【教育×小説】本質研究所へようこそ(8)【連載】

さぁ、読書を通して言葉を獲得していくということの大切さを説明してきた。理科や社会に限らず、新しい熟語や表現に出会ったときに、イメージができない生徒ややる気がない生徒はここで脱落して、シャットアウトする。一回その習慣が付いたら、よほど意識して改善しない限り、これはもう差が開くばかりだよね。これでテストで点が取れない、自分の頭で考えることをしない、学習に無気力な人間の出来上がりだ。世の中には驚くほど言葉を知らない人がたまにいるけど、それは人生のどこかのタイミングで、新しい単語(熟語)に出会っても一切覚えない、これは自分の知らない世界だと決めていると見て間違いない。それも無意識のうちにね。この小さなことの積み重ねなんだよ。世界の分断はここから始まっている」
「そっかー。語彙がある人は良いよね。教科書読んでてもあんまりストレスがなくて、早く理解できるってことでしょう」ユキが言った。
「そのとおり!ドラクエで最初から強い武器を持っていてサクサク進めるような感じだな。でもね、元々すべての言葉を知っている人っていうのも当然ながらいないんだ。だって誰もがみんな赤ちゃんだったわけだから。しかしいつの間にか大きな差が開いてしまうことになる。じゃあなんで差が生まれるのかというと、やっぱり幼少期からの言葉との向き合い方なんだよ」
言葉との向き合い方・・。
「もともと人間っていうのは知的好奇心を持っているものだ。分からないものが目の前にあったら分かろうとする。知らない言葉を聞いたら知りたくなる。赤ちゃんを想像してみたらよく分かるだろう。何でもかんでも興味を持って、触ろうとする。口に入れる。知らない人がいたら顔をじっと見る。動くものを見ると目で追っかける。新しい世界を知ることこそが快楽だからね。新しい文字や漢字の読み方、本の中で見つけたキャラクターや動物の名前を覚えては親に披露して見せたりするものだ。

「でも成長する過程で、その好奇心もどこかで遮断されてしまう。そのときに一番の障壁になるのは何だと思う?チロウくん」
好奇心が遮断されてしまう理由。「スマホとかですか?」チロウは答えた。
「それはどちらかというと、集中力が続かなくなるとか、依存症とか、そっちだな。使い方次第ではむしろ役に立つものだ。」
「単純に飽きるから?」ユキが答える。
「性格的に飽きっぽい人もいるだろう。あるいは記憶力が良いとか悪いとか、好き嫌いとかも多少は影響しているかもしれない。だけど最もインパクトがある、誰しもに決定的な影響を及ぼす要因がある。それが「親の接し方」だ」
「言葉との向き合い方」と「親の接し方」にどんな関係があるのだろう。

「言葉をしゃべり始めたしばらく経った子供が、キャラクターの本やいろんな図鑑で覚えた名前を覚えたときに、最初はそんな風になんでも興味を持つ赤ん坊をほほえましく思っている親も、忙しい毎日の中で、ついつい相手をするのが面倒くさくなって「そんなこと知らなくて良いんだよ」「何でもかんでも聞くな」「そんなこと知ってどうするの」なんて言ってしまう。子供がお母さんに話しかけてもスマホに夢中で知らんぷり。そうすると子供はいつしか自分で知的好奇心の芽を摘んでしまう。そういう好奇心を持っちゃいけないんだってマインドセットをする。それはその後の長い人生の最後までずっと続く。三つ子の魂は百まで続く。初めて聞いたよく分からない言葉に対しても興味が持てない、向上心のない無気力な人間の出来上がりだ。

「じゃあどうすれば子供は好奇心を失わないで済むの?」

「それは2つポイントがある。一つ目は親が「子供の好奇心を枯らせてはいけない」という意識を強く持って、徹底的に背中を押してやることだ。子供が新しいことを習得した時に「えらいねえ」「よく知っているねえ」「その後はどうなるの?」と背中を押して、良質な絵本やおもちゃや映像をどんどん与えてやる。ここでも物量作戦だ。特に小学校に入るまでは意識した方が良いだろう。

