良い文章とリズム

■村上春樹・柴田元幸『翻訳夜話』


実は私は、海外文学を読むのがもともとあまり得意じゃなかった。翻訳された文体というのが読みづらくて嫌で。だから日本文学を好んで読んできて、本棚も日本5:海外1ぐらいの割合だったのだけど、最近怒涛のごとく海外文学(というかほとんどミステリー)を買っているので、今後割合が変わりそうな気がする。

慣れてしまうと、意外と「翻訳らしさ」が気にならなくなってきて、むしろその「少し遠い感じ」が、べとべとした日本文学よりも心地よいなぁと思うときもある。


この本は翻訳者二人の講義形式の対話と、競演(互いに得意な小説家の翻訳をし合う)で構成されている。翻訳をせずとも、文章を書く人にとってはためになるし面白い話ばかりだと思います。

村上氏が言っている文章の「ビートとうねり」について。リズム感がよく、グルーヴのある文章かどうか。

いくら綺麗な言葉を綺麗に並べてみても、ビートとうねりがないと、文章がうまく呼吸しないから、かなり読みづらいです。(P.45)

最近、意識的にいろんな人の文章を(ノンフィクションで、プロ・アマ問わず)読もうとしているのだけど、確かにこの「ビートとうねり」を感じるかどうかは、読み手としてハッキリわかる。数行読むと「この人はリズムがあるなぁ」という感じがする。

でもそれを具体的にどう身につけるかというと、全然わからない。それから自分と違うタイプのリズムに憧れても、リズムを変えるのってなかなか難しい。私はもっと禁欲的な文章(バッハみたいなイメージ)を書きたいとよく思うけど、無理して禁欲的に書くとリズムが育たなくて、結局ただの読みにくい文章になってしまう気がする。

良い文章というのは、人を感心させる文章ではなくて、人の襟首をつかんで物理的に中に引きずり込めるような文章だと僕は思っています。(P.46)


村上春樹は翻訳をするとき「自分の存在を消したい」と語っているけれど、カーヴァーを訳した文章を読むと、全然消えてないじゃん!って思う。笑 もう何から何まで「村上春樹」っぽかった。悪いというわけではない。客観的に読むと、そもそも言葉のチョイスが個性的なんだろうな。

でも自分の言葉のチョイスって、自分で読んでてもわからないから怖い。翻訳だとこうして比較できるけど、普通は、まったく同じ文章を複数人が書くってやらないから。そういう意味で確かに特殊な仕事だなぁと思う。完全な作業にしてはいけないけど創作してもいけない。

あと、失業者の一人称は「僕」じゃないとか、失業者はパスタを茹でちゃいけないとか(笑)、業界っぽい細かい話も面白かった。


そういえばこんなの↓やってました。翻訳ってこんなに違うんだなぁ、と。


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