【教育×小説】本質研究所へようこそ(16)【連載】

■高尾山口

京王「高尾山口駅」に到着すると、一行は登山口に向かった。
雲一つない快晴で、山登りには最高の天気だった。
「いい天気~」マオが空を仰ぎながら言った。
「東京の、ましてや23区なんかに住んでいると、なかなか自然の中を歩くという経験もなくなってしまう。でも太陽の光を浴びて、緑の匂いを感じて、草木を踏みしめて歩く登山というのはとても大切な経験だ。まあ景色を楽しみながらゆっくり登っていこうじゃないか」

川に沿ってしばらくアスファルトで舗装された歩道を歩き、登山道に入る。すぐに景色が変わった。視野全体が木々に覆われていて、舗装されていない山道を歩く。木の根っこがむき出しになっている場所は、足元にも注意を払わないとつまづいてしまう。急に吊り橋が現れて、その下を小川が流れていたりと、新鮮な風景が続く。木と土のにおい、そして小川のせせらぎが心地よい。サラとマオは時折、足元に咲いている色とりどりの花に駆け寄っている。

「昔の日本人はこういう風景の中で生活するのが当たり前だった。もちろん今でも地方に行けばこの環境が普通だという場所もあるだろう」
歩きながら所長が話を始めた。
「だけど東京で受験戦争なんかに巻き込まれると、学校と塾の往復で、自然の中を歩くという経験すら長らくできなくなってしまう。それじゃあこの世界を理解するための経験値が絶対的に足りない。皆は山の経験は?」
「遠足で来たくらいですね。僕は岐阜に行ったとき、乗鞍岳に登ったことがあります」とチロウは答えた。
「それは良い」

「学校行事としての遠足や登山というのはだから、とても良い経験になる。だけどそれだけじゃ十分とは言えないな」そういって話を続ける。
「たとえば、自然の中の匂いや音なんかが健康に大きく影響しているという報告もある。皆は森林浴という言葉を知っているかな?」
「なにそれー」マオとサラは聞いたことがないという雰囲気だ。
「木々に囲まれることによって精神的な癒しを求めることだよ」
「森林よく・・海水浴みたいなことですか?森林を浴びる・・」
「おおっ。知っている言葉を組み合わせて行為を想像する。素晴らしい姿勢だよチロウ君!」
「でもそれって何なんだろ」日差しを浴びる?
「別に何も浴びてないと思う。日差しはむしろ遮っているし」サラが言った。帽子と長袖、タオルを首に巻いて日焼け対策は万全のようだ。
「そんなことはない。目に見えないものをたくさん浴びている。目に見えない物質、音、匂い。昔の人は森林の中にいるとリラックス効果があることを経験的に知っていたんだな。だからこそそういう言葉がある。それを科学的に検証すると、森林は「フィトンチッド」という化学物質を放出していて、これを浴びることによって人はリラックスするらしい。ちなみにこれ「植物を殺す」という意味で、周囲の細菌などを殺しているんだそうだ」
チロウは驚いて「ええっ、それって毒なんじゃなんですか」と聞いた。
「ある意味ではそうだな。細菌にとっては毒でも、ヒトにとっては有益。木々からしても、悪い細菌を繁殖させないための戦略。物事の見方は立場によって変わる。殺菌作用ってそういうことだよね。たとえば梅干しは殺菌作用があることが知られていて、だからお弁当の真ん中に入れると細菌が繁殖しにくくなる。日の丸弁当のことだね。だけど菌の立場からしたら繁殖できなくて困ってしまう(笑)」

「ほかにも小川のせせらぎや枝葉のざわめきは「1/fゆらぎ」を持っていて癒しを与える」
「エフブンの?今なんて言ったの」マオが興味津々に聞いている。
「まあ心地よくなる音っていうことだ。さあ、僕たちは今、色々なものを浴びている。音やにおい、目に見えない化学物質。これをいっぱい吸い込んでいる~。耳で、鼻で、肌で感じるんだ。ほら、なんか良い気分になってきただろ?」
所長は両手を広げてスーハースーハー言っている。マオが同じよう深呼吸をする。サラは、あまり同調してくれないで冷ややかに見ている。そしてチロウも。だけどちょっとだけ真似してみる。目を閉じて、息を大きく吸い込んでみる。音に耳をそばだててみる。そうすると緑の匂いが確かに鼻腔をくすぐり、小川の流れる音が浮き上がって聞こえた。これを「心地いい」と言うのだろう。それはチロウが価値のチャンネルをまた一つ獲得した瞬間だった。