そして二つ目は「親自身が知的好奇心にあふれている姿を見せる」ということだ。普段からニュースを見て映画を見てテレビを見て、本を日常的に読み、知らないことは調べて、新しいことに常にチャレンジする、という風に学び続けている姿を見せることだ。人生において「学び」に終わりはないからな。子供に聞かれて答えられない質問もあるだろう。その時は一緒に調べる、一緒に考える。子供なんかそっちのけで親自身が何かに没頭しているくらいでもいい。結果的にそれが子供に強烈に背中で語っていることになる。

「言葉だけを単独で身につけていくということは、基本的にはない。何かの対象に付随して身につけていくものだ。その時に、何かに没頭するということが重要になってくる。それなのに、親というのは子供が極端に何かにハマっているのを見ると不安になってしまうものなんだな。これじゃあせっかく伸びる芽を摘んでいるようなものだ。」
「やっぱり遊んでばっかりになったら困ると思うからじゃない。それこそオタクや引きこもりになったりとか」とユキ。
「今だとツイ廃や課金厨かな。もちろんその対象の質には注意を払うべきだ。画面がただピカピカ光るだけのゲームだったら、中毒性ばかり高くて得られるものは少ないだろう。パチンコやパチスロなんかとも親和性が高そうだ。だけどパズルやクイズ、頭を使うゲーム、あるいは箱庭ゲームというんだけどマインクラフトのような建物を作って壊したり、シムシティのように街を作って運営したり、遊び方を開発するような創造力を刺激されるゲームは、ハマっている時こそもっとも脳細胞が活性化していて、シナプスが鍛えられている最中だ。だからテレビゲームなんかも物によっては悪くない。他にも、男の子にありがちだが鉄道や昆虫や恐竜や特撮のキャラクターなんかに夢中になるのだってそうだ。そういう子供を見ていると、親は「こんなことばっかり夢中になって、将来何の役にも立たないのではないか」と不安になる。だけどそこをグッと我慢だ。学校の勉強と関係ないからといって、安易にその興味の芽を摘んではいけない。例えば電車にハマった小学生が、路線の駅をすべて把握しようとして、知らず知らずのうちに異様に漢字を覚えてしまう例というのはいくらでもある。鉄道路線を頭の中でイメージすることは、数学の幾何的なトレーニング(グラフ理論)そのものだ。鉄道や昆虫にハマったら、絶対に地理のことや動物の生態について詳しくならざるを得ない。これ以上に本質的な学びなんて存在しないだろう。だから子供がそんな風に夢中になっていたらむしろいろいろ買い与えて、背中を押してやるくらいが理想だ。」

「学校の宿題をやらずに、趣味のことばっかりやってたらどうするの」
「良いじゃないか。子供がハマるものなんかたかが知れている。そのうち飽きるさ。大事なのは外野から止められないこと。「飽きるまでやる」というのが、自分を見つめるいい経験にもなる。自分というものが分かる瞬間だ。充分やりきったという達成感もある。逆に「子供のころに好きなことを諦めさせられた」という印象は永遠に消えない。一生親に恨みを持つことになる。」
「こわいこと言うよねえ・・」そう言ってユキは同意を求めてきた。チロウは苦笑いで相槌を打つしかなかった。チロウは何かにハマったという経験はない。いや、お笑いのネタ番組を何度も見るのは好きだし、同じバラエティ番組を何度も見るのは好きだけど、辞めさせられたという意識はない。それは結局、勝手に飽きてしまったというか、そもそも大した熱量じゃなかったということだろうか。だってただ見ているだけだから。
「それに、奇跡的に大人になるまで飽きなければ、それはそれで大したものだ。一流の研究者になるかもしれないし、それを生み出す側(クリエイター)になるかもしれない。どちらにしろ損することなんてないんだ」
「また「どっちに転んでも良い理論」ね」とユキ。「その点私は好きにやらせてもらっているのかなあ。小学校の時に合唱団を立ち上げてから今も外部の団体でずっとやっているし、部活の掛け持ちもできているし」
「素晴らしい!ユキちゃんの行動力と、親御さんの包容力のたまものだな。放任しているだけって可能性もあるが、笑。そのまま継続すればいずれ大物歌手になれるかも知れないよ」
「いやぁーそれは無い(笑)。来年は受験生だし、いつまで続けられるか分からないよ」

