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私という絶対的な存在はない?#026「私とあなたという境界線の曖昧さ」〜タイニーのご自愛タイムズ〜

タイニーのご自愛タイムズはご自愛について語り合う場です。ともこ&あこや、様々なゲストと共にそれぞれの日常を紐解き、「ご自愛」について探求していきます。

今回のテーマは、「私とあなたという境界線の曖昧さ

今回のゲストは、秋田県秋田市の法華寺で副住職を務める齋藤宣裕(さいとう せんゆう)さん。後編です。

▼前編はこちら
#25 「『寛容さ』について仏教から得られるヒント」


後編は、7月のせんゆうさんとのラジオ収録からずっとともこさんが気になっていたキーワード「私とあなたの境界線」についてお話をお聞きします。仏教の教えからヒントをいただき、日々の生活に活かしていただけるとうれしいです!


絶対的な私がない?仏教の教えをカレーに例えると?

ともこ:以前お話したときに出てきた、「私とあなたの境界線」という言葉についてより深く教えていただけますか?

せんゆう:仏教には「私とあなたの境界線はないんですよ」というのを端的に示した言葉があるんです。それは「諸法無我」です。西洋だと「我思う故に我在り」(デカルト)が前提で、「我って何?」と探求をしてきたと思うんですけれども、仏教では「我がない」ことがスタート地点なんです。

仏教好きで知られるお笑い芸人の笑い飯の哲夫さんが「諸法無我」をすごく面白く解説していて…カレーに例えているんです。

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この世は全部大きな鍋に入ってるカレー。その中に私達が入って煮えている。それはカレーのルーだったり、具だったりする。たまたまお玉ですくわれた一杯が自分という存在。ところがこのお玉には小さい穴が開いていて、だんだん中身が少なくなっていく。やがて、すくわれたカレーはまたお鍋に全部戻っていく。鍋に戻ったカレーは、もともと鍋にあったカレーと全部ごちゃごちゃになって、また全体的なカレーになって、またお玉ですくわれてっていうのを繰り返す

という風に解説しています。

ともこ:なるほど。

せんゆう:じゃあ「今いる私って何なの?」という話をすると、他の人や他の出来事との関係性で私と思われるものが定義されて、私という存在があるということになるんです。これを仏教では因縁・縁起の法と言ったりもします。

自分という絶対的なものがあるのではなく、他の人…例えば会社に勤めてる人から見れば同僚、子どもから見ればお母さんなど、人によって関係は違うけれども、そういった関係が全部絡み合って、私という存在のようなものが出来上がっているということなんです。肉体というのは仮のものなので死に向かって滅んでいく。これは諸行無常とも重なるものがありますね。

絶対的な私があるわけではない」。これが仏教のスタート地点なんです。

「わたし」がないことが、悩みの究極の解決法?

ともこ:なぜこれが仏教のスタートなのか、とても興味が湧きました。

せんゆう:この考え方は、お釈迦さまが自分が悩んだり苦しんだりしている原因を探っていったときに、辿り着いた答えの一つなんです。自分が悩んだり苦しんだりしているのは、「自分が存在している」と勘違いしていることが原因だと。究極的なことですけれど、自分というものが存在してると思うから、他の人との関係に悩んだり、自分が病気になったり痛い思いをしたら嫌だなって思ったり、人のことを妬ましく思ったりするんだと。だから、私という絶対的な存在がないのならば、本当は悩まなくていいと。

ともこ:なるほど。究極の悩みの解決方法かもしれないですね。苦しみを感じないために、自分という存在は絶対的なものと思わないということなんですね。

せんゆう:そうですね。例えば、自分の子どもが亡くなってしまったときのことを考えてみます。絶対的な自分っていうものがあるのならば、その子は唯一無二の絶対的な存在なので、その子はもう帰ってこないし、どこにもいないということになります。ですが、先ほどのようにカレーに例えると、その子どもはカレーの成分の一つということになります。絶対的な存在ではなく、周りの人との関係で成り立っていた存在なので、その子は周りの人との関係の中でずっと生き続けることができるんです。また、その子が亡くなった後は必ずカレーの鍋に戻るわけです。だから今はどこかに行っているけれど、また会えるんだねっていう話もできるんですよ。