所長はこうやって行動を見せることによって、何か感じさせようとしているのだ。感覚器官を開発するのだ。それをやって見せること。今は分からないかもしれない。だけどいずれ獲得してほしい価値観、その最初の種をまく。気づかれなければ何度でも。
「仮に都会に暮らしていても、ちょっと移動すればこんな環境はいくらでもあるということを意識しておいてくれよ」

山頂までは約一時間。山登りというよりはちょっとした散歩という感じだ。一行はすれ違う登山者に挨拶を交わしながら(こうやって道行く人とあいさつを交わすのも、街中ではなかなかできない体験だ)、特に滑って転んだりと言ったような事故もなく、悠々と山頂に到着した。この手軽さが高尾山の人気の理由である。

「ついたー」山頂が眼前に開けて来ると、マオは山頂を示す看板に向かって元気いっぱいに駆けていった。サラは憮然とした表情。日焼けを気にしているようだ。周りを見渡すと一面にキレイな緑が広がっている。
山頂の広場は多くの登山者でにぎわっていた。運動後の適度な疲労感と達成感でとても気持ちがいい。売店でみんなでそばを食べることになった。山頂まで登ったご褒美として、所長のおごりらしい。
汗をかいた後のそばは格別だった。チロウたちはウーロン茶、所長は・・あっ。ちゃっかりアサヒの缶ビールを飲んでいる。

「皆、転んだり怪我したりしなかったな。なかなか立派じゃないか」
「これくらい余裕だよ。あっという間」マオは皆で屋外で食事をしているのを楽しんでいるようだ。
「僕もこれくらいは朝めし前です」
チロウは普段の陸上のトレーニングに比べたら、心肺機能への負担は全く問題ではなかった。登山というには物足りないくらいだと感じていた。サラは運動が別段得意とは思えないキャラだったが、対象がゲームでも身体を動かすことでも関わりなく、淡々と一定のリズムを刻み続け、黙々と遂行するタイプのようだ。汗はかきつつも「何が大変なの?」とでも言いたそうな感じだった。それはもしかしたら、ゲームだけではなく別分野にもものすごいポテンシャルを発揮するんじゃないかと思わせる予感を感じさせた。

「いやいや、刻々と変わる状況判断と、起伏への対応、身のこなし。こういう風に神経を集中させて身体を動かすというのはものすごく重要なことでね。実は子供の運動と学力の関係にもすごく関わってくることなんだよ」

■子供時代の運動量と学力が相関している

「僕たちは、というかあらゆる動物は、身体を動かすことによって空間や世界を認識しているんだ。
これは認知科学の分野で有名な実験なんだが、二匹の猫を使った「ヘルドとハインの実験」というものがある。
二匹の猫を用意し、片方は手足が自由に動かせる状態(能動ネコ)、もう片方は手足を動かせないようにする(受動ネコ)。この二匹を一本の棒でつないで置くんだ」
「かわいそう」親ネコ派のサラが顔をしかめている。「なんでそんなことするの」
「そうだな。まあ続きを聞いてくれ。能動ネコの方は自分の意志で動けるから、見るという体験と手足を動かすという体験がつながっている。自分の意志で動くことに応じて、見る世界も変わっていくということだ。対して受動ネコの方は、自分の見ているという体験と手足の動きがつながっておらず、いつも自分の意志とは無関係に、世界が動くのを見せられているわけだ」

「さあ、一ヶ月後にどうなるかというと、能動ネコの方は普通の猫として育っているので普通の生活ができるのだが、受動ネコの方は、目に障害があるわけでもないのに、まるで目が不自由かのように振舞うんだ。歩くことができなかったり、壁にぶつかったり、周りの世界がまるで認識できないのだそうだ」
「どうしてそんなことが起こるんですか」とチロウが聞く。実験とはいえ、あまりにも可哀想な話だ。
「受動ネコの方は、自分の身体と連動した世界が構築できなかったからさ。手足の動きと、見える世界がつながっているというのがいかに大切なことかということだ。もちろんこれは極端な例だけど、普通の生活をしているつもりの僕たちにも関係のある話なんだよ。手のひらや足の裏で地面をとらえて身体を動かすことは、脳への信号を送って、この世界を認識する回路を作っていることに等しい。「こういう力を加えると、世界はこう動く」という実感。「こう働きかければ、こう返ってくる」「ああすれば、こうなる」その対応関係。これこそが学びそのものだ。これを何度も繰り返すことによって、そのパイプはどんどん強固になる。身体を動かすことによって認知される世界を構築しているってことさ」
「それはいつから始まるんですか?」チロウは聞いた。
「赤ちゃんがハイハイするときからさ」
「そんなに早くから?」
「手のひらで地面を捉える。あるいは膝であれ、足の裏であれ、一緒だ。これが十分にできないと、厄介な問題が起こる。最近はフローリングの家が増えている」
「そうだね。和室なんてウチにないよ。そういえば畳は研究所のゲームする場所だけだなー」とサラがしみじみと言った。今の時代、マンションでは洋室が好まれ、昔ながらの和室はどんどん減少している。
「それでさらに靴下を履いていたりすると、つるつる滑って地面が捉えられない。そうするとバランス感覚が育たず、小学生になっても上手く走れなくて転んでしまったりする。和室が多かった時代に比べて、子供たちがうまく走れなくなっているそうだ」
「そうなんだ。やっぱ畳って重要なんだね」
「洋式の部屋、靴下やスリッパというのも考えものだよな」
「そういえば、小学生がスポーツテストで50m走をやったら転んで、そのまま骨折していたというニュースを見ました」陸上部で日常的に走っているチロウからすればとても印象的だったから、よく覚えていた。
「骨が鍛えられないから、当然そうなるだろう。そしてこれは運動神経だけじゃない。頭の良さにも影響を与える」
「運動と頭の良さが関係あるの?」マオが驚いたように言う。そういえば、先ほど脳の信号を送る回路を作るという話をしていたっけ。それが関係するのだろうか。
「もちろん。身体を思い通りに動かすのと、いわゆる頭の良さ(認知機能)は完全につながっている」

■武井荘の運動能力を高めるスポーツ理論

「スポーツが得意な人と苦手な人がいるよな。水泳が苦手だったり、球技が極端にダメだったり。バク転や逆上がりができる人とできない人がいたり。同じ人間なのにどこに差があるんだろう」
「持って生まれた才能!」マオが答える。
「それはやっぱり運動神経の違いじゃないですか?」とチロウは理科の生物分野で習った言葉を口にした。
「もちろん筋肉量とか関節の柔らかさにも関わるんだけど、論理的に説明することができる」

「これは「百獣の王」ことタレントの武井壮さんが話していたことなんだけどね。あるスポーツ選手がスランプに陥っているということは、その原因は「自分の考えている動きと実際の動き」にズレが生じているということなんだ。つまり運動神経が悪いということは「自分の頭の中で思った通りに、身体が動いていない」ということ。これはスポーツをしている時だけじゃなくて、日常生活の中でも「思考と実際の動き」にズレが生じていることがあるという。
たとえばちょっとした段差とか出っ張りに足を引っ掛けて転ぶということは、自分が思ったよりも足が上がっていなかったことを意味している。よくタンスの角に小指をぶつけてしまうのは、人は自分の認識よりも1センチ外側に足が出ているからなんだそうだ。ギリギリぶつからない所を通過しているつもりなのに、ぶつけてしまう。特に年齢を重ねると筋力が弱って、そのズレが大きくなる。思った以上に足が上がっていなくて、転んでしまうということが増える。高齢者にとって、転倒が原因で車椅子生活が始まるというのは本当によくある話だ」

スポーツの得意不得意を、そんな風に説明できるとは思わなかった。しかし納得できる話だ、とチロウは思った。

「それに、あるスポーツを上達したいと思っている時に、この思考と動作のズレというものに意識があるかどうかで、上達のスピードがぜんぜん違うと言うんだ。やみくもに反復練習をしても、効果は上がらないってこと。たとえば野球の素振りなら、ただ回数をこなしても効果は薄い。理想のグリップはどうか、スイングスピードは落ちていないか、腰の入れ方、腕の畳み方、意識するポイントはたくさんある。筋トレをするにしても、そのトレーニングがどの筋肉に効いているかということを意識するだけで効果が上がるそうだ」

何のためにやっているトレーニングかということを意識することが効果に影響するって、そういうものなのか。にわかには信じがたい話だ。

「たとえば逆上がりができない小学生がいる。勢いよく身体を投げ出してしまうから、本来回りたい方向と逆方向に身体が振れてしまいそのまま落下する。じゃあどうするか。これなんかは超簡単な部類で、腕で身体をグッと引き付けて、腰に鉄棒を密着させておくという意識をするだけであっという間にできる。物理法則をイメージして、身体の動きに応用するだけだ。
センスだとか運動神経だとか思われがちだが、思考力によるところが大きい。普通に歩いたり走ったりできる人間が、逆上がりができないってのはあり得ない」

