、奴隷のような存在と成り果ててしまったのである。


運営としては、英雄カード目当てに課金するプレイヤーが増えると見込んだのであろう。
確かに、一時的に課金は増えたのかもしれないが、ゲームに見切りをつけて、去っていったプレイヤーのほうがはるかに多かった。

また、新規ユーザーにしてみれば、「このゲームは英雄カードってやつがなければ勝てないんだな」→「でもめっちゃ課金しないと英雄カードって手に入らないんだな」→「まぁいいかこんなゲーム、刹那で忘れちゃった」となっていたわけで、英雄カードは新規ユーザーの参入を妨げる障壁ともなっていたのである。

運営はサービス終了の理由について「プレイヤー数の減少」を挙げていたが、その責任の何割かは英雄カードにあったと思われる。

本来、課金の弱さは、強いカードを手に入りづらくすることにより解消するのではなく、例えばプレミアカードのアニメーションを豊富にする、とかスキンを充実させるなど、プレイヤーのコレクション欲を満たす手段で補うべきではなかっただろうか。

なお、このころ「これで去るのは無課金者だけなので問題ない」といった意見を見かけることがあった。だが、はっきり言えば、これはソシャゲの本質をまるっきりわかっていない意見だ。

なぜ人はソシャゲに課金するのか。それは自慢したいからである。見下したいからである。マウントとってウホウホドラミングしたいからである。
そして彼等、重課金者の自尊心を満たすためには、大量の持たざる者が必要なのだ。だから、ソシャゲは基本無料でプレイできるのである。
無課金者が去れば、威張る相手がいなくなった課金者もまた去っていく。ソシャゲの収益は裾野(無課金者)の広さに比例する。無課金者はサービスにフリーライドしてる邪魔者ではなく、課金を招く重要な客と捉えるべきである。

話を戻すと、勇者カードにはもう一つ大きな問題があった。
「必ず初期手札に来る」という仕様のため、みんな同じ動きになってしまうことだ。

前述のように、元々ライバルズはテンプレデッキがはびこっているゲームではあった。それでもプレイヤーに配られるカードは、デッキ内からランダムに選ばれるため、実際の対戦時の動きは、その時々で違うものになっていた。

しかし、必ず初手に来る英雄カードの実装により、カードを出す順番まで皆、同じになってしまったのである。しかもデッキ構築の際に、英雄カードを軸にしてそれを活かせるカードを選択しないと勝てないため、さらにデッキ構築の幅が狭まってしまったのである。

みな同じデッキで、みな同じ動き、この時期のライバルズはまさに作業だった。壊れたフィルムのように繰り返される光景。賽の河原で石を積み上げるような無為。徐々に脳が溶けていくような空虚な時間。これでは、まるでソシャゲではないか。
掲示板ではライバルズはライン工ゲーとかラインバルズと呼ばれるようになった。


【第4章:ゲーム性の高さによるユーザー離れ】

ライバルズはユーザーに課金をうながす仕組みづくりが拙かっただけでなく、そのゲーム性にも問題を抱えていた。あるいは、こちらのほうがより根の深い問題だったかもしれない。なぜなら、ユーザーさえ確保できていれば、課金問題については運用しながら改善していくこともできたであろうが、ライバルズはそのゲーム性ゆえに、ライトユーザー層を獲得できなかったからである。

そう聞くと、ライバルズを知らない人は、そんなにつまらなかったのか、と思われるかもしれない。
いや違う。その逆だ。ライバルズは面白かったのである。
これだけは声を大にして言いたい。ライバルズはとても面白かったのである。そしてそれが致命的な欠点であった。

当然「面白いのはいいことじゃん。なんでそれが欠点なの」との疑問が出てくると思う。だが、その詳しい説明に入る前にライバルズのゲーム性について軽く触れておく。

商業的には失敗に終わったライバルズだが、そのゲーム性には定評があった。「シャドウバース」や「ハースストーン」といったほかのDCGに比べてもゲーム性が高く、難しいと言われていた。

ライバルズのゲーム性を高めていた主要因、それは「配置」というライバルズ独自のゲームシステムにある。簡単にいえば、麻雀においてどこに牌を置くかで効果が変わるようなシステムと思ってもらえばよい。

普通のDCGは基本的に「手札からどのカードを出すか(相手はどのカードを出してくるか)」を考えればよい。ところがライバルズはそれに加えて「カードをどこに置くか(相手はどこにカードを置くか)」を考える必要があった。

これがやばいのだ。
通常のDCGから1要素増えただけに思えるかもしれないが、実際に思考しなくてはならないことは乗数的に増えるため、プレイの難度は格段に高まっている。
その他にもテンションシステムなんてものもあって、要はとにかく考えることの多いゲームだった。

そう……これは初心者には難しすぎる……案の定、多くの初期ユーザーが脱落っ……!だが不思議なことに……慣れてくると……この複雑さがひりつくような悦楽を生む悪魔的ゲームっ……!まさに病みつきっ……!圧倒的快感っ……!