「それなのに、本当の教育のことを分かっていない親(バカな親)は、何かに夢中になっている子供を止めてしまう。酷いのになると子供が楽しんでいること自体が不安だという親もいる。勉強だけが役に立つのであり、勉強は苦しいものであるから、苦しんでいないといけないと思い込んでいる。そんな親が以前にNHKの教育番組で語っていて、これ以上の害悪はないと思ったよ。恐らく親自身が好きなことに夢中になったことも、それを肯定される経験もなかったのだろう。これは「自分は苦しんだんだからお前も苦しめ」っていう典型的な僻みと捉えることもできる。これをモラルハラスメントと言う。こんな親だったら、誰か別の大人に育ててもらった方がよほどマシだ。」

「子供の学習機会を、親が奪ってしまうこともあるのね」
「大ありだよ。というかほとんどすべてだと言ってよい。親、兄弟、友達、etc。夢をつぶしたり、成長のチャンスを奪ってくるのはたいてい身近な人間だ。しかもその親が善意でやっているつもりなのがタチが悪い。
ヨーロッパのことわざでこんな言葉がある。「地獄への道は、善意で敷き詰められている」。これは多くの親世代が時代の変化についていけていないからだ。30年くらい前までにはある程度、親がやってきたやり方を真似すれば良いという時代があった。それも強烈な成功体験とともにあった。しかし今は違う。上手く遊び、趣味や芸術を突き詰めた人が、その遊び方を披露することで評価される時代だ。それなのに、そのことに気づいていない親はいまだに遊びなんかやめて学校の勉強(受験に特化した暗記)をがんばらせたいと思う。それは苦しいことに違いないし、それでいいと思い込んでいる。本当は本気の「遊び」こそが重要なのに。」


「そして二つ目の「親自身が背中で見せる」という点では、親がどんな言葉を使っていたかで、おそらく小学校入学時点でもう語彙力に決定的な差がついてしまっている。両親の語彙がそのまま子供の語彙に反映されると示している研究もある。
だいたい子供にたくさん本を読んで勉強してほしいという親自身が、家でろくに本も読んでおらず、そもそも家に良質な本がぜんぜん置いていないというんじゃどうしようもない。親が勉強していないで、子供には勉強させたいなんて虫が良すぎる。トンビは鷹を産まないのだ。よく子供を塾に預ける親で「うちの子は理科と社会が苦手だから何とかしてほしい」と丸投げするのがいるが、子供をそういう状態に仕向けたのは間違いなく親の責任だ。親自身に知的好奇心がなく、義務教育レベルの知識もないから教えることもできないのだろう。

「背中を押す言葉がけの重要性を理解し、知に前向きな姿勢を背中で示し、あとは適切な環境さえ準備してあげれば子供は勝手に学習していく。運よく好奇心の芽を摘まれずに、いろんなことにハマった経験のある子は、何かの知識を増やすということの快感をその後の人生においても大切にする。すると、どんな方向の知識もとりあえず受け入れるというマインドセットが形成される。知識のチャネルが開かれるといったイメージだ。ある対象を好きになっても良いんだと自覚する。それは「自尊心」や「自己肯定感」にもつながってくる。自分で何かを決めてもいいという自覚が、決定的に大きい。逆に、そういう自信を身につけられないと、大人の目を気にして言われたことだけをやる受動的で無気力な人間になる。塾に来ても「何を勉強すればいいですか?」と聞いてしまうタイプだ。

「そしてそれは昨今よく言われる「使えない新入社員」の姿そのものだ。あるいは大学生で就職活動が始まる段になって「自分はこんなことがしたい」という想いがなく、定型文でエントリーシートを埋めることになる。そうすると雇ってくれるところであればどこでもいい、となってしまう。ブラック企業が生きながらえているのも、そういう人がとても多いという証拠だ。」

「よく大人になっても好きなことをアレコレ楽しんでいる人を「少年のような心を持っている」なんて言うことがあるよな。」
「私の中では所長がそんなかんじ。いろいろ好き勝手なことやっているよね」
「おおっ!そう見える?
一般的に、大人になるということは、日常の中に感動や新たな発見がなくなり、空気を読んで、好きなことが何だったのか忘れてしまうことと思われがちだ。そういう大人が多い中で、まれに好奇心と日常の感動を保ち続けている「少年のような人」がいて、目立って見えるんだな。だけど俺はそんなふうな整理はしたくない。