「自分の身体の動きを意識するとはどういうことか。やっぱりそのためには強い精神力と知性が求められる。自分の頭を使ってよく考えるってことだ。自分が今どんな動きをしているかを意識して、場合によってはビデオに撮って自分の動きを確認して、理想をイメージして、現実との差を埋めていくためのトライアンドエラーを繰り返していく。もちろん初心者であれば指導者のアドバイスが有効だ。言われたことを、言われた通りにやってみる」
勉強をするときの考え方と、驚くほど共通点が多い。
「何かのスポーツを上手くなろうと思ったら、必ずこれを実践しなければならないし、超一流のプロスポーツ選手はこれを高いレベルで日常的に行っている。気の遠くなるような作業だよ。これができるかどうかが、同じプロの世界の中でも大きな差になる」

「だから一般的に、超一流のスポーツ選手は、ものすごく頭が良いというのが定説だ」

「野球で消えばイチロー、上原浩治、ダルビッシュ、大谷翔平なんかは飛びぬけた自律心と精神力を持っている。サッカーで言うと中田英寿は東大にも行けたんじゃないかと言われていたし、本田圭佑は日本を代表する選手でありながら、サッカー界への貢献のためにビジネス分野においても世界に進出している。当然彼らは海外で戦うから英語も勉強することになる。我が本質研究所としては見習うべき偉人たちだ。

最近の選手だと、大阪桐蔭から中日ドラゴンズにドラフト1位指名された根尾昂くんなんかは、両親が医者のとんでもない秀才だよ。高校時代には両親が毎月十数冊の本を送っていて、大阪桐蔭の寮でそれを読んでいたそうだ。一流の人間になろうと思ったら、スポーツだけをやっていればいいなんてことはあり得ない」

「スポーツができる人は、勉強もよくできるんだ。神様は平等に才能を与えるものなんじゃないの?」サラは不満そうだ。
「この世界は残酷なのさ。勉強もスポーツも芸能も、本質的には変わらない。だから文武両道ってのは当たり前の話なんだよ。気持ちとか器用さだけでガーっとのめり込んでも、どこかで頭打ちになる。突き抜けるためには、思考を研ぎ澄ませて深く考えなくちゃいけない」

「これは勉強にも当てはまるんじゃないかな。何かを上達しようと思ったら、今何ができないのかということに意識を集中して、原因を探る。ただ闇雲に時間をかけても、意味がない。何をやるにしても本質は一緒で、頭を使って考えることだよ。簡単なことだ。テストをして、解けなかった問題が身についていない場所だから、その場で出来るようにする。ズレを修正する。答えを見て納得できなかったら、何故そうなるかを調べる、誰かに聞く。それが解決したら類題を解く、直後にもう一回テスト。できたらOK。これの繰り返しだ。この当たり前のことが、勉強が苦手な生徒には出来ていない」

言われてみれば確かにその通りなんだけど、なかなか厳しい要求だなあとチロウは思った。サラは「それが出来たら苦労しないんだけどね」と言いたげな表情をしている。

「大事なのは「何が間違っていたか」「どうすればよかったか」をしっかり考えて、その瞬間に修正するということだ。だからどこをどう間違えたかに自覚的でなければならない。それなのに勉強が苦手な生徒ほど、自分のやり方に拘ってアドバイスを聞かなかったり、先生に間違いを指摘された瞬間に消しゴムで全消ししてしまう。自分のミスにきちんと向き合えないんだな。これではいつまで経っても上達しない」


「幼少期や小中学校で運動をするほど、学力が高くなるというデータもある。」(※脳を鍛えるには運動しかない)
「アメリカの○○州のとある高校で、何もしない群、毎朝ジョギングする群で実験をしたら、朝に運動をしているグループが顕著に成績が上がったそうだ」
「どうしてそんなことが起こるんですか?」
「それは脳に血液が回って頭がスッキリするとかだな。もちろんこれは適度な運動でなければいけない。疲れすぎて授業中に寝てしまうんじゃどうしようもないからな」

「そうなんだ?でもそれだと運動が苦手な人は勉強もできないってことにならない?」
「いや、その「運動が苦手」という認識に問題があってね。身体に障害を持っているというのは別にして、基本的に運動が苦手なんていう人はいない。皆それなりに身体を動かすことは好きなはずだ。それなのに、俺にはどうもスポーツを苦手だとか嫌いだとか思い込んでいる人が多いように見える。」

スポーツが苦手だと思い込んでいる?