以上のように、ライバルズはゲーム性が複雑であるがゆえに、実力差が出やすく、運に頼っては勝てないゲームになった。

もちろん、これには功罪両面があろう。私などはライバルズのゲーム性が好きだからプレイしていたのだし、ほかのライバルズユーザー達の多くもそうだろう。だが、一方で多くのライトユーザーが離脱する原因ともなった。

かようにライバルズのゲーム性には賛否両論がある。ただ、ビジネスとしての一面に限っていえば、ライバルズは運ゲ要素を低く設定しすぎたために、失敗したといってよい。

多数の人間に訴求したいならば、運ゲ要素が強いことは必須なのだ。完全な一人用ゲームならともかく、対戦要素があるゲームにおいて、実力で勝敗が決まってしまうゲームはメインストリームとはなりえないのである。

いつの時代も大衆が支持するのは運ゲである。
例えば、現代でいえば、将棋や囲碁より、麻雀とか宝くじとか競馬、パチンコといった運要素が強いもののほうが、ずっとプレイヤーが多い。
賭場やカジノでも、古今東西その主流は、大小、丁半、チンチロリン、スロット、ルーレット……といった運ゲであって、純粋な実力ゲーが鉄火場の顔になったことはない。

金や優越感を得たいなら、不確定要素が少なく、自力で勝敗を決することができるゲームをやればよさそうなものだが、実際には絶対そんなことにはならないのである。

純粋な実力勝負の世界で成功するには、多大な努力が必要であるが、ほとんどの人は努力など嫌いだからである。少なくとも、気軽に気分転換やストレス発散したいときに、何年もの努力を要するものなど、手に取る気にならないだろう。

胴元としても、実力差がはっきりと出るようなゲームは困るのである。
運要素がないゲームでは、技量の低いプレイヤーは上手に勝つことはできない。そして勝てないと楽しくないから、ほとんどの敗者は再訪してくれない。
そもそも、実力ゲーはやる前から自分が勝てるか負けるかある程度の予想がついてしまう。自分にも勝ちの目があると信じているから、遊戯に興ずるのであって、勝ちの目がないゲームに参加しようとする者は極めて稀だ。
胴元としては初心者も上級者も同じ程度に勝てるゲームが理想のゲームなのだ。

大衆も胴元も常に運ゲを待望する。だから、この世のゲームは放っておくとどんどん運ゲ寄りになっていく。

この「運ゲ化の波動」は麻雀において特に顕著で、「リーチの採用 → 裏ドラ・一発の採用 → 赤牌の採用 → 東風戦・三麻の採用」といった具合に、日本における麻雀の歴史は、運ゲ化の歴史でもあった。


閑話休題


大衆が運ゲを好むのは、ひとつにはそうじゃないと上手い人に勝てないからであるが、もうひとつには実力ゲーは負けた時に言い訳ができないからである。

人はじゃんけんやパチンコに負けても大きなショックを受けたりしない(金を失ったことにはショックを受けるだろうが)。なぜなら、その敗北は単に運が悪かっただけであり、自分の落ち度ではないと言い訳できるからである。しかし、運要素が少ない競技で負けてしまうと、それはもう明らかに自分が相手より劣っていることが原因であり、言い訳のしようがない。

以上のような背景があって、大衆をターゲットとするゲームは常に「ゲーム性が薄いゲーム」が望まれてきた。もちろんソシャゲも例外ではない。というよりスマホこそもっともゲーム性のないゲームに向いたプラットフォームだった。

この点をもう少し詳しく述べると、ソシャゲは「1.イキリ放題、2.面白くない、3.やらなくてもよい」の3要素が重要であるとよく言われる。(元々はソシャゲ界で天下を取ったゲーム「Fate/Grand Order」(通称、FGO)の人気を分析して使われた言葉)

なぜ、この3要素が重要なのか、簡単に述べると以下のようになる。

(例:FGOの場合)
1.イきり放題:誰でも課金すればマウントとれる。課金者が優越感を抱ける要素が多い」
2.面白くない:手軽にできる。頭を使わなくてよい。中毒になりやすい。期待がないので飽きない。負けても悔しくない」
3.やらなくてよい:研究も努力もいらない。熱中しなくてよい。イキりたいときだけ課金すればよい」

上記の3要素のうち特に「面白くない」は重要だ。ゲーム性が高いと実力が必要とされてしまう。そのようなゲームは、ライトユーザーには望まれない。事実、艦これ、FGOなどの覇権ゲーは、そのゲーム性の部分を取り出すと、いずれも驚くほど内容がない(褒め言葉です)。   

