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E.A.ポー『黒猫』の翻訳文について

ちょっと気になって、『黒猫』の翻訳文を比較してみようと思いました。翻訳者によって全然違うことに驚きます。

(「お前は一体どこを目指してるんだ?」というツッコミはご容赦ください……私にもわかりません。笑 本当にただの興味で……汗)


原文は以下の通り。太字は、翻訳による特に違いが感じられた部分です。

For the most wild, yet most homely narrative which I am about to pen, I neither expect nor solicit belief. Mad indeed would I be to expect it, in a case where my very senses reject their own evidence. Yet, mad am I not -- and very surely do I not dream. But to-morrow I die, and to-day I would unburthen my soul.("The Black Cat" Edgar Allan Poe, 1843 冒頭文)

以下、古い順に5パターン(Kindleサンプル3冊分と手元の2冊を使用)。


■中公文庫『ポ―名作集』丸谷才一訳・1973年

これから記そうとしている、この上なく荒唐無稽でしかもこの上なく家庭的な物語を、信じてもらえるとも、信じてもらいたいとも思ってない。そんなことを期待したら、実際、私は気違いだということになろう。なぜなら、私の感覚(センス)が証言することに、第一その私の分別(センス)自体が反対するのだから。が、私は気が狂ってなどいないし、また、夢を見ているわけでもない。ただ、明日死ぬ身であってみれば、今日、心の重荷をおろしたいだけなのである。


■創元推理文庫『ポオ小説全集4』河野一郎訳・1974年

今ここに書き記そうとする奇怪この上もない、だが何の虚飾もまじえぬこの物語を、わたしは読者に信じてもらえるとも、もらいたいとも思わない。事実、わたし自身の五感すら信じまいとするものを、読者に信じてもらおうとするのは狂気の沙汰であろう。だが、わたしは狂気でもなければ──夢を見ているわけでもない。しかし明日ともなれば、わたしは死なねばならない。せめて今日のうちに、胸の重荷を下ろしておきたい。


■岩波書店『黒猫/モルグ街の殺人事件』中野好夫訳・1978年

いまここに書き留めようと思う、世にも奇怪な、また世にも単純なこの物語を、私は信じてもらえるとは思わないし、またそう願いもしない。そうだ、私の目、私の耳が、まず承認を拒もうというこの事件を、他人に信じてもらおうなどとは、まこと狂気の沙汰とでもいうべきであろう。しかも私は、狂ってはいないのだ。夢をみているのでないことも確かだ。だが、私は、もう明日は死んでゆく身だ。せめては今日のうちに、この心の重荷をおろしておきたいのだ 。


■光文社古典新訳文庫『黒猫/モルグ街の殺人』小川高義訳・2006年

まったく常軌を逸していながら、いつもの暮らしに生じたという話を、いま書き残そうとしている。信じてもらえることはあるまい。信じてくれとも言わない。こんなものが信用されると思ったら、思う私がどうかしている。まさか現実であったとは、当事者たる私の感覚でもおかしいのだ。いや、私自身はおかしくない。夢を見ているはずもない。ただ、あすになれば死ぬ身として、きょうのうちに魂の重荷をなくしておきたい。


■新潮文庫『黒猫・アッシャー家の崩壊』巽孝之訳・2009年

これからわたしは、どこまでも悪夢としか思われないのにごくごく日常的に体験してしまった事件を記録するべくペンを執ろうとしているのだが、その中身をめぐっては、信じてもらえるとも信じてもらいたいとも思わない。そもそもわたしの五感のすべてがその知覚対象を信じられなくなっているのだから、読者に期待するほうがおかしいだろう。だが、じつのところわたし自身は精神に異常をきたしているわけではない──それに決して夢を見ているわけでもない。だが、明日になればわたしは死ぬ、だから今日のうちに魂の重荷を下ろしておきたいのだ。


海外の文学が、翻訳者によってこうも違うとは、知りませんでした。この事実を知ってますます翻訳ものを買うのが怖くなりました。汗

ポ―が"The Black Cat"を書いたのは150年以上も前。

例えばその時代の日本文学といえば、太宰治よりも森鴎外よりも古いぐらいだから、読みづらい文体でしょう。でも、それを現代風の文章にしてしまうのは「本物」とはみなされない気がする。

……だとすると海外の翻訳も、現代語っぽくしすぎるのは違うのでは?と、思う時があります。

つまり、どこに文学のアイデンティティーってあるのだろう、と。

大筋が合っていれば同じ作品、というわけではないと思います。違う言語に変換するにしても文体の「その人らしさ」がないと、別の作品になってしまう気がする。

どの翻訳が良い悪いということではなく、考えるきっかけになりました。

(本当にどこを目指しているんだろうか私は……)


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