一番面白い本の威力

■阿刀田高『新約聖書を知っていますか』


『旧約聖書〜』と続けて読んで、思った。聖書ってやはり面白いんだな、と。

そして、特に面白いのは新約聖書なのだなと。

理由はひとえに、イエスの存在。これに尽きる。

旧約聖書もそれなりにドラマチックで面白いエピソードばかりなのだが、大袈裟なので、むかしