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「よっちゃんの飛行機」

 

 飛行機が飛んでいた。
 胸がすくような清々しい青空の中で、それはまるでおもちゃみたいにちっぽけだった。そこに数百の人が乗っているなんてとても信じられなかった。
 その飛行機を無意識のまま目で追っていたのはどうしてだろうか。世界ではぐるぐると常にたくさんの飛行機が飛び交っているはずで、僕の目に入る飛行機も数えたらきりがないほど、そしてすぐに忘れてしまうほどあるはずだった。それなのに僕はその一機の飛行機を吸い寄せられるようにして見入っているのだった。
 僕の生まれ育った街のそばには空港があった。
 毎日のように河川敷で道草をしていたあの頃、僕らの頭上を巨大な飛行機が腹を見せて離陸していくのを何度も見た。その度にエンジンがうなりを上げ、機体が風を切る凄まじい音が辺りに響き渡る。そこで覚えた景色や音や感触は、手つかずのまま記憶の奥底に残っている。だからそれらは古い記憶を呼び起こす一つのきっかけになっていた。
 僕の記憶は常に曖昧で、時間の軸がどうも覚束ない。思い出すのはそこで得た感覚すべて、結局は具体的な経験ではなく、感覚から手繰り寄せた抽象的な記憶でしかない。しかしそれは漠然としている分、足りない部分を自分の好きな色で補うことができた。また気に入った思い出だけを取って持ち出すこともできた。そうして一度記憶が蘇ると、まるで鉱脈を掘り当てたみたいに、次から次へと思い出が溢れ出るのだった。
 だからこうして視界の先の一面の青空に、ある同級生の顔が浮かんでいるのだった。飛行機が通過した空を上書きするように、彼の顔は空いっぱいに張り付いていた。
 僕の記憶の中で、飛行機と彼は密接に関連している。僕がふいに彼のことを思い出すとき、空にはいつだって飛行機が飛んでいた。あるいはそれは歴史の用語を覚えるために作った都合の良い語呂合わせみたいなもので、実際の彼と飛行機との繋がりには程遠いのかもしれない。それでもいい、と僕は思う。僕は彼のことを思い出すたび子どもの頃の童心を胸がいっぱいになるほど味わうことができたし、それは大人になった自分にとってありがたい体験だった。日を追うごとにその思いは強くなる。僕にとって彼と過ごした時間はかけがえのないものだった。
 彼は今、どこで何をしているのだろう。
 僕はその同級生をよっちゃんと呼んでいた。


 よっちゃんは優しい心を持った子どもだった。ただ少しだけ乱暴なところがあって、勘違いされやすい子どもだった。
 よっちゃんは小学校で問題児としてみなされていて、学年中、ひょっとしたら学校中の人が知っている有名人だった。授業中は終始落ち着かず先生に怒られてばかりだった。そしてそれに対してもいつも反抗的な態度を取っていたから、ますます怒られる始末だった。実際他の生徒の邪魔をしていたのは確かだったから、怒られてしかるべきだったのかもしれない。ただし僕はよっちゃんと同じクラスになったことがないのだから、その光景を実際に見たわけではなかった。それでも僕の知るよっちゃんと人から聞く噂を重ね合わせると、簡単に想像がついた。
 そうしてよっちゃんに手を焼いていた先生は、ホームルームの時間にうっかりと小言を漏らした。しかし角が立つ言葉に敏感な子どもたちがその言葉を聞き逃すはずもなく、すぐにその話は尾ひれが付いて広まった。そうしてよっちゃんに対する認識は、子どもたちの間で固まっていくようになった。
 僕がよっちゃんに対してどんな印象を持っていたのかは、正直に言うとあまり覚えていない。少し怖がっていた気がしなくもないが、あるいは単に関心がなかったような気もする。ただどのみち僕がよっちゃんと関わることはないように思っていた。僕はクラスの端っこで静かに過すようなタイプだったし、よっちゃんには友達が一人もいなかった。
 それなのに僕たちは仲良くなった。
 仲良くなったきっかけはありありと覚えている。
 それはまだ春先で、よっちゃんにいたずらを仕掛けられたときのことだった。休み時間に隣のクラスからやってきたよっちゃんは、一通り騒ぎ散らかした後、誰も相手にしてくれないとわかると、標的を端の方で大人しく座っていた僕に定めたようだった。よっちゃんは突然僕の目の前にやってくると、僕が止める間もなく勢いよく僕の教科書を取り上げた。そしてそこで偶然開いたページに、僕の描いた落書きがあった。よっちゃんはそれを見つけると、急に押し黙って目を丸くしてそれを見始めた。それは余りにもふざけた落書きだったから何とか弁解しようと僕が慌てていると、よっちゃんはまるで弾かれたように声をあげて笑ったのだった。クラス中の視線が一斉に集まったのを肌で感じた。そして僕が呆気にとられ何も言えないでいるのにも気づかない様子で、よっちゃんは言った。
