【教育×小説】本質研究所へようこそ(2)【連載】
■第一章 出会い
入口の戸を引くと玄関があり、靴がいくつか並んでいた。ここに通っている生徒がいるのだろうか。「御用の方はこちらのボタンを押してください」という文字が見えたのでボタンを押す。遠くの方から「はーい」という声が聞こえ、しばらくすると奥から男の人がやってきた。
「やあ、いらっしゃい。稲垣本質研究所にようこそ。君は?」
「こんにちは。チロウと言います」
「中学生?」
「はい。○○中学で、この4月から2年生です。ここはどういうところなんですか」
「本質を研究する場所さ」
「本質・・普通に勉強をする塾ではないんですか」
「もちろん勉強もするよ。だからまあ、塾という言い方もできる。それに加えてもっと包括的に、もっと深いこと、例えばこの世の中の真理について、世界との関わり方について、何のために勉強をするのかについて、要するに本質について追求する場所だ。そこには学校ではあまり教わらない、でも人生においてものすごく重要なことが含まれる。自分はどんな人間なのか見つめたり、この人生をいかに楽しむか、とかね。それを所長である僕や、いろんな大人たち、他の生徒と一緒に学んでいく。なんでもアリのフリーダムな空間、と言ってもいいかな。」
・・いまいちピンと来ない。それでチロウが固まっていると、所長と名乗った人が言葉を継いだ。
「ハハハハ。まあそう難しく考えずに。まずは中に入って話だけでも聞いて行ってくれよ。冷たいお茶でも飲みながらさ。なにしろここは、世界に開かれたオープンな場所なんだ。」
雰囲気から察するに、悪い人ではなさそうだった。それで一応話だけでも聞いてみることにした。なあに、命を奪われることもないだろう。
チロウが了承したことを察すると、その男の人はさっと振り返って奥に入っていった。
靴を脱いで、その人の後について廊下を歩いていく。扉を開けると、大きな空間が見えた。まず目に付いたのが大きなテレビとホワイトボード。ここがメインの教室だろうか。壁側には本棚がたくさん並んでいて、本がギッシリ詰まっている。まるで図書館だ。その中の一番端、ひとつの本棚の上に、デカデカと掲げられている看板が目に付いた。そこに書いてあるのは
「一冊200円のコーナー」
という文字だった。
一冊200円――どういうことだろう。古本屋みたいに売っているのだろうか。安いんだか高いんだかよくわからない金額だ。最新の漫画もあるのかな。時間があれば後で見てみよう。
いくつかある机で読書をしている女子校生風の女の子が一人いた。さらに奥には別の部屋があって、モニターを誰かが見ている。どうやらテレビゲームをやっているみたいだ。なんか塾っていう感じがしない。休憩時間なのかな。
指定された机に座ると、先ほどの先生が麦茶を持ってきて、向い合わせに座った。
「さあどうぞ。これを飲んで。僕はこの本質研究所の所長で稲垣と言います。よろしく」
そういって名刺を渡してきた。本質研究所所長という肩書と、携帯番号やメールアドレス、LINEのIDまで書いてある。
「よろしくお願いします」それを受け取りながらチロウは答えた。
「チロウくんと言ったね。君は勉強が得意かい?」
「普通・・だと思います」
ほぅ・・と所長の目がキラリと光った気がした。
「ちなみに通っている中学校は公立、それとも私立?」
「公立です」
チロウは地元の公立中学に通っている。私立で中学受験という選択肢もなくはなかったが、どうにもあの競争する雰囲気に馴染めなかった。土日の休みを塾通いに費やすのも嫌だったし、わざわざお金を払って学校以外の場所で勉強をする理由もよく分からなかった。それで一切塾通いというものをすることなく、普通に近所の公立中学校に進学した。偏差値的な意味でも距離的な意味でも、妥当なところを選んだ。ただ今となっては、チャレンジだけでもしてみたらどうだっただろうと思わないこともない。
「オーケー。これまでの定期テストの5教科の点数は?」
「最初のテストは380点くらいでした。前回は400点を狙っていたんですけど、少し落ちてしまって・・」
「なるほど。悪くはないけど良くもないといった感じか。学校のテストに対してはどんな印象を持っている?」
「嫌いじゃないんですけど、最近少し不安になっています。2年生になってますます内容が難しくなるんじゃないかって」
