【教育×小説】本質研究所へようこそ(6)【連載】

「こちらは?」
見慣れない顔に気づいたユキが聞いた。
「チロウくんだ。この研究所に通うことになった新しい仲間だ。仲良くしてやってくれ」
「そうなの。チロウくん、よろしくね」
「よろしくお願いします」チロウは挨拶を返した。溌剌とした雰囲気と、笑顔が特徴的な可愛らしい人だ。
「この子はユキちゃんって言うんだけど、高校二年生で、なかなか優秀な進学校に通っているんだ」
「そうなんですね」
「たいしたことないよ。チロウくんの家はこの辺?」
「はい。歩いて15分くらいです」
「そう。まあこの研究所は自由な雰囲気だし、学年ごとの上下もあんまり関係ないから、仲間だと思って仲良くやっていきましょう」
「はい!」
こんな才色兼備な女子高生のお姉さんに「仲良くしよう」なんて言われた経験がなかったから、チロウは少しドキドキした。

「じゃあこの研究所でやるべきこと3つのうちの、1つめの「本を読む」に関連して、「本を読むことの大切さ」「読書をして語彙を増やすこと」について、少し説明しよう。せっかくだからユキちゃんも聞いていってくれ」
「はーい」
そう言って、所長はユキをチロウの隣に座らせて、説明を始めた。


「昔に比べて現代の人は小説を読まなくなって、知っている言葉が少なくなってきているというのはよく言われているよな。明治や大正、昭和のはじめなんていう時代には、とにかく娯楽と言えば小説だった。ネットもなければゲームもない、テレビも漫画もないとなれば、フィクションの世界を楽しむには小説しかなかった。それで多くの庶民が、漢文の素養を身につけた文豪の書いた本を貪り読んだんだよ。
しかし今の時代、小説を読むことは娯楽としての地位を大きく下げてしまった。せいぜい小学校から高校までの国語の授業で、古典と言われるような作品を読まされるくらい。多くの現代人はわざわざ堅苦しい小説なんか読まない。社会人が一生懸命読んでいるのはせいぜいビジネス書と自己啓発書だ。そういうものは易しい言葉で書かれているから、現代人は語彙が貧弱になっている。分かりやすい言葉で、文字数も少なく、簡単に読めるものが好まれる。

その結果どうなるか。少ないストックで会話をすることになる。典型的なのが若者言葉だな。たとえば今「ヤバイ」という言葉がいろんな意味に使われていると思わない?良い、悪い、美味しい、不味い、面白い、つまらない、変わっている・・全部「ヤバイ」だ」
言われてみると、たしかにいろんな場面で使える言葉だ。
「今どきの高校生だと「無理」とか「○○み」とか「卍」かな。」とユキは言った。なんでも、「無理」という言葉に通常の「できない」や「耐えられない」という意味の他に、「好き(すぎて無理)」とか「おいしい」という、最上級の肯定の意味があるそうだ。「○○み」は形容詞を名詞化するかたちだが、語感を可愛くするだけの時もあるようだ。
「卍(まんじ)」は本当に語感の面白さ以外に意味はないらしい。

「それはある意味では高度な言葉の使い方ともいえる。言葉の意味を拡張させていくというのは一つの進化だし、現にそうやって言葉は時代を経るごとに変わってきている。コミュニケーションコストが下がるというメリットがある。仲間内だけで通じる言葉は結束力を高めるという効果もある。隠語とかジャーゴンっていうのはそういうものだ」
「ギャル語とか2ちゃん用語とかあったよね。そのまま定着するものもあれば、消えていくものもある」
「そもそも辞書に載っている説明は「言葉の本当の意味」ではない」
「ええっ。違うの?」ユキが驚いたように言った。
「本当の意味なんて、一体誰がどんな権限で決めるんだっていう話だ。辞書で説明されるのは「代表的な使用例」に過ぎない。だから広辞苑も版を重ねるごとに項目が増えていっている」
なるほど。僕たちは辞書に書いてある説明というものを重視しすぎているのかもしれない。言葉は変化していくものなんだ。