「おれ、こういうの好きだよ」
 僕はそれを聞いてますます混乱してしまったけれど、よっちゃんが豪快に笑っているのを見て、なんだかおかしくなって思わず笑ってしまった。そしてよっちゃんがページをめくり、そこに描かれた落書きを一緒に見て、今度は二人で笑うのだった。めくっては笑いめくっては笑いを二人はずっと繰り返した。
 よっちゃんは僕の絵を初めて見た相手だった。そして初めて褒めてくれた相手だった。僕はそれまで自分の絵をなんとなく見られたら恥ずかしいものだと思い込んでいて、誰にも見せずひた隠しにしていた。それなのによっちゃんがそれを見て笑ったとき、僕は恥ずかしさも忘れて嬉しくなってしまい、もう舞い上がったみたいな気持ちで気付けば一緒に笑っていたのだった。静かな教室の中で、二人はちょっとおかしなくらいに笑い転げた。
 一通り絵を見終わったよっちゃんは僕に沢山の質問を投げかけた。いつも絵を描いてるの、どうやったらこんなうまく描けるの、お前も漫画好きなの。僕は一つ一つの質問にできるだけ丁寧に答えていった。よっちゃんは目を輝かせながら、深く相槌を打って僕の話を聞いてくれた。それを見て僕は頬が熱くなるのを感じたが、それと同時に言葉は熱を帯び、上ずりながらも徐々に雄弁になった。よっちゃんは感心しきった様子でうなり、すごいすごいと言葉を漏らしながら、その日初めてしっかりと僕の方を見つめながらこう言ったのだ。
「他の絵も見せてよ」

 それから二人が仲良くなるまでにそう時間はかからなかった。
 僕らは毎日のように顔を合わせ、色々な話をするようになった。漫画の話に始まり、退屈な授業のこと、そしてお互いの家庭のことなど挙げだしたらきりがない。それほど誰かと親密な仲になるのは僕にとって初めてのことだったし、よっちゃんにとっても初めてのことだったようだ。僕はよっちゃんに伝えたいことが膨大にあるのに、一度に話せることは限られていて、いつも気持ちが言葉を追い越して空回ってしまった。言いたいことがうまく言えなくて自分でももどかしくしていると、よっちゃんはそれを慰め、共感してくれた。一方で話しているうちに言葉は言葉を呼んで、自分で思いもしなかった奇想天外な発想が浮かぶこともよくあって、僕にはその感覚も新鮮だった。
「お前と話してると、言葉がぼろぼろ出てくるんだよな」
 よっちゃんは不思議そうに言った。
 僕もまったく同じだと思った。
 たった五分の休み時間にも、僕らは集まって話し込むようになった。屋上に続く階段の広い踊り場が集合場所だった。そこは普段人が来ないから集まるのにはうってつけの場所だった。壁には卒業生の落書きがたくさん残っていた。僕らはそれにならって壁の端の方、きっと誰も気づかない陰になっている場所にそれぞれの名前と日付、それから好きなキャラクターの絵を描いた。それは二人の秘密になった。秘密ができると二人の仲はより特別なものになった。二人は出来上がった絵を満足そうに眺め、それから互いの顔を見合わせて笑った。
 僕がよっちゃんと仲良くしているのを、あるいはよっちゃんが僕と仲良くしているのを、他の生徒は好奇の目で見ていた。あるときクラスの女子が、もうよっちゃんとつるむのはやめた方がいいよ、と僕に忠告してくれた。その子の後ろには数人の女子がこちらを見ていて、僕と目が合うと彼女たちはすぐに目をそらした。僕はそれまでにも、よっちゃんと遊ぶようになってから周囲の目線が冷たくなったのを感じていた。そして益々クラスの中で孤立していたことも自覚していた。それでも僕はよっちゃんと縁を切ろうなどとは微塵も考えなかった。そのときにはすでに、僕にとってよっちゃんは他と違う大切な存在になっていたのだ。しかし僕は忠告してくれた女子のことを恨むこともなかった。例えあの忠告が見当違いだったとしても、きっと彼女なりに精いっぱいの親切を働かせてくれたのだと僕は理解していた。
 しかし僕らの関係について危惧していたのは、僕ではなくむしろよっちゃんの方だった。あるときよっちゃんはまるで他人事のように、お前俺とあんまり仲良くしない方がいいよ、と僕に言った。その言葉にはまるで感情がこもっていなかった。僕の頭にはすぐにクラスメイトの忠告がよぎった。僕はその言葉もきっとよっちゃんなりの親切なのだろうと受け取った。子どもは子どもなりに、生きている社会の中での自分の立ち位置を理解していた。それは忠告をくれた女子にしても僕にしてもよっちゃんにしても同じことだった。今思うとそれは余りに残酷なことだった。