チロウはテストが嫌いじゃなかった。なぜなら、たいてい平均点を超えるからだ。やはり平均よりできるっていうのは悪い気はしないものだ。とはいえ中途半端。勉強に対して焦ってやっている訳ではないし、淡々とやっているだけだった。さすがにテスト直前には範囲を一通りチェックして、対策プリントを読み返したりするが。小学校の時は特に事前準備をすることもなく常に100点を目指していた――そして実際に簡単に取れた。あのおなじみのカラー印刷のやつだ―――けど、最近はそうも行かなくなってきた。中学の内容はやっぱり少し難しくて、ここ数回はなんとか平均を超えるくらいだ。1年の2学期ころに初めて400点を狙えるところまできたが、ついに1年の学年末試験では350点まで下がってしまった。授業を聞いていても、よく分からないと感じること増えてきているような気がする。特に社会が苦手だ。このペースで行くとどんどん下がり、平均にも届かなくなっていくんじゃないかという不安があった。
「なるほど―――大丈夫だよ、チロウくん!」
所長は急に明るく声を上げた。
「大丈夫ですか?」その声のトーンに押されるように、チロウは聞いた。
「大丈夫。勉強自体に苦手意識を持っていないだけでも十分。大きなアドバンテージだ。むしろ君みたいな、公立中学に通っていて、まあこう言っちゃ悪いが平凡な成績の子ほど、この場所で一緒に勉強していきたいと思っているんだ」
「そうなんですか?」
「それにチロウくんは落ち着いている。静かなる熱を感じるよ。伸びしろだらけだ。そもそもこの場所に一人で乗り込んできたことがそれを証明している」
何か調子のいいことを言う人だ、とチロウは思った。でも悪い気はしない。
■
「中学校に入って内容が難しくなったと思うけど、学校の勉強はこのあと高校、大学に続いていくわけだよね。ちなみに大学に行きたいって思う?」
「うーん、やっぱり今の時代は行けるなら行ったほうがいいですよね」
「それは個人の自由だけど、勉強が嫌いじゃないなら基本的には大学に行くことをオススメするよ。あらゆる意味で学歴があると有利だから、それを取っておいて損はない。で、中学を卒業して高校、大学と進むにつれて、今やっている各教科の内容はどんどん細分化し、難しくなっていくんだ。例えば理科は物理・化学・生物・地学、社会は日本史、世界史、地理、といったようにね。それは指数関数的と言ってもいい」
「シスウカンスウ?」
「まあすごく複雑になるということだ。君はまだ体験していないからわからないと思うけど、何となく想像はつくだろう。」
「はい、今から不安です」
先生は人差し指を立ててこう言った。
「ここからが重要なポイントなんだが、君たち中学生は、小学生の時に「中学の勉強は難しいぞ~」とさんざん脅されたかもしれない。だけどそれは建前とか言葉の綾だ。学問を大きな視点から眺めると、中学校の勉強の内容ってのはとーーーっても簡単なんだよ」
「簡単、、ですか」いままで言われたことがない話だった。
「そう。だって基礎の基礎なんだから。まずはそういう認識を持ってくれ。ある事柄に対してどういう認識をするか、、「そもそもこういうものである」という基準を設定することをマインドセットという。もし中学内容を難しいものだと考えているんだったら、それをまるごと変える。「中学校で習う内容は、とっても簡単である」と。」
なんだか無茶なことを言われている気がしないでもない。
「中学校までの義務教育では、これから社会に出ていくにあたって最低限知っておいて欲しいいろんな分野の知識を教えている。将来大人になったときに、就職をするか、起業をするかわからないけれど、人から尊敬される立派な社会人になるために、必要な知識の土台となるものだ。それを身につけた上で、ようやくその先の学び、高校や大学の授業に入っていったり、社会に出て働いたりする。皆が身につけることを求められる内容なのだから、そんなに難しすぎるもののはずがないだろう?」
言われてみれば、義務教育とはそういうものなのかもしれない。
「繰り返すが、義務教育では社会に出るうえでこれくらいは知っておいてほしい、という内容を教えている。大人になってからの生活を支える基礎となる知識が多い。そして学校の定期テストってのは、基本的に授業で説明されたことを確認しているに過ぎない。しかも3年間で習う内容というのは学年ごとに厳密に決まっているし、定期テストにおいては出題範囲が指定されている。いわば事前に答えを教えてもらっているようなものだろ。それで例えば50点、半分しか点数が取れないって恥ずかしいと思わない?」
確かに50点は凹むかもしれないと、チロウは思った。でも耳が痛い言葉だ。苦手な科目である社会では、一度50点を切ったこともあった。
「ちなみに大学では授業の成績が優・良・可・不可という4段階で評価されるんだが、60点でギリギリ合格の可だとされている。60点取らないと、その授業を受けたことにならなくて、来年受け直しってことになる。」
そうなのか。学校のテストで平均点が50点を切ったりすることあるけど、あれは授業を受けたことになるのだろうか?それとも中学校には合否の概念がない?