「でも君たちには語彙を増やす方向に努力していってほしい。まさに過去の多くの使用例を勉強していくというかたちで。何でもかんでも同じ言葉で表現するというのは、まあ効率は良さそうに思えるけど、楽な道に流されている感じがする。それに歴史の淘汰を生き延びてきた言葉をこそたくさん知ってほしい。知らない言葉をインプットしていく作業は労力がいるかもしれない。だけど、人はある程度負荷をかけないと成長しない。むしろ同じ感情をいかに違う言葉で表現できるかということにチャレンジしてみてほしい」

「例えばカワイイという言葉。女子高生はなんでも「可愛い」と言えば足りると思っているのかもしれないが、「可愛らしい」「愛おしい」「愛くるしい」「可憐」「麗らか」「見目麗しい」「めんこい」、あえて英語をカタカナで言うのも面白い。「キュート」「プリティー」「チャーミング」。英単語の知識も増えて一石二鳥だ。興味を持ったらそれぞれのニュアンスの違いを辞書で調べてみよう」
同じ感情を表す言葉としてたくさんの種類があるのは確かにややこしいけど、それを整理したり語源を調べたりするのは面白いかもしれないなとチロウは思った。
「そのためには文豪の小説を読むのが最適なんだよ。ちょっと古い時代のお堅い小説。例えば漱石とか」
「あっ、夏目漱石はちょうど春休みの研究で調べていたところです」チロウは反射的に言った。そういえばこの本質研究所を最初に見つけたのも、漱石の墓を訪れたのがきっかけだった。
「ほう。良い題材を選んだね」
「この前、現代文の授業で『こころ』をやったよ。なんだか辛気臭い話だったな。Kが自殺するの」とユキが言った。
「明治期に活躍した、日本を代表する文学者だ。デビュー作の『吾輩は猫である』はタイトルから設定からあの有名な書き出しに至るまで、当時にしてはものすごく斬新で、今でいうとライトノベルのような楽しさがある作品だ。これは圧倒的に当時の人たちに受け入れられた。掲載された雑誌を町中で回し読みしたそうだよ。それで名声を上げた漱石は、後に新聞紙上で小説を連載するというスタイルを確立した。ある時期からの漱石の作品はだから、きれいに一定の文量で区切られている。あ、チロウくん。この話も春休みの課題に生かしてくれよ」
そう言われたチロウは「あっ」と思い、急いでノートを開いてメモをした。吾輩は猫である、ライトノベル、新聞で連載、・・

「この時代の文学者の作品を読むと、現代人には聞き慣れなくなった言葉がたくさん出てくる。そこでできれば脚注を読んだり辞書で調べたり出れば良いが、まずはその言葉と「出会う」というのが第一歩だ」
「言葉と出会う・・」とチロウはつぶやいた。面白い表現だ。
「そう。どこかで見たことがある、というレベルにしておくだけでも効果がある」

「例えば『坊っちゃん』の中で、赤シャツという帝国大学出の教頭を評する言葉でこんなものがある。
「ハイカラ野郎の、ペテン師の、イカサマ師の、猫被りの、香具師の、モモンガーの、岡っ引きの、わんわん鳴けば犬も同然な奴とでも云うがいい」
なんだかよく分からないけど、悪口を言っているというのはなんとなく伝わってくるだろう」
「現実世界でそんな次から次へと悪口が出てくる人いるかな」とユキが応じる。
「確かに現実にこんな口が立つ人間がいたら嫌だ。小説だからこそだよな。これがフィクションの面白さだよ。こんな具合に、質の高い小説というのは、新しい言葉に出会うための宝庫だ」

「新しい言葉を獲得するというのは、それまで自分の中になかった新しい概念を獲得するっていうことなんだ。それは自分が認識できる世界を広げていくということに他ならない。だって知らないものは認識しようがないだろう。
ある言葉が自分の語彙にないということは、その言葉が持っている意味・感覚・世界観を認識することができないということだから、それだけ自分の世界が貧しい状態だ。それに、言葉は思考の道具でもあるから、言葉がなければ思考を深めていくこともできない」