 そのときの僕は、確かよっちゃんの言葉に具体的な返事もしなかった。きっと心のどこかで、よっちゃんの言うことももっともだと思っていたのだ。しかしそれでも僕は、それからも毎日のようによっちゃんと会って遊んでいたし、よっちゃんに対する態度が変わることもなかった。子どもは子どもなりに社会を理解していたかもしれないが、それ以上に何を大切にすべきかということも理解していた。僕は勇敢だった。おかげでその瞬間に楽しいと思う実感を信じることができたし、友達を一人失わずにすんだ。
 放課後はよくよっちゃんの家に遊びに行った。よっちゃんの親は帰りがきまって深夜だったから、そこは子どもだけ秘密基地になった。よっちゃんの家には漫画が一冊もなかったので、普段どうやって漫画を読んでいるのかと聞くと、本屋で立ち読みしているとのことだった。たまに盗むこともあるけどね、とよっちゃんは平然として言った。
「でも家族に見つかったらやばいから、結局家に持って帰る前に捨てちゃうんだよ。ひどいときは読む前に捨ててる」
 僕はそれを聞いても、よっちゃんが特別悪いことをしているようには思わなかった。もしくは単に実感がわかなかっただけかもしれない。よっちゃんが嘘をついているようには見えなかったし、僕は割と素直にその話を受けいれていたが、きっと実際万引きをするということがどういうことなのかよくわかっていなかったのだ。僕はただよっちゃんに自分の漫画を貸そうかと提案をした。するとよっちゃんは飛び跳ねて喜んだ。僕はそうやってよっちゃんが喜んでくれるのが嬉しかった。

 梅雨が明けた頃だった。いつものようによっちゃんの家でくつろいでいたとき、よっちゃんは学校の裏庭にあるというある花の話をした。
「それが、花の蜜を吸えるらしいんだよ。こう、花を取って、下からちゅうっと」
 そんな花が本当に学校にあるのだろうか、と僕は訝しんだ。僕は裏庭には行ったことがなかったし、そもそも生徒だけで行くことは禁止されていた。どうやらよっちゃんも裏庭には行ったことがないようだった。確かめようがない、と僕が言うと、まるでそれで弾みをつけたように、じゃあ確認しに行こう、とよっちゃんが言い出した。僕が拒むとよっちゃんは意地悪く行くと言ってきかなくなった。
「明日の放課後だよ。ウサギ小屋のところ、きっと、きっと来いよ。いいか、誰にも見られたらだめだからな。それからこの事は秘密にしろよ。他の人に言ったら、そいつが先越して花の蜜全部吸っちゃうからな」
 その勢いに圧倒され、僕はついに約束してしまった。
 その日の帰り道、僕は何やらとんでもない悪事に加担してしまったと、絶望的な気持ちになった。よっちゃんが一人で悪いことをしている分には何も思わなかった僕も、いざそれが自分の役回りになると思うと、途端に恐ろしく思われ始めた。僕はあのクラスメイトの忠告が脳裏をかすめてどっと気が重くなった。子供の頃は身の回りの交友ばかりが自分の知る世界のすべてだったから、その約束を反芻しては一人鬱々とした。しかし蜜が吸えるというその花に興味があるのも確かだった。学校の決まりを律儀に守り、帰りの買い食いも一切したことのない僕にとって、学校で花の蜜を吸えるというのはそれだけで一大事だった。かといって花のためにわざわざ危ない橋を渡るのは割に合わないと、もっともなことを思う自分もいた。
 どうしたものかと考えているうちに、不思議とその試練は好奇心をそそる巧妙なスパイスのように思われ始めた。また、誰にも言うなという文句が良かった。こうしてわざわざ自分で説明するのは恥ずかしいが、僕はどうやら秘密ごとにときめく節があるらしかった。僕はよっちゃんがささやかな秘密を教えてくれたことが嬉しかったのだ。
 僕は、これは冒険なのだと自分に言い聞かせた。するとむくむくとたくましい気持ちが湧きあがり、しまいには、そうだ、何があってもその花を見つけよう、そしてその蜜を吸ってみせよう、と一人で息巻いていた。その日の夜は深い時間までなかなか寝付けなかった。 


 次の日、僕は昨日の高まった期待のままにウサギ小屋へと向かった。誰にも見られるなというよっちゃんの言葉の通り、周囲に人がいないか過剰なほど確認していった。
 ウサギ小屋は校庭のはずれにあった。そこは近くに散り際のモクレンが咲いているほかには何もなく、どこか寂しい印象がある。臆病なウサギはいつだって奥の方に隠れてしまうし、普段からわざわざここまでやってくる生徒は少なかった。