「一方で、日本の教育の世界では七五三という言葉がまことしやかに囁かれている」
「七五三・・ですか」一体何の話だろう。
「といっても徳川5代目将軍の綱吉が、病弱だった長男の健康を祈って始まったとされているあの七五三じゃあないぞ」
(徳川・・?五代目?)
「小学校で7割、中学校で5割、高校では3割の生徒しか授業内容を理解していない、ということを揶揄して表現した言葉だ」
「えっ、そうなんですか?」
それは意外な事実だった。中学生で5割、高校生で3割って、本当?中学で半分、高校では半分以上も学校の授業についていけていないってことになるじゃないか。
「これは深刻な学力の格差としても問題視されている。ただこれは必ずしも授業の内容が難しくて付いていけないというだけじゃない。学習に対する姿勢だとか、生活習慣とか、動機付けがうまくいっていないことにむしろ原因がある。これは多くは親の接し方に問題があったり、あるいは環境にもよるのかもしれない。地域全体が荒れていて、授業がまともに成立してないとかね。とにかく生活習慣の乱れと学力の問題は相関性が高いのは間違いない。要するに、親が朝ごはんをきちんと作っていないとか、夜にちゃんと寝てないとか、生活リズムができていないとかそういうことだ。親が子どもの規範となれていない、コミュニケーションをきちんと取れていない、ということもある。このあたりは、教育評論家でもある蔭山英男先生が「早寝早起き、あさごはん」というスローガンの元、生活習慣の大切さを主張している」
「極端な話、親への教育が必要だったりする。単純に授業内容とか先生の質、教え方によるわけでもないんだ。あくまでもそこは分けて考えなくちゃいけない。ただし、きちんとした生活習慣があり、不自由なく学校に通えるだけの環境であるならば、50点以下ってのはやっぱり取っちゃいけない点数だ。半分も理解していないなんて、恥ずかしいと思わなきゃ。狙うのは常に100点だ。ただし人間だからミスもするし、どうしても頭に入ってこない分野というのもある。それで80点くらい取れれば合格点というところじゃないかな」
この先生は雰囲気は優しそうだけど、さらっと高いハードルを要求してくる人なのかもしれない。チロウはそこにブレない信念と、ただならぬ雰囲気を感じた。
「もし義務教育で習った内容の半分も身についていないのだとしたら、アプローチの仕方が決定的に間違っている」
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「この本質研究所では基本的に、学校のカリキュラムに沿って授業をするわけではないし、大量に宿題をやらせたり、自宅学習時間をチェックしたりということはしない。もちろん希望があればその限りではないけどね。むしろ学校の勉強以外のことを積極的にやることに価値を置いている場所だ」
授業をしているわけではないとか、学校内容の補習というわけでもないとしたら、一体この場所では何が行われているのだろうと、チロウはますます気になった。
「だが、一つだけ重視しているものがある。それが学校の定期テストの点数だ。その理由はおいおい話す機会があると思うけど、これはキッチリ目標を定め、クリアしてもらう。もちろん、どこに目標を置くかは人ぞれぞれでいいんだけど、絶対の絶対に超えて欲しいラインはある」
「それはなんですか」チロウは恐る恐る聞いた。
「それはズバリ、偏差値50は超えること。まあここでは極端に高いレベルの集団の中の偏差値じゃなくて、あくまでも全国の生徒が一斉に受けるような試験の偏差値だと思ってくれ。一般的な公立校では平均点を取ることと見なしても構わない」
偏差値はある集団の中で、自分がどのくらいに位置しているかを示す指標だ。50がちょうど平均である。つまりは最低限、平均レベルは取らなきゃいけないということか。そんなに難しいハードルじゃなさそうだ。
「これはそんなに難しい要求じゃない。極端に苦手な科目はそこそこにカバーして、得意な科目は一気に伸ばす。そうしたら平均点なんてのはすぐだ。そもそもチロウくんは偏差値50は問題なさそうだけど。」
「そうですね」ドキドキしながらチロウは答えた。
「だってこの場所に通う生徒は世界の本質を追求しているんだもの。あらゆる学問の基礎になる義務教育の内容で、平均以下では困る。それに、学校の勉強以外に自分の好きなことを見つけて突き詰めていこうというときに、最低限学校の授業にも付いて行けているゾというのが自信になるんだ。そのために、定期テストの点数をキッチリ取れるようになるだけのケアもちゃんとする。だけどそこは本質じゃない。そう、わが「本質研究所」の本質は別のところにある」
“本質研究所”の本質。ますますチロウは気になった。そこで勇気を出して聞いてみた。
「ここはいったい、何をする場所なんですか?」
(次回に続きます)
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