思考を深めるのにも言葉が必要。チロウにはまだその実感をつかむのは難しかった。

「もっと言えば、外国語を勉強するというのも、その国の文化や考え方を吸収するということになるな」
「じゃあ私たちが英語を勉強しているのも、欧米の文化を取り入れているということなのね」
「そういうことだ。英語を勉強する意味が分かっただろう。テクニカルなことを言えば、英単語を覚えるのだって一緒で、何回も目に触れるということでしかない」

「たとえば、愛とか正義とか友情とか、抽象的な概念をどうやって獲得していくのか。それは、豊富な言葉を頭にインストールしている状態があって、歴史上の出来事や目の前で起こった出来事と結び付けて、初めて言葉の運用が可能になる。だから自分の中の世界を広げるには何をおいてもまずは言葉を知っていないとどうしようもない」

「でも下品な言葉でもいいの?今みたいな悪口だってそうだし、小学生の男子とか汚い言葉好きじゃん」
「下品な言葉なんか小学生の男子に限らない、老若男女誰でも使うよ。場面によって使う言葉を変える、それが人間社会で生きるということだ。言葉に対する興味が持てるならそれで良いじゃないか。例えば小学生が「うんこ」を好きなのはよく知ってるよな」
「あー、そうだね」ユキが笑った。
「彼らは「うんこ」と言っておけば永遠に笑っていられる。それを逆手に取ったのが、漢字ドリル界に革命を起こした『うんこ漢字ドリル』だ。日常生活ではお目にかかれない「うんこ」を使った例文を楽しみながら読んでいく中で、漢字とその使い方を学んでいく」
「楽しみながら勉強にもなるっていうわけか。そこはメリットに目を向けるのね」

「もちろんある程度の年齢になったら下品な言葉は使うべきじゃないと思うが、そもそもそれが下品な言葉であるということだって学んでいかなきゃいけない。相手を傷つけるような差別的な発言、場にふさわしくない、相手に失礼に当たる、あるいはコンプライアンス的に使わない方がいいとか」
「あっ、そうか。知らないで使っちゃうこともあるかもね」

「そう。昔は良かったけど、今は使わなくなっているということもあるからね。ポリコレを意識しないといけない現代においては特にそうだ」
「確かにね。良くない言葉だからって教えないのは弊害があるのかもしれない」
「そうだ。もっと言うと政治的な思想とか性教育とか、今の公教育では教えてなさすぎる。過剰にタブー視してしまっているんだな。これも良くない」
この二人のやり取りは話の展開が速い・・チロウには付いていくのがやっとだ。「ポリコレって何ですか」チロウは思い切って聞いた。
「ポリティカルコレクト。政治的に正しいってやつさ。たとえば差別用語を使わないこと。もう古すぎて知らない言葉が多いと思うけど、めくらとかかたわとか、エタ・ヒニンとか。
最近では、ジェンダーの意味を含んでいる言葉は使わないようにするのがグローバルな流れだ。いろんな職業の、特に女性を表すような言葉は使われなくなってきた。婦警、看護婦、保母さん、スチュワーデス、etc。当然ながら、男女平等の空気が出来てからは、必ずしも女性性を強調する必要がないからだ。こういう言葉は俺が子供のころには、普通に使っていた」
聞きなれない言葉ばっかりだ。やはり時代とともに言葉というのは変わっていくんだなと思った。
「これが浸透した現在では、小学校でも男子に「くん」、女子に「ちゃん」とか付けちゃいけないそうじゃないか」
「ええっ。じゃあ一体どうやって呼ぶの」ユキが驚いたように言った。
「上品な学校では男女ともに「○○さん」と呼ぶらしい。俺はそういう杓子定規な平等主義は好きじゃないけどね。いくら何でもそれはやりすぎだ」

