若さと才能

■ラティゲ『肉体の悪魔』

このタイトルが必要以上に肉欲の権化(すごい言葉だな)的なイメージを抱かせてしまう……と訳者の人が書いていたけれど、たしかにタイトルのせいで官能小説のような印象になってしまっている。実際にはあまりその期待(?)に沿う内容ではありません。

高校一年生の男子が年上の人妻と不倫する、というごくごくシンプルな恋愛もの。もちろん悪魔に取り憑かれた肉体的行い(?)も出てくるのだけど、まあ付き合い始めはこんなもんでしょう!程度かなぁ。笑 自分の思考回路が恋愛方面に行ってなさすぎて、あまり感情移入ができず……。


読んで考えたのは「才能と若さ」の関係でした。

この物語はラティゲが10代で書いたもので、早熟な彼の実体験をもとにしているらしい。そして彼はこれを含めた二作品のみを残し、20歳の若さで亡くなってしまった。

「若いのにこれだけ書けた」という評価を抜きに才能を語ることが果してできるのだろうか?という疑問がある。

『肉体の悪魔』において評価されているのは、

・16歳の初恋、性衝動の初々しさ→年相応
・なのに不倫しちゃってる→ませてる(不良だと思えばまぁある)
・そのときの精神描写がなぜか達観している→おかしい

っていうアンバランスさが、総合して「天才的」と称されているように思います。どういう描写かというと、

彼女の両手が僕の首に絡みついた。遭難者の手だってこれほど激しく絡みつくことはないだろう。彼女は僕に救助してもらいたいのか、それとも一緒に溺れてほしいのか、僕には分からなかった。(P.65)

いやいや。

僕は哀れなジャックに対する自分の行動を立派なものだと考えた。だが、自己保身のエゴイズムと、良心が痛む罪を犯すことへの恐怖から、そんな振舞いに出ただけだった。(P.112)

いやいやいや。

よく似ていると思うものほど、本物とは異なっている。死にかかったことのある人は、死を知っていると思う。だが、ついに死が目の前に現れたとき、それが死だとは分からない。「こんなものは死じゃない」といいながら、死んでいく。(P.199)

お前はどんな10代やねん!笑


……というわけで、やっていることは大したことではなく若さゆえの(いや、ここにむしろ若さは関係ない)情欲に溺れた青い行動なのですが、逐一こう幽体離脱しているかのように冷静に描写している。

もしこれが30代の書いたものだったら、それでも天才なのか?というと……30代が10代のみずみずしい感情を冷徹に書き切るという新しい評価はあり得るかもしれない。けれど、いずれにしても年齢が絡まない話はできない気がする。


最近、音楽を聴いていても10代や20代ですごい才能のある子がたくさんいると感じています。その時どうしても「若いのにすごいなぁ」と思ってしまう。

「中学一年生でこの曲を作りました」と言われてぶったまげたことがあるのだけど、それを例えば「30歳でこの曲を作りました」と言われたらどうだったろう。もちろん素晴らしいことに変わりはないが、若さという尺度が評価を底上げすることは避けられない気がする。

小説家というのは一般的に遅咲きで、人生体験がモノを言うところがある。音楽家以上にそうだと思う。

だからこその「若さ」なのか。

若さ。それだけで(それだけではないのはもちろん承知しているのですが)名声をほしいままにすることについて、どことなく正当なような正当じゃないような、まだ腹の底までは飲み込めない感覚がある。

決して非難しているわけではありません。何がしっくりきていないか、まだ考え中です。


体の触れあいを愛のくれるお釣りくらいにしか思わない人もいるが、むしろそれは、情熱だけが使いこなせる愛のもっとも貴重な貨幣なのだ。(P.64)

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