「人間が生まれつき知的好奇心を持っているように、身体を動かすことだって本来は楽しく気持ちが良いものなんだ。それこそ登山とか、散歩とか、ジョギングとかが気持ち良いという感覚は誰しもが持っている。健康につながる行為が、気持ちよいと感じないはずがない。ところが学校教育の中では体育の授業で試合をさせたり、何かしらの競技をするだろ」
「うん。そうしないと体育が始まらないよね」
「これが大問題。野球にしろサッカーにしろ、チームプレイだとか、試合で勝つことに価値を置きすぎている。そうするとうまいやつは活躍出来て、球技が苦手な人はスポーツ嫌いになってしまう。中高時代、勉強はすごくできたのに体育でやらされたチームスポーツに恨みを持っている高学歴インテリ芸能人というカテゴリの人がいて、これがまた話をややこしくしている。自分たちはやりたくもないチームスポーツをやらされて貶められたとものすごい恨みを持っているんだな。その結果どうなるか。甲子園なんかで日本中が熱狂する背景には、数えきれないくらい多くのスポーツ嫌いを生み出している。オリンピックも然りだ」

所長の話はすごく実感がある話だった。僕も球技の中に得意不得意があって、小学校時代、サッカーはわりと好きで放課後にすすんで友達と集まってやっていたものだが、なぜか野球とバスケには縁がなく今でも苦手だ。ボールをバットで打つのはまだしも、グローブでフライを捕るというのが未だに怖くてできないし、バスケのドリブルはボールから目を離したとたんにコントロールが効かなくなる。実質ドリブルが不可能なので、パスを出すか無理やりシュートを打つしかないのだ。そんな状態だとチームに迷惑をかけるしかなく、今でも何とかやり過ごすことだけを考えてしまう。出来ればやりたくない競技なのだ。ハンドボールも同様である。柔道や剣道といった武道系もやりたくない授業だった。もし体育のほとんどの種目がキライだったら、チロウも体育の授業に恨みを持つことになるだろう。

「それこそさっき言った学力を高くするための運動っていうのは、ジョギングとかキャッチボールでいいんだ。何も競技である必要がない。身体を動かすことが目的なんだから。あるいは、いくつかの種目から選択できるというのが理想的だろう」
「それはいいね。サラもチームで協力するのがめんどくさいなーって思っているよ」そう、一時的にグループでまとまって何かをするというのが苦手な人間というのが一定数いるのだ(笑)

「本当は誰しも身体を動かして汗をかくことは気持ちのいいことなんだよ。子供が公園で走り回ったり、川やプールで遊んだり。その証拠に、今大人たちの中ではジョギングやマラソンが空前のブームになっている。元々運動が嫌いだった人でも、大人になってから気の合う仲間内で集まってするスポーツは楽しんでいるものだ。あるいはジムで身体を鍛えることは、自己啓発的な文脈でも称揚されている。東京都心でも、大人が週末に集まってフットサルをやっているなんていうのはよくある光景だ。ボルダリングなんかも流行っているよな。体育嫌いのインテリ芸能人たちも、無理やり苦手なチームスポーツなんかやらされなければ、恨みを募らせることなんかなかったはずだ」


「そこで今日は良いものを持ってきた。ジャーン。」
そう言いながら所長はリュックから何やら円盤状のものを出した。
「これはドッチビーというものだ。ドッジボールとフリスビーを合わせたおもちゃだが、これが面白い」
「見せてー」マオが手に取る。グニャグニャと折り曲げる「やらかーい」
「そうそう。これを順番に投げ合って遊ぶんだ。ぶつかっても痛くない。まっすぐ投げるコントロール、動体視力、タイミングを合わせてキャッチすること。集中力を研ぎ澄ますこと。試行錯誤、的を狙って投げる、バチっとタイミングを合わせるという行為は、本能で快感を得られるようにプログラムされている。それは射的や弓道だったり、テレビゲーム(太鼓の達人などのあらゆる音ゲーがそうだ)、大人であればパチンコやパチスロが中毒的にはまってしまう理由でもある。これを手軽に楽しめる」
所長が言うには、二人いればできる、ケガをしない、適度な負荷、これらの条件をすべて満たす最強の三大メソッドがあるという。それが「キャッチボール」「バドミントン」「ドッチビー」だ。特にドッチビーはバドミントンのようなラケットも要らず、硬式ボールのように肩も傷めないので最強なのだそうだ。ポイントは「勝敗を決めない」ことだ。勝負にすると途端にピリピリして、負けた方が楽しくなくなる。