「俺の好きな言葉に「量が質を担保する」というものがある」
「どういうこと?」
また難しい言葉が出てきたな、とチロウは思った。タンポするタンポする。
「質と量、英語で言うとクオリティとクオンティティ。これは対義語で、どちらが大事か、どちらが優先されるべきかというのはよく議論される。もちろん両方大事なんだが、俺はどちらかと言えば「量」が先だと思っている」
チロウはどちらかというと「量より質」が大事なんじゃないかと思っていたので意外だった。
「よく世の中の親が「子供がすぐに下品な言葉ばっかり覚えて帰ってくる」などといって嘆いている。もちろん下品な言葉より上品な言葉をたくさん覚えるべきだけど、そんな文句を言う暇があったら、それに負けないくらい大量に良質な言葉を親が教えていけばいいだけだ。例えば「そういう時は、こう言いなさい」とかね。良い言葉も悪い言葉も大量に取り入れることによって、自分の語彙は洗練されていくんだよ。それに、幼少期の子供がどこから言葉を覚えていくかって言ったら、圧倒的に長く接している親からに決まっている。子供なんて他人の使っている言葉を真似しているだけなんだから」
「やっぱり身近な大人の責任は重大だね」

「もちろん密度で言ったらクラスメイトから受ける影響も大きいだろう。だけどそれに負けないくらい、長時間を共に過ごす親の影響が大きいことは明らかだ。乱暴な言葉使いをしている子供は、たいてい親と同じ言葉を使っているんだよ。そういう親がどこかにいるんだ。郊外のショッピングモールなんか行くと、よくそれを感じる」
さらっとトゲのあることを言う人だ。
「質の高いものも低いものも大量に浴びることによって自分の中の感度が上がって、質の高低を即座に判断できるようになる。そして質の中くらいのものや低いものからも、学びを得られるようになる。ここまで持っていくには圧倒的な物量がものを言う。厳選して質の高いものを~なんてチンケなこと言ってちゃいけない。
これは本や映画や漫画も一緒だ。皆も何か本を読んだり映画を見たり、外食をする時にレビューサイトを調べたりしない?」
「まずネットでの評判は調べるよね。私は食べログをよく見るかな」
「マンガや本を探しているときamazonの評価はチェックします」

「もちろんそういったレビューサイトを利用しちゃいけないというわけじゃない。むしろうまく活用するべきだ。今は何を買うにもまずはAmazonだし、全ての商品についてレビューが付いていて、それを視界から外すという事の方が不可能だろう。だけどそこで全てのコンテンツについて他人の評価を基準にするという発想は注意したほうがいい。人生におけるあらゆる判断を、他人の意見を基準で選ぶ人間になってしまうからだ」

「だけどお金と時間をかけたものがつまらなかったらイヤじゃない?ねーチロウ」
「そ、そうですよね」急に呼び捨てにされて戸惑った。
「ノーノ―ノー。君たちはまだ甘い!そのつまらなかったという経験さえも学びになっているはずだ。何かの作品に触れることに無駄なことなんて、原理的には存在しない」

「最近は効率を求めすぎるあまり「最初から質の高いものを」と考えがちだ。現代人はとにかく損をしたくないという思いが強いんだろうな。つまらない作品だったら時間の無駄だとか思っている。何でもかんでもクチコミやレビューの点数を調べてから行動に移そうとする。中途半端に自分は賢いと思っている消費者ほど、こういうものに群がろうとする。それを利用するのもある意味賢い行動かもしれない。だけど、本当の価値ってのは自分で実際に体験しないと分からないはずだろ。

例えばすごくダメな作品に出会ったとしたら「このタイプの作品は自分には合わない」という学びになるし、「どういう構造がダメなのか」という視点が得られるかもしれない。つまりどんな作品からだろうが学びを得ることができる。これ、エジソンの「私は失敗したことがない。ただ、1万通りのうまく行かない方法を見つけただけだ」という名言に通じる話だからね。
良いも悪いも含めて多くの作品に触れていると、質の高低を判断するセンサーが研ぎ澄まされていく。何が良くて何がダメなのかという感覚を研ぎ澄ませておくことは、いずれ自分が何かを表現するときに大いに参考になる。
俺はこれを「どっちに転んでも良い理論」と名付けている。本質教育所のメンバーたるもの、そういう姿勢であらゆるものごとに臨んで欲しい。」

(次回に続きます)


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