ともこ:前編の「寛容さ」というキーワードに引き続き、仏教が持つやさしい空気感みたいなものがどこからくるのか、少しイメージが湧いてきました。

せんゆう:「私のご自愛」と「他の人のご自愛」の関わりでいうと、「わたし」や「あなた」という絶対的な存在がないと仮定するならば、私のご自愛とあなたのご自愛は緩くつながっているはずなんですよね。
私のご自愛は相手のご自愛かもしれないし、相手のご自愛は自分のご自愛かもしれない。私のご自愛も、あなたのご自愛も、私達のご自愛もみんな同じカレーの鍋の中の話しかもしれないですね。

境界線が曖昧というのはすごくやさしいと思うんですよね。私とあなたを隔てる壁がないというのは、すごく温かいイメージですよね。

一人ひとりにあった仏教を見つける

ともこ:宗教は地域柄や国民性と強く紐づくんだろうなと思っています。アジア諸国ではつながりを重んじるとか、輪の中にいることや輪から外されることが一番よくないものとして捉えられている。一方で、西洋では個人主義で自由が一番大事だから、自由を奪われることが最大の苦しみになる。そういった文化の違いなども影響していそうです。

アジアの世界観は自分たちに影響を及ぼしていると思うのだけど、日常的に触れる文化はポップカルチャーやファッションとか、西洋のものがすごく多い気がするんですよね。でも、仏教のように自分たちの文化のルーツにもなっているような考えや歴史に触れると、なんとなく自分の中がすっきりしてくる感覚があります。

だから、触れる機会が持てるのはすごく幸運だなと思います。一般の方が、もっと仏教のことを知りたいと思ったときには、どうしたらいいでしょうか?

せんゆう:本を読むのが好きな人は本がしっくりくるでしょうし、ネットで検索する方が早くていいという人もいるでしょうし。ですが、それ以上に思うのは、解説する人との相性が大事だなということです。仏教って、解説する人によって語り口や例え方などが違って、様々なカラーがあるんです。ネットや本を駆使していただいて、自分に合った先生を見つけて、その人の書いた本や話してることに触れていただくのがいいと思います。

相性が合う人の言葉って、すごく頭に入ってくるんですよ。学校の授業でも、先生によって頭に内容が入ってこない先生とすごく入ってくる先生がいましたよね。やっぱり自分と合う・合わないがあるんだと思うんです。仏教を学ぶときも、最初はいろんな方の書いているものに触れていただいて、この人の言ってることはよくわかるなって思う先生に出会ってもらうのが一番早いと思います。

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ともこ:「まずはこれを読んで」とかではないということですね。寛容・多様、受け皿の大きさを感じます。

せんゆう:先ほど、その土地によって考え方が違うという話がありましたけど、仏教の面白いところって、どんどん考え方がアレンジされていったところだと思うんです。

仏教はインドの方で生まれたんです。そこから中国に伝わると、道教の教えとか、中国の方の文化とか風習にくっついてアレンジされる。今度は朝鮮半島に伝わると、儒教と結びついてアレンジされる。さらにそれが日本に伝わってくると、神道と結びついて…。雪だるまが転がっていくように、いろんなものを吸収したり削られたりして、その土地土地でちょっとずつ違うんです。

だから今の日本のお寺で教えている仏教と東南アジアや中国の仏教は、似ていながらちょっと違うんです。もっと言うと、日本の中でも私のお寺と隣のお寺で話してることはちょっと違うかもしれない。こういう部分は宗教とか仏教でとてもおもしろいところだと思っています。その土地の風習にマッチするものが出来たり、いろんな人に響く教えに変化したり。そういうところもすごく自分の中ではいいなと思っています。

そういう中で、一人一人に合った仏教が必ずあると思います。日本人はよく無宗教だと言われますけど、西洋の教えや宗教、あるいは仏教でもインドの頃の教えや今の日本の教えなど、いろんなものを混ぜていただいて、自分の生活に生かしていただくのが今の日本の人たちに合っているのかなと思います。

本来、仏教は今を生きる人がどうやったら悩まず苦しまず、幸せに生きていけるかが目的だと思うんです。ぜひいろんな教えに触れていただいて、そういうものを現実の生活に生かして、現実の生活をよりよくしていただきたいなと常々考えています。

ともこ:そうですね。わたしたちのラジオやnoteがそういった考えにふれる玄関口になったらいいなと思います。

ものごとひとつとっても、色んな表現の仕方があるのですね。色々触れる中で自分にあった考え方を見つけて、生活を豊かなものにしていきたいですね。

▼こちらの内容は、タイニーのご自愛ラジオに収録されています。
通勤時間や、料理をしながらなど、スキマ時間にぜひ聴いてみてくださいね。



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