 僕が着いたとき、そこにまだよっちゃんの姿はなかった。
 僕はすぐそばのフェンスに寄りかかり、とりとめもなく周りを眺めて時間をつぶした。ちょうどグラウンドの対角線の向こう側では、みんながわいわいと騒ぎながら帰っていくのが見えた。同級生の姿もあった。ウサギはいつも通り奥のほうに隠れたままで、小屋はしんと静かだった。目の前を事務のおじさんが通り、不思議そうに僕を見た。日はさんさんと照っていた。僕は自分の影に目をやり、ぼんやりとしながら、ひょっとするとよっちゃんは来ないのかもしれないと思った。よっちゃんはそういうふざけたところがあるし、約束を無断で破るかもしれない。もしくは昨日の約束は冗談のつもりで、僕をからかっただけだったのかもしれない。そもそも蜜を吸える花だって本当にあるのかもわからない、と不安は募るばかりで、いよいよ持て余してこれをどうしたことか、もう何もかもどうでもよくなって投げ出したくなったそのときに、遠くのほうによっちゃんの姿を見つけたのだった。
 よっちゃんはゆっくりと歩いてきた。その姿がここに向かうときの上機嫌な自分とはまるで違かったから、今日を楽しみにしていたのは自分だけだったのかと、恥ずかしいような寂しいような気持ちになった。日が眩しいからだろうか、眉間に皺を寄せていて、それが不機嫌そうに見えてならなかった。僕はよっちゃんがやってきた安堵とともに、やはり不安が募っていった。
 ごめんごめん、とよっちゃんは言った。まるで何か他のことを考えているみたいなぞんざいな言い方だった。僕はフェンスから腰を上げ、よっちゃんをじっと見た。なかなか目線が合わないまま二人の間に沈黙が走った。
 僕はそのときにふと、よっちゃんが何か隠し事をしている気がした。何も証拠があったわけではない。しかし一度そう考えると、想像はみるみる膨らみ僕の胸をざわつかせた。
 僕にはたまによっちゃんが何を考えているのかわからなくなるときがあった。そしてそれを初めて感じたのがおそらくその瞬間だった。それはよっちゃんのいつもの大げさな態度に振り回されるというだけではなく、何というか、よっちゃんにはよっちゃんしか立ち入ることのできない心のスペースがあるような気がするのだった。そのスペースに悩み事をすべて押し込んでしまっているせいで、よっちゃんが苦しんでいるように見えるのだった。なぜそう思ったのか、と聞かれればそれはもう答えようもないのだが、僕にはどうしてか今ここにいるよっちゃんが、よっちゃんのすべてではないと、そう確信めいた気持ちがあった。よっちゃんはまるであるときふらっといなくなったまま帰ってこない猫のような、うら寂しさを持っていた。僕はそのよっちゃんの態度のせいで、例え僕がどれだけ心を開いてもいつまでも分かり合えないような気がして苦しくなるのだった。僕はよっちゃんの抱える憂を、本当は共有してほしかったのだ。それは僕に言って解決できるような簡単なものではないと薄々わかっていたが、それでも誰かに打ち明けることで心が軽くなることだってあるだろう。その相手として僕が、何とかしてよっちゃんの力になりたかったのだ。そしてもっとよっちゃんに頼ってほしかったのだ。それでも僕はよっちゃんの抱える憂が一体どんなものなのか、結局わからずじまいだった。僕は未だにそのことを振り返ると、やるせなく思う。もしあのとき僕がよっちゃんの秘密を知ることができたら、もう少しよっちゃんに寄り添うことができていたならば、と僕は考えてしまうのだ。
 このときもちょうど、僕はよっちゃんの態度にそんな寂しさを見たが、あるいはそれも単なる考えすぎなのかもしれなかった。よっちゃんは見せている姿態度そのまま、快活と生きていただけだったのかもしれない。
 僕の頭にはそんな風に一抹の不安がよぎっていた。だからよっちゃんのことを見ていながら、それじゃあ、そろそろ行こうか、とたったそれだけのことをいつ切り出せばいいのかわからなくなって、再びフェンスに寄りかかってしまった。一気に気持ちが沈んで、家に帰りたくなった。そしてそのことをよっちゃんに伝えようとした。
 そのときだった。
 よっちゃんは突然僕と目を合わせると、にやりと笑ってみせた。そしてそれがまるで合図だったかのように、次の瞬間には裏庭に向かって一目散に走り出したのだ。
「おい、どっちが先に花を見つけられるか勝負な! 早くしないと、他の誰かに先越されるぞ! 早く、早く!」
 そう言ってよっちゃんはこちらを向くと、先ほどと同じようににやりと笑って、また背を向けて全力で走り出した。
