「私の作家としての絶望はここに始まる」
■ホルヘ・ルイス・ボルヘス『アレフ』
ようやく今、私はこの物語の、いわく言い難い核心に達した。私の作家としての絶望はここに始まる。あらゆる言語は、その使用が対話者たちの共有する過去を前提とした象徴のアルファベットである。私の怯懦な記憶では追いきれないこの無涯の〈アレフ〉を他の人間たちに、いかに伝えればいいか? ー 213ページ
ボルヘスは、現時点で私がもっとも愛している作家だ。──ということがこの一冊で確認されてしまった。
特に表題作の「アレフ」は、筋書きとしては大したことがないのだが、その世界観とディテールにやられてしまった。
冒頭の引用から始まる、「アレフ」を描写するシーン。この語り手はボルヘス自身だ。
ようやく今、私はこの物語の、いわく言い難い核心に達した。
と言った直後、
私の作家としての絶望はここに始まる。
だ。この瞬間「ああこれは最高の物語だな」とわかった。
ボルヘスは「アレフ」という究極の宇宙をある場所に設定した。それをボルヘス自身が見て、描写する、という流れだ。しかしそこで早々に「絶望」してしまっている。続く、
あらゆる言語は、その使用が対話者たちの共有する過去を前提とした象徴のアルファベットである。
という表現によって、ボルヘスは言語の無力さを訴える。なぜなら「アレフ」は、現に存する言語の対話者たちにとって「共有する過去」ではないからだ。つまり、いまだ「アレフ」を見た者はほとんどいないので、イメージを言語(象徴のアルファベット)では伝えることができないと、早々に降参している。のではないだろうか。
作家ですらこのように諦めてしまうほどに、「アレフ」は強烈な宇宙としてあらわた。
がしかし、ボルヘスは諦めずに言語を並べる。具体例、具体例、また具体例、抽象化──。あらゆる角度から同時に宇宙を捉えているごく小さな球体を、ボルヘスは延々と描写する。
この語りが途方もなく魅力的だった。その諦めの悪さ──のように見せかけてその実、自信に溢れた描写。
ボルヘスは自身を、「自らの困惑を、そして哲学と呼ばれる困惑の体系を文学形式に転化させる」人間、いわば困惑の詩人と認じていた。 ー 249ページ
相変わらず難解で、気を抜くと物語から足を踏み外しそうになるが、気合いを入れて読むとすっと向こう側に入れる瞬間がある。その瞬間はとてつもない快感を与えてくれる。
美しい混沌がここにはある。
「アレフ」の他に「不死の人」「門口の男」が好きだった。ボルヘスは「門口の男」についてエピローグの最後で以下のように語っている。
ブエノスアイレスのバラナー街の角に存在する、奥行きのあるアパートメントをちらとだが何度も見たことが、「門口の男」と題する物語のヒントとなった。真実味の乏しさを和らげるために、舞台をインドにした。 ー 225ページ
わかる。私はボルヘスのような天才でも秀才でもないけれど、ボルヘスの感覚がわかる。こうやって精神の中心と中心がつながるように、それこそ「直観」で通じ合える(というか一方向なのだけど)相手がいることは幸福だ。その瞬間の快感はまさに芸術そのもの。言葉でありながら、言葉を超えた理解がそこにある。
私にとって文学は、哲学よりも強い哲学を与えてくれる。今のところは。
私は、すべての物を見たその時、〈アレフ〉を見、そして忘れたのだろうか?われわれの意識はいわば多孔質で、忘却には弱い。 ー 220ページ
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