ソシャゲに内容はいらない。いや、そんなものあってはいけない。なぜならゲーム性が高いと、知能の高い者や、研究熱心な者が勝ってしまうからだ。そんなゲームはクズだ、ゴミカスだ。ソシャゲの勝者は、常に多くの時間を浪費した者でなければならない。であればこそ、暇のない者は課金して時間を買うのだ。というのが制作側の本音である。

思えば、ライバルズというゲームはことごとくこの「売れるソシャゲ3要素」の逆をいってしまったゲームである。さっきの3要素をライバルズに当てはめるとこうなる。

(ライバルズの場合)
1.イきれない:課金しても勝てない。運勝ちできない」
2.面白い:真面目に取り組まなくてはならない。上手い人が勝ってしまう。負けると悔しい」
3.やらなければならない:対戦しないプレイヤーはやることがない。練習や研究をしないと強くなれない。適当にやると負けるのでプレイに意思が必要」

ライバルズは高いゲーム性を持つゆえに、手軽さを求めるライト層にリーチできなかった。それどころか、運要素が低いため、負けたときに「お前は相手に劣る存在である」と否応なく突きつけられるゲームであった。こんなゲームがソシャゲのメインターゲット層に刺さらなかったのは、必然であったと言えよう。


また、ライバルズの難しさはドラクエファンの反発を招くことにもなった。

ドラクエシリーズの特徴を一言でいえば「レベルを上げて物理で殴ればいい」である。頭があまり良くない人が、深く考えずにプレイしてもクリアできるのが、ドラクエのいいところである(褒め言葉です)。

ところが、ライバルズは、ドラクエの名を冠しておきながら、あろうことか頭を使わないと勝てないゲームを作ってしまった。本家ドラクエファンからすれば「こんなのドラクエじゃない」と感じた人も多かっただろう。

実際、私が見た限り、純粋なドラクエファンとライバルズファンはあまりかぶっていなかったように思える。棲み分けといえば聞こえはいいが、ドラクエファンを取り込めていなかったのである。いや、それどころか、ドラクエファン本流からは、ライバルズは異端児扱いされ、嫌われていたような感さえあった。

ライバルズはドラクエという日本屈指のブランドをバックに持ちながら、それを活かすことができなかったのである。


【結論】

話をまとめよう。

ライバルズは、課金周りの仕組みづくりがいびつなため収益性が低く、かつゲーム性が高いゆえにライトユーザーを取り込めなかった。これがライバルズが撤退にいたった根本要因である。

「課金しなくても遊べる」
「金をかけても勝利はできない」
「頭を使わないと勝てない」

ライバルズ運営がどの程度、意図的だったかはわからないが、これらは既存のソシャゲに対する反逆であり、改革の宣言であった。

その意気や良し。
だが、既存のビジネスモデルが成立しているのには、やはりそれなりに訳がある。

ライバルズは「ゲーム性の薄いゲームのほうが儲かる」というソシャゲ界の現実を打ち破れず、あえなく敗れた。
節々に高邁な理想を感じとれたが、企業として採算が取れる形での、新しいビジネスモデルを提示することはついにできなかった。
そして結局は、ライバルズ自身も「ゲー無」的な従来のソシャゲにすり寄っていき、当初の姿とは別物になっていったのである。

ライバルズはいつから間違えたのか。
おそらくは、ゲーム性とデッキ内カード枚数という、根幹にかかる部分の選択をミスした時から敗北は決まっていたのだろう。

ライバルズの失敗から、無理やり教訓めいたものをひねりだすとするならば、「後で変更することが難しい根幹部分だけは、よく煮詰めてから動かないといけない」といったところだろうか。

最後に手向けとして私自身の感想を述べておく。
先に書いたとおり、ライバルズのゲーム性は、本当に素晴らしかったと思う。少なくとも私にとっては。
やたらドライというか、シビアというか、ぶっちゃけて言うと「馬鹿では勝てない」という臆面のなさが好きだった。
考えることが多くてほんと疲れるゲームだった。
対戦時は脳汁が出るまで考えた。相手も智力を尽くして勝負に臨んでいるのがわかるから、真剣だった。
そんな頭が灼けつくような激戦の末に勝利したときの快感は、脳内麻薬が溢れるような快感があった。
あんなに楽しい日々はなく、あんなに悔しい日々もなかった。
けれど私が惚れた諸々の要素が、商品としてはことごとく裏目に出たのは皮肉というよりほかない。

ありがとうライバルズ。今はただ安らかに眠れ。
だが、願わくば、いつの日か復活せんことを。


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