 呆然としていた僕もすぐにはっとした。そして少しずつ小さくなるよっちゃんの背中を見ながら、少しずつ笑顔になっていくのが自分でもわかった。すぐに昨日の帰り道で味わった高揚を思い出した。そして嬉しくなって、よっちゃんを追いかけて走り始めた。またあの手放しの興奮がかえってきたのだ。
 僕は言葉にもならない声を漏らしながらよっちゃんを追いかけた。よっちゃんも笑って何かを発したが、何と言っているかはわからなかった。僕も笑いながら走り続けた。勢いあまってあやうく転びそうになりながら、なんとか体勢を立て直して、夢中になってよっちゃんの背中を追いかけた。やがて二人は校庭を抜け、裏庭へと続く立ち入り禁止の道へあっさりと入っていった。
 そこは校舎とフェンスに挟まれた狭い道で、オオバコやペンペングサやフウセンカズラがうっそうと生い茂っていた。足元には側溝のブロックがあって、それが道に沿ってどこまでも続いていた。遠近感がなくて、いつまでも同じところを走っているように錯覚した。よっちゃんの背中もずっと等間隔で前を進んでいて、僕はいよいよ夢の中にいるような感覚になった。二人はその道を奔放な無邪気に任せて走っていった。
 どこまでも続くと思われたその道は突然終わった。すぐ目の前を走っていたはずのよっちゃんの姿が光に紛れ見えなくなったかと思うと、僕は目を開けていられないほどの眩い光に包まれ思わずそこで足を止めた。僕は肩で息をしながらよっちゃんを呼んが、返事をはなかった。うっすらと目を開けると視界が開けていて、裏庭にたどり着いたのだとわかった。僕の視界にはまずよっちゃんの足元が映り、後姿が映り、そしてついに裏庭の全貌を捉えた。
 僕はそれを見て思わず息を呑んだ。
 そこはまるで森を迷い込んだ先にあるオアシスのように幻想的だった。
 端に沿って植えられた背の高い樹木が、うまく具合に外の景色を遮断していた。木の隙間から漏れた光が、まるでスポットライトのように無作為に地面を照らしていた。中央には色とりどりの花が、乱々に咲き誇っていた。モンシロチョウが花から花へ移って蜜を吸っていた。人の手の入った気配はなく、植物たちは思い思いに草葉を伸ばしていた。
 生き物の織り成す恍惚とした風景の、その入り口に僕は立っているのだった。僕はうつけたようにその風景を眺めていた。その姿は余程間抜けだったのだろう、視線を感じて我に返るとよっちゃんがおかしそうにこちらを見ていた。しかしその表情はいつものような意地悪な含みを持たず、優しい顔をしていた。よっちゃんは僕の数メートル先に立っていて、顔にちらちらと木漏れ日を浴びていた。それはまるで色々な角度から見た姿を一つにまとめたみたいに立体的で、美しかった。僕はよっちゃんがいきなり走り出したことに不服を言ったが、よっちゃんはそれに返事をしなかった。代わりにすっと腕を上げ、裏庭の真ん中の方にある植え込みを指さした。
「あれだよ、あれ。あれが探してた花だよ」
 僕もよっちゃんの指さした先を見た。そこにはいくつもの花が咲いていたが、僕は不思議とよっちゃんがどれを指しているのかすぐに分かった。僕は吸い寄せられるようにしてその花を見た。
 それは想像していた花よりは幾分小さく、控えめな花だった。
 それは植え込みの一角を広く占領して群生しており、雑草とも園芸種とも見分けがつかない。ひょろっと長い茎に小さくて丸い葉をたくさんつけ、その先にこれもまた小さい可憐な花をつけていた。花は凛とした白いめしべと赤い一枚の花びらからなっていて、まるでお辞儀をするような格好に見える。柔らかい風が吹くたびそれはなびき、一層お辞儀をしているように見えた。
 よっちゃんはゆっくりとその花に向かって歩き出した。僕もすぐにその後を追って、並んで歩いた。足元の草を踏み分け、一歩、もう一歩とその花へ近づいていく。まるで冒険の末、宝の在処にたどり着いたみたいな気分だった。期待と緊張が入り混じって、僕は息をするのすら忘れてしまいそうだった。そうして二人は花の前へたどり着き、じっとそれを見つめた。
 辺りは嘘のよう静まり返っていた。二人は花の前に立ちそのいたいけな美しさにしばし口をつぐんだ。これが探し求めていたあの花なのかと、つい昨日知ったくせにずいぶん大仰なことを思った。弾んだ息はようやく落ち着いたが、気持ちは高ぶったままだった。
 二人はどちらともなくその花を摘み、それを口元に運んだ。そして根元をくわえると、そっと優しく吸い込んだ。
 ほんのり、甘い蜜の味がした。