やっぱり全ての人間は成熟した大人になるべきだと思うからだ。憲法上の話はさておき、「大人」というのは年齢で区切れるものではない。例えば文句を言わずに誰かのための仕事ができたり、周りの状況に目くばせができたり、見えない他者を思いやれたり、身の回りの人間を助けてあげられる人間が「成熟した大人」であり、年齢は関係ない。逆に自分の権利ばかりを主張したり、誰かの痛みを理解する想像力がなかったり、目の前にある問題を見て見ぬふりをするような人間は、年齢だけを重ねてしまった「自称大人」であり、精神的には子供だ。

そして本来の人間が持っている好奇心を(年齢上の)子供の専売特許にするつもりもない。向上心と言っても良いが、新しいことを学び、自分を成長させることには終わりがないはずだ。それなのに、大人になると好奇心や向上心をなくすのが当たり前だというような認識がはびこっている。AIの発達で、人間がやらなければいけない仕事がますます減っていくこれからの時代には、いかに遊んでいかに没頭できる趣味を見つけるかということが大切になってくる。だから、本来生まれ持った好奇心を保ったまま、成熟した大人になるというのが理想だ。

「自分の欲望をセーブして、周りに合わせるだけの自称大人」と「人間が本来持っている知的好奇心を保ち続けている成熟した大人」。どっちが人生を楽しんでいるかは一目瞭然だ。ユキちゃんやチロウくんはどんな大人になりたいと思う?」



「実はこれが勉強ができる・できないの境目になっているんじゃないか。」
「勉強にもつながるの?」
「そりゃあそうさ。漢字を覚える鉄オタ小学生は日本の地名や都道府県に詳しくなるかもしれないし、昆虫や魚や植物が好きならまず理科という分野に拒否反応を示さなくなる。本や図鑑を眺めることが多ければ言葉や文章にもたくさん触れるだろう。勉強に対する最大にして唯一のハードルが言葉だからだ。そこをほとんどゼロに設定できるのは決定的だ。こういう子供は新しい知識を獲得することにも前向きだから、テストでも当然のように良い点数が取れる傾向がある」

「歴史や地理、宇宙、地学、物理現象、原子など、この世界の本質に即しているのが理科社会であり、勉強が苦手な子が特に敬遠しがちなのもまた理科社会という科目だ。そして、小学生で「博士」というあだ名をつけられるタイプはだいたい理科社会が得意な子供だ。ただ、この傾向を理科社会だけに留めておくのはもったいない。これの裾野を広げたい。」

「裾野を広げるって言ったって、いったいどうしたら良いの」ユキが聞いた。
「一番いいのは小学校に上がったら、児童一人ひとりの机の上に国語辞典を置いておくことだ。そして初めて聞いた言葉はすぐに調べるという習慣をつける。君たちも子供の頃、辞書を引くのが楽しくなった思い出はないか」
そういえばチロウは学校の机の中に、手のひらサイズのミニ国語辞典を忍ばせている。確かに、次から次へと関連する言葉を調べていくのが楽しかったことがある。でも結局、それがずっと続いたということはなかったなあ。
「それそれ!誰しも一度はあるんだよなあ。あれをもっと教育現場で重視するべきなんだよ。辞書で調べている時間は先生の話を聞けなくなると思うが、何か気になったらすぐに辞書を引く「引きグセ」をつけることの方が、長い目で見たら重要だ」

「小学一年生で辞書は早くない?」
「いや、実際に愛知県刈谷市の小学校で、全員の机の上に国語辞典を置いて、わからない言葉が出てきたらすぐに調べるという実践をした先生がいる。ポイントはそれを一切机の中にしまわないということだ。その教室では単語を調べるたびに付箋を貼っていったら、ある生徒が付箋の数が5000枚にもなって、とんでもなく分厚い、形の崩れた電話帳みたいになっていたそうだ。半分はゲーム感覚だよな。」
「途中から付箋を貼るのが楽しくなっちゃったんじゃないの?」
「それが原動力でいいじゃないか」

「もう一つ重要な観点から。今だと電子辞書やスマホで検索も出来るかもしれないが、慣れてしまえば紙の辞書をぱっと開いた方が速い。そして学童期には特に紙の辞書をおススメしたい。それは同じページ内で、ぱっと多くの言葉が目に飛び込んでくるからだ。「見たことがある」っていうレベルで十分なんだよ。同じ理由で「紙の新聞を取っている家庭の子供は、学校の成績がよい」という統計的な傾向がある。新聞は大人の世界で使われる熟語や堅い表現のオンパレードだから、仮にテレビとスポーツ欄だけ見ていたとしても、見出しなんかで自然に言葉を目にすることになる。できれば社会面のニュースを家族で話題にしていたりするとなおよい。それは親にも社会への関心や教養が求められるということだ」