「子供のころにお父さんとキャッチボールをする子供は、頭が良くなるらしいよ」
「なんで~?」とマオ。
「いろいろな理由があると思う。ボールを目で追い続ける集中力、相手の取りやすいところに投げるための利他性とトライアンドエラー(微調整)、これは非認知能力に関わるところだ。大人が速い球を投げてみせるのも、畏怖や憧れの気持ちにつながり良い関係性が築ける。それに親との会話の良い機会になるだろう。「会話は言葉のキャッチボール」なんて言うが、これは本質を突いている。本質はキャッチボールの方にある」
そういうこともあるのか。皆熱心に聞いている。

「さあ、腹ごしらえも済んだし、ちょっと身体を動かそう」そういって所長が立ち上がった。「やったー」といってマオが走り出す。
チロウも「ちょっと面白そうですね」と言って立ち上がる。
「えー、ほんとにやるのー?」サラはしぶしぶといった感じだが、皆が立ち上がったのでついてきた。

ちょっとした広場を見つけて四人で四角形を作る。そして右回りに順番に回す。確かにこれは面白い。なかなかつかみにくいのが難点だが、当たっても痛くない。まっすぐきれいに投げるには試行錯誤が必要だ。たまに大きく曲がってしまい、受けた人は拾いに行かなければならないが、それもちょっとしたフットワークになる。相手に迷惑をかけないためには、狙ったところに落とさなければいけない。どうすればまっすぐ投げられるかと微調整をする。この感覚はボウリングでまっすぐ投げようとする感覚に似ている。またあえて胴体を傾けてカーブをかけて、相手のちょうど良いところに投げる手法もある。失敗するリスクは大きいが、上手く決まるとこれもまた楽しい。


結局一時間近く投げ合って遊んでいた。これはやってみるととても楽しかった。恐怖心なく、タイミングを合わせるスリルはしっかりと味わえるからだ。最初はあまり乗り気じゃなかったサラもキャッキャと騒ぎながらそれなりに楽しんでいるようだった。一番はしゃいでいたのは所長だけど。そんな風にして、登山の一日は終わった。所長は帰り道、こんなことを言っていた。
「いいか。高尾山の登山なんていうのは、ガチの登山愛好家からしたら屁みたいなものだ。最初に言った通り、たかだか600mの標高しかないんだからな。これはあくまでも登山の体験版という位置づけだと思ってくれよ。例えば高尾山でも、隣の陣馬山まで目指す「高尾山・陣馬山コース」というものがある。総距離18.5キロ、目安登山時間6時間30分。実に過酷だ。体力に自信があるならぜひやってみてくれ。」

■季節のイベントに参加する

春に花見、初夏には山登りに行ったように、他にも七月には鬼子母神の夏祭りに、八月には盆踊りも参加した。
「季節の祭りとかイベントにちゃんと行っているか?新年は初詣、春は、夏は夏祭り、盆踊り、花火大会。秋は紅葉を楽しむ。冬はクリスマス、年末のコミケ・・」
また節分や豆まきをしたり、恵方巻を食べたり。ハロウィンでは仮装したり、クリスマスではプレゼントがあったりケーキを食べたりと、所長は何かと季節のイベントごとを仕掛けてきた。

「古代ギリシアの哲学者アリストテレスはこう言っている。「成熟した大人になるための唯一の方法は、人間社会のあらゆる事柄に参加することである」と。生活の中で習慣として行われてきたことについては知っておいた方が良い。それはまず体験することだ」

他にも様々な資料館や博物館、文化施設に出かけるツアーなどが行われた。とにかく隔週くらいのペースで何かしらのイベントが組み込まれるのだ。その選別は期間限定のイベントに合わせていたり、所長の気まぐれによる。

■参考:おススメの訪問スポット
●水道歴史館(水道橋)
●消防博物館(四谷三丁目)
●遊就館(靖国神社)
●江戸東京博物館(両国)
●目黒寄生虫館(目黒)
●数学体験館(東京理科大学)
●東京ドームでプロ野球観戦
●国立競技場で大学ラグビー観戦

ながらくチロウショウジとして同人誌を発行してきました。これからはnoteでも積極的に発信していきます!よろしくお願いします。良かったらサポートしてください。