 それは蜜と呼ぶにはあまりにも物足りない、一粒のしずくにも満たない液体だった。でも確かにそれに味はあった。味覚に意識をとがらせれば、ほのかに甘い味がした。
 二人はかろうじて感じられた甘い蜜の蜜の味に一瞬胸を高鳴らせたが、その後に互いの顔を見るとつい噴き出してしまった。散々期待しておいた結果が思わぬ肩透かしで、二人は笑いが止まらなかった。なんだよこれ、と言ってげらげらと笑ったのは僕だったかよっちゃんだったか。全然大したことないじゃん、と言ったのがもう一方だった。それから笑いが収まったかと思うと、少し無言の時間があって、それすらもおかしく思えてまた笑った。もっとでっかくて、甘くて、すごいやつだと思ってた、とよっちゃんは言った。本当にその通りだと僕も思った。それまでの緊張が一気に解かれて、二人は箸を転がしても笑ってしまうような愉快な気持ちになった。
 それから二人は、植え込みの縁の石段に腰を落ち着かせた。
 花のそばにはまるで廃屋のようなあずまやがあり、それなりに立派なベンチもついていたが、そこに座ろうとは二人はついぞ考えなかった。かわりにあずまやがその石段にちょうど影を落としてくれた。辺りにはうっそうと草木が生い茂り、中には二人の背丈ほどあるものもあった。じっくりと見渡して気が付いたが、草木で隠されていたものの裏庭は相当広いらしかった。足元からは土や草の青い匂いがした。そこは本当に静かで、風に草木がそよぐ以外は何の音もしなかった。
 二人はそこでいつものように他愛もない話をして時間を共有した。足元にトカゲが通ると、よっちゃんは身振り手振りを交え、昔飼っていたというカナヘビの話をした。それがおかしくて僕は腹がちぎれそうなくらい笑った。立ち入り禁止の場所に入った背徳感も相まって、いつも以上に会話は弾んだ。そして時折後ろを向き、花を摘んではついばんだ。花に手を伸ばすたび腕には光と影の境界線ができ、それが綺麗だった。蜜は何度吸っても味気なかった。よっちゃんの表情は、どうも期待していたのはこれじゃない、とわかりやすく物語っていて、それがおかしくてたまらなかった。大きな声を出せば誰かに気づかれるかもしれなかったが、それすらお構いなしに二人はほとんど叫び合うようにして話し続けた。
 しばらく時間が経ったときだった。ふと砂嵐のような騒音がした。そしてそれは次第に大きくなって、二人の声をかき消した。
 二人は否応なく会話を中断して空を見上げた。それがこの辺りに住む人たちの習慣なのだ。樹木に縁どられた空はまるでポストカードのように見えて現実味がなかった。それは果てしなく青く爽快な空だった。
 その澄み切った空に一機の巨大な飛行機が現れたかと思うと、それは腹をこちらに見せつけるようにしてやってきて、とてつもない音を立てながら空の真ん中を横切っていった。まるで世界を真っ二つに切り裂くような優雅な滑空だ。僕は呆然とそれを見ていた。それはいつもの飛行機よりも数倍迫力があり、風が頬をかすめたかと思うと、次にはすさまじい突風がやってきて辺りの草木が一斉に暴れだした。それとともに騒々しい飛行機の音が鳴り響いた。その音は体の内側にまで響き渡るようで、風と相まって自分がどこかへ吹き飛ばされてしまうのではないかと思うほどだ。それは不思議な浮遊感をもたらし、僕はそれに身を委ねた。幻想的な世界で幻想的な感覚に包まれ、心はいよいよ体と分離し、翼をもってそこで羽ばたいた。僕の心は裏庭の中を自由奔放に飛び回った。草花の間を縫うようにしてふわりふわりと飛行し、得も言われぬ高揚感で満たされていた。
 しかしその感覚を得たのは飛行機が頭上を通過したほんの一瞬のことで、飛行機が視界からいなくなると徐々に風は止み、音もなくなり、また穏やかな裏庭がそこに現れたのだった。そしてそれと同時にあの浮遊感はどこかへ消えてしまって、二度と帰ってこなかった。それでも浮遊感の名残りは幸福をもたらし、僕は清々しい気持ちでただじっと空を見上げ続けていた。
 横を見るとよっちゃんも同じように空を見上げていた。よっちゃんはいつになく真剣な目つきで空の彼方のどこか一点をじっと見つめていた。しかしその目つきはすぐに柔らかく崩れ、やがて視線を落とし、またしばらくどこか一点を見つめて、それからもじもじと恥ずかしそうにしながらよっちゃんは突然、俺はパイロットになりたいんだと言った。