「辞書とか新聞とか、すこし古いような気がするけど、そういうものの価値はまだまだあるってことなのかな」

「そう。紙の辞書の話に戻るけど、さっきの話には重要な知見が潜んでいる。それは辞書を机の上に出しっぱなしにしておくこと。たとえそれでスペースを消費してしまったとしても。つまりすぐに行動をするためには、そのためのコストを最小限にしておくということだ」
「コスト・・」
「そして、辞書を机の上に常に出しておく、箱やケースにしまわないということが大事だ」
「そっかあ、ケースにしまったりするとそれだけ出すのが億劫になるよね」
「立派な箱に入れたり、大切にしまっていると、使う頻度が減ってしまうということがある。そのような状態を本末転倒という。人は使ってこそ価値のあるものを、大事に保管して綺麗に保とうとする。まあそれは余裕のある大人がすることだよ。道具というのは本来、使われてなんぼのものだ。道具の気持ちになってみたら・・大事に保管されてホコリをかぶるよりも、頻繁に引っ張り出されてボロボロになったほうが嬉しいんじゃないか」


「理科や社会で漢字の割合が多いのは、あたらしい概念や現象が熟語で出てくるからだ。社会なんかはここに日本中、世界中の地名や人名が漢字で出てくるから大変だ。しかも漢字がただの当て字で意味を表していなかったり、特殊な読み方だったり、常用漢字でないものも多い。これはいよいよ本当に暗記するしかない。教科書をちょっと俯瞰して見ると、漢字の多さに改めて気づくと思う」
「そうそう。地理と歴史は特にわけわかんない名前が多いよね」
「たとえば北海道の地名は元々アイヌの言葉に、音で漢字を当てはめているから、漢字が全く意味をなしていないことが多い。沖縄も琉球王国だからだいたい事情は一緒だ。ヨロシクを“夜露死苦”って書いているようなもんでね」


「その時に少しでも対応できるようにするためにも、小学校やその前の段階で徹底的にやるべきことは語彙(漢字)の獲得なんだよ。本に慣れ親しむことはもちろん、四字熟語やことわざ辞典、もっと言えば国語辞典や漢和辞典を読んで欲しいくらいだ。世の中にはいろんな言葉があるんだなあとか、この漢字にはこういう意味があるのか、という発見がある。同時に、熟語としての使用例もたくさん目にすることができる。国語の専門塾を運営している福島先生の『本当の語彙力が身につくドリル』という本では、あらゆる単語の対義語と類義語、関連語を網羅している。言葉は対義語や類義語をセットで覚えた方が効率がいいからな。これをやり切ったら相当語彙力が鍛えられる。」

「ちなみに東進衛星予備校の林修先生は、子どもの頃に広辞苑を読書していたそうだ」
「広辞苑を読書!?あれ読むものじゃないでしょ」
「それが先入観。読んだって良いんだよ。知の巨人と言われた南方熊楠もそうだな。貧しい家に生まれたクマグスは、小学生の時にどうしても百科事典が欲しかった。それで金持ちの家から当時は高価だった百科事典を借りてきて、それを一字一句写したそうだ。しかも2冊作り、一つは売ってさらに新しい本を買う資金にしたそうだ。」

「そこまでするんだ・・やっぱり昔の人は違うね」
「これだけ便利な世の中では想像できないよな。その知識欲には感服するしかない。○○にある南方熊楠資料館には、今でもその時に書き写したノートが展示してある。小学生とは考えられないほど細かい字でビッシリと。もちろん当時だってそんな小学生は他にいなかったわけだが、だからこそ歴史に名を遺す偉人となった。主に菌類などを研究する生物学者となって、昭和天皇への講義を任されるほどだった。そんな彼も、幼少期から親族が残していった本を読んで、学校に入る前からたいていの漢字を覚えてしまっていたそうだ。熊楠ほどはいかなくても、そういう知識に対する貪欲さは見習いたいものだ。」

(次回に続きます)


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