自分の手にすべてが委ねられている
娘と二人で出かけた。広い公園に隣接したショッピングモールのような場所だった。私はいつものベビーカーに娘を乗せ、歩いていた。夫はいない。
エスカレーターがあり、そのままでは上階に行けないと判断したからだろうか。私は、娘が乗っているベビーカーをその場に置き、一人でエスカレーターを上ってしまった。
気づくとショッピングに夢中になっていた。小一時間も経ってしまった。
「あ!置いてきたままだった!」突然、娘の存在を思い出した。急いでエスカレーターの下まで向かう。
娘を乗せたベビーカーはそこになかった。
私は青ざめた。大声で「◯◯ちゃん!◯◯ちゃん!」と叫びながら、大股で公園を駆けた。周囲にはベビーカーがたくさんいた。なのに私の娘を乗せたベビーカーは見あたらない。
誰かが連れ去ってしまった。どうしよう、どうしよう……
目が覚めると、仰向けに寝転んだ私の胸の上に、娘が覆いかぶさっていた。苦しい。
夢か……。
5:48。心臓の鼓動が激しく、気分が悪かった。ホッとしたけれど、まだうまく現実に戻れない。
結局そのまま娘は目覚めてしまい、私も仕方なく起きた。
・・・
これが「あるある」かどうかはわからないのだけれど、私はよく不安に襲われる。
例えば階段を登っているとき。例えば高い場所に立つと、手すりの前で。
「私がさっとこの子を持ち上げて、ここから落とせば、この命は簡単に失われてしまうに違いない」
想像し、さーっと血の気が引く。
それは決して虐待願望のようなものではない。「やりたい」から想像するのではなく、「できてしまうことが怖い」のだ。何かのジャンプ漫画で「僕が指一本触れるだけで君の腕を折ることだってできちゃうんだよ」というようなセリフがあった。圧倒的な力の差。少しニュアンスは違うけれどそんな感じだ。
この小さな命は、あまりにも儚く、無抵抗である。
まだ人を疑うほどに知能が発達しておらず、特に私を全面的に信用している。
そして簡単に持ち上げられるほどに、小さく、軽い。
自分の手にすべてが委ねられている。
──その責任感の重さに押しつぶされそうになって、時々、泣きたくなる。
私はこれほどまでに重大な責任を負ったことが今までなかった。夫ならば、仮に私が高い場所から突き落とそうとしても、思いっきり抵抗するだろう。そんなに簡単に命を落とすことはないはずだ。人間として「しっかり」しているのだ。でもこの子はそうじゃない。まだ「しっかり」していない。
だから私が「しっかり」しなければいけない。
・・・
だんだんと子どもが大きく育ってきた。言葉らしきものを発しはじめ、大人の言葉も理解するようになってきた。
互いの存在に慣れてしまうと、自分が果たすべき第一の役割を忘れそうになる。この夢は、私の潜在的な責任感の現れなのかもしれないが、同時に、私の責任感の弱まりに対する警笛といえるかもしれない。
この命が無事数年、数十年と続くのならば、私にとってはそれ以上に大切なことなどこの世にない。
その覚悟をどこかに刻みつけたくて、書いた。
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