物語の中に浮かぶ幸福

■池澤夏樹『夏の朝の成層圏』


ただただ美しく心地よい一冊だった。

決してフワフワと理想を並べているわけではない。現実に起こりうる出来事かと聞かれたら首を傾げてしまうけれど、その描写はとことんリアルで、嘘がない。


無人島に身一つで投げ出された男。都市において生活は「手段」でしかないが、そこでは生活が「目的」になった。

一所懸命に自分を生かしておくべく苦心を続けた。あれほどなすべきことが目前にたくさんあって、その時その時の必要に追われて動きまわっていなくてはならない状態、迷うとか立ちどまるとかする隙もないほど行為によって一面に埋めつくされた時間というのは、幸福への道の一本なのではないだろうか。(P.108)

その男(「彼」)の体験を通じて私たちは「幸福」を考える。

以前『幸福について』の感想を書いたときに、「文学というのは思想を物語に包んで提示してくれているだけで、哲学と本質は変わらないのではないか」(上のエントリでは違う書き方をしているけど)と考えた。この小説はまさにそう。

読みながらおぼろげに抱いた感情は、確かにその時はあったはずなのに、今こうして書こうと思っても手からこぼれ落ちてしまって何一つ言葉にならない。「幸福とはこれこれこうして生きることだ」とまとめることなどできない。それこそが、この本が哲学書ではなく文学であることの意味だと思う。著者自身も思想をむき出しで提示したくないから、もしくはそれができないから、物語にしているのではないだろうか。

こうやって私たちは物語を心の中にストックして、日々を過ごす中でふいに思い出したり、無意識下に行動が少しずつ変わっていったり、何かと何かを突き合わせて悩んでみたり、そうして思考していくのだと思う。


心が浮遊していきそうなほど美しいのに急に現実に引っ張られる、このギリギリのバランス感覚は池澤夏樹に独特のものだ。芥川賞受賞作の『スティル・ライフ』もよかった。

この二冊はすべての人におすすめしたいです。もし「ハマる」人だったら、読む前と読んだ後で世界の色が違って見えると思う。


夕焼けがないところでは言葉で夕焼けを作ることもできよう。死んだもののことは言葉で語るほかない。しかしこの瞬間に目前にある物を捕える力は言葉にはない。記述や描写や表現は、過去の事物と、遠方と、死者を語るためのものだ。言葉の積木をいくら積んでも、この世界は作れない。(P.12)


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