ポーが詩に描こうとした美

■エドガー・アラン・ポー『ポオ 誌と詩論』

ぼくなら手始めに効果を考える。独創的であることを絶えず念頭に置きながら―この明らかに容易に得られる興味の源泉を和えて無視するのは自己欺瞞である―まず最初にぼくは、「感情や知性、(更に一般的には)魂が感受する無数の効果や印象の中から、今の場合はどれを選んだものだろうか」と自問する。(P.221)

※今日はミステリーの話ではないし、ちょっと小難しい話です。


詩という表現にこれまでほとんど触れたことがないので、前半の詩に関しては評価ができない。正直に素人目線で言えば、特に良いと思う詩はなかった……。けれど『構成の原理』『詩の原理』そして「解説」、この3つが読みやすくとても面白かった(『ユリイカ』は難しくて断念)。


冒頭の引用は『構成の原理』から。言葉を用いて「美」を表現する詩において「効果」がもっとも意識されるべきだ、という理論のはじまり。

最も強く、最も魂を高め、かつ同時に最も純粋である悦びは、美の観照にあるとぼくは信じている。事実、人が美について語るとき、その意味するところは、想像されるように、決してその性質のことではなく、実は効果のことなのである。(P.224)

詩は「美」の表現である。よって、知性を満足させたり心情を興奮させる散文とは違い、より直接的な魂の高揚感を引き出すために「効果」を意識すべきだ。というようなことを説明している(……たぶん)。そして『大鴉』という自身の代表作を例にとって「効果」の説明がなされる。ここ、とても面白かった。

人間精神の底に宿っている不滅の天性は、かくして明らかに美的感覚である。人が己れを取り巻いているさまざまな形や音や香りや情緒に喜びを感ずるのも、この美的感覚があるからである。(P.248)

美についての肯定の仕方に、単純に共感できたし嬉しかった。


一方でポーは、冒頭の「効果」の考え方だけでなく推理小説を読んでもわかるように、非常に理性的な考え方をする人。究極の美を追い求める精神と、理性的・手続き的な思考回路が共存している人だった。

解説にも書かれていたけれど、(本人が実際はどちらに尽力したにせよ)その組み合わさった才能がいかんなく発揮されたのは散文(物語)だったように思う。

詩がだめというのではなく、詩の中にポ―が追い求めた形が、うまいこと物語に反映されている……というのが個人的に抱いた感想です。

彼は、眠りに落ちる一歩手前の瞬間(醒めた世界でも夢の世界でもない、強烈な恍惚感をもたらす「他界の一瞥」と名付けた)を、得意の分析によって記憶の世界(=詩)に転移させようとしていた。彼にとってその「他界の一瞥」という神秘的な瞬間こそが描くべきものだった。

私も長らくそういった「夢うつつ」の瞬間を形にすることを理想と考えていた。この人もそうなのかぁと、これまた共感して喜ばしかったのと、とはいえ「詩」に固執しなくても物語で「他界の一瞥」を描くことはできなかったのだろうか?いや、結果としてできていたんじゃなかろうか?と感じた。

ポーのまだ読んでいない短編があるので、彼の人生を賭けた試みがどう結実したかを見るのが楽しみです。

(江戸川乱歩の『押絵と旅する男』や『白昼夢』などの世界観は「他界の一瞥」に近い気がする)


説明するのが難しいんだけど、何よりも純粋な美を愛して追求している一方で、すごく理屈っぽくて一段一段説明できるステップを踏まざるにはいられない感じ、その人間味が好きです。共感もします。

『詩の原理』に例として出てくるロングフェロー『浮浪児』の序詞、とやらのほうがポーの詩よりも心に訴えてきたし、比較すると、ポーの詩は構成を重視しすぎて感覚への訴求が足りない気がする(偉そうで申し訳ありません)。やっぱり得手不得手があって、彼には理性がきちんと絡んだ形(=物語、論文)が合うんだろうな、と。

でも気づかずに(半ば気づいて?)しつこく詩で美を追求し続ける、そんな人柄に「いいね」したい気分です。


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