 僕は驚いてよっちゃんのほうを向くと、よっちゃんは柄にもなく気恥ずかしそうにして砂いじりなんかを始め、一向に目を合わせてくれなくなった。唐突な打ち明けに僕は何と言っていいのかわからなくなってしまって、そのままよっちゃんの次の言葉を待った。よっちゃんは後ろを向いて花の蜜を三つも四つも吸ってから、うんとか、でもとか、やっぱりとか、最初の言葉が見つからないでいたものの、やがてぽつりぽつりとパイロットを目指すきっかけを話し始めてくれた。それは次第に語尾に力がこもるようになり、結局は夢中になってパイロットの凄さを語ってくれた。
「俺は空を飛びたいんだよ! だって、空は世界に一つしかないんだよ。だから空を飛ぶことができたら、どこにでも行くことができる。この世界のどこにでも。それってすごいだろ!」
 僕はよっちゃんがパイロットになりたいと思っていたなんてまるで知らなかった。それどころか飛行機が好きだということも、空を飛んでみたいという気持ちがあったことも知らなかったのだ。それはよっちゃんが口にするまで知らなくて当然の事実ではあったが、僕はそれまで長い時間をよっちゃんと過ごしてきて、そういった一面があるなんて思いもしなかったのだ。そうして夢を聞いているうちに、これまで一緒に過ごしたよっちゃんの姿が、すべてパイロットを目指す男の生き様として上書きされていった。僕は遠い目をして聞いていた話が徐々に想像の中で現実味を帯びていき、そうか、よっちゃんはパイロットになるのか、と感慨にふけっている間、すでに僕の頭上ではよっちゃんの操縦する飛行機が飛んでいるのだった。よっちゃんはこの大空を縦横無尽に飛び回り、こちらに手を振り、優雅に回転して見せたりしているのだった。その姿はかっこよくて、大人びていて、僕は想像しただけで楽しくなった。誰にも言うなよ、と念を押すようによっちゃんは言って、僕は力強く頷いた。僕は重大な任務を任されたみたいな大真面目な正義感を覚えた。
 こうして二人の共有する秘密がまた一つ増えたのだった。
 秘密が増えるたびに、二人の仲はより親密になった。よっちゃんならパイロットなれるよ、だって似合ってるもん。そう伝えるとよっちゃんは屈託のないまっすぐな笑顔で、ありがとうと言った。
「それで、お前は何になりたい?」
 そうよっちゃんが聞いた。表情はいたって真面目だった。よっちゃんが夢を語っていたときすでに、自分も答えなくてはならないと思っていた。今度は僕が恥ずかしがる番だった。
 僕はつい先ほどよっちゃんが夢を打ち明ける前にしていたのと同じように、視線を下に落として砂いじりを始めた。本当のことを言うと、僕には明確な夢があった。ただそれを人に教えるのにためらいがあるのだった。その夢は余りにも子供じみていて、人に話したら笑われる気がした。しかし僕の頭にはよっちゃんが初めて僕の絵を見たときの表情が浮かんだ。よっちゃんは目を丸くして驚き、僕の絵を褒めてくれた。そしてすごすごいと何度も僕に言ってくれたのだ。僕はそれを思い出すと、よっちゃんならすべて受け入れてくれるという気がして、ほっと息をついた。そうやって僕が逡巡している間もよっちゃんは空を見上げ、じっと僕の答えを待っていてくれた。
「画家になりたいんだ」
 そう僕は言った。よっちゃんはしばらく間をおいてから何度か頷いて、画家か、そうか画家か、うん、大丈夫、きっとなれる、お前ならきっとなれるよ、と言ってくれた。
 僕はその言葉がたまらなく嬉しかった。誰かに夢を打ち明けたのはそれが初めてだったし、それを受け入れてくれたのももちろん初めてだった。二人は顔を見合わせると、急に恥ずかしくなり、たまらず目線を外してそのまま空を見上げた。
 こうして二人が共有する秘密はまた一つ増えたのだった。
 二人はその後もしばらくそこで話をした。しかしお互いどこか上の空で、会話はどれも尻切れとんぼに終わった。二人は今しがた語り合った夢について考えていたのだ。初夏の心地よい風の吹く秘密の裏庭で、二人は空想に耽っていた。
 空には真っ白なキャンバスが浮かんでいた。いや、それは違う。空自体がキャンバスで、縦にも横にも斜めにも果てしなく続く余白が、僕のために用意されていた。そしてその上を、よっちゃんの乗った飛行機がスモークを焚きながら通過するのだった。二人は空を見上げ、それぞれの夢をそこに映していた。
 何にでもなれる気がした。
何もかもがうまくいくと、そう思った。


 よっちゃんの言う空は世界に一つしかないというのが本当なら、僕が今見上げている空も小学生の僕が見た空と同じであるはずだった。二人石段に座り、夢を映したあの空と同じであるはずだった。見上げた空の端っこにはまだ飛行機の姿があり、そうか、あれを見て今、よっちゃんとの記憶が蘇ったのだった、と僕は思い出した。
 いつの間にかよっちゃんとの思い出も遥か昔のものになってしまった。
 よっちゃんが今どこで何をしているかなんて、僕にはわからない。いくつか悪い噂を耳にしたことはあったが、僕はそれを信じないことに決めていた。そもそも噂なんて大概あてにならない。実際よっちゃんの姿を見ない限りは、噂が本当かどうかなんてわかりはしないのだ。それならば噂に一喜一憂することなく、僕なりに思い描くよっちゃんの現在を信じている方がずっと気楽だし、素敵だと思った。
 僕がよっちゃんに最後に会ったのは小学校の卒業式だった。中学が別々になるともうそれきりだった。しかしそれも自然の流れだったのかもしれない。二人は小学生のうちから時間が経つにつれ、互いの持つ価値観に決定的な違いがあることに気付き始めていた。それは当然まだその年で言語化できるものではなかったが、どうも一緒にいると落ち着かない、居心地の悪さをしだいに覚えるようになっていた。それにはやはりあのよっちゃんが抱えていた秘密が関係していたのだと思う。もしよっちゃんがその秘密を僕に打ち明けてくれていたら、少し違った結末になっていたかもしれない、とそう思う一方、人の巡りあわせなんて何度繰り返してもそう変わらないのではないか、とも思うのだ。人はそれぞれ生まれたときから将来の棲み分けが決まっていて、その過程で多少の紆余曲折があったとしても、結局は収まるべきところに収まるのではないか、と。一時期毎日遊んでいた二人は、出会ってから一年ほど経って嘘のように顔を合わせなくなった。そしてその関係を修復しようとするのは、かえってよくないように思われた。何もこうして事を大げさに語る必要もない、子ども同士の付き合いによくある話だ。小学校を卒業する頃には、どちらが歩み寄っても手遅れなほどに二人の間には距離ができていた。それから僕は僕の人生の道を歩みだし、そこからよっちゃんはさっぱりと退場したのだった。
 ただ高校のときに一度、僕は街でよっちゃんのような人を見かけたことがある。
 その人はすらりと背が高く、髪は長く首元まであり、見かけは僕の知るよっちゃんとはまるで違かった。しかしその人に帯びる雰囲気は、よっちゃんとそっくりそのままなのだった。僕は声を掛けようかとずいぶん悩んだが、悩めば悩むほどまるで別人のように見えてとうとう声を掛けられなかった。
 しかし今思い返すとあのとき声を掛けなくてよかったのだと思う。たとえあの人がよっちゃんだったとしてもそうでなかったとしても、僕にとってのよっちゃんは、小学生の頃の、それも最も仲が良かった頃の、無邪気で乱暴で少し寂し気なところのあるあのよっちゃんだった。それ以上でもそれ以下でもなかった。だからわざわざ更新する必要もないのだ、と自分に言い聞かせるようにして僕は思う。
 もちろんこれがただの僕の臆病だということはわかっている。けれども僕はどうしても、よっちゃんとの思い出は綺麗なまま残しておきたかったのだ。それほどまでに二人で共有した時間は完璧なものだった。それは時間をおいてますます美化され、今ではもう事実だけを思い出すのが困難なほどだった。そして僕がこれほど懐古に逃げようとするのは、やはりどうしても、よっちゃんの現在について何かと不安が尽きないからに違いなかった。
 頭上の飛行機は、僕があれこれと苛んでいる間にどこか遠くへ行ってしまった。もう遠い昔に視界から消えて、そこには茫漠な空があるだけだった。
 ひょっとして、と僕は思った。
 あの飛行機にはよっちゃんが乗っていたのかもしれない。
 それは僕が飛行機を見てよっちゃんを思い出すたびに、必ず思うことだった。
 僕は確信めいた気持ちを抱いていた。ひょっとして、と思ったときには決まって、その飛行機によっちゃんは乗っているのだった。そしてその想像は、僕が信じ続ける限りあながち的外れにはならないようだった。袖の余る機長服を着、腕一杯伸ばし操縦かんを握り、高度四万フィートの空をよっちゃんは飛んでいた。そしてこちらに手を挙げ、にやりと笑い、一気に加速してそのまま僕の届かない向こうの空まで飛んでいってしまうのだった。そんなよっちゃんの姿を思うたび、僕は胸が高鳴って震えてしまう。ふと童心に帰り、何者でもなかった昔を思い返すのだ。そしてそれは今だって変わらない、僕は何者にでもなれるのだと気付く。なにしろよっちゃんはこの広い空を今も飛び回っているのだ。僕にとってよっちゃんと過ごしたあの一年間の記憶はかけがえのないものだった。僕はよっちゃんが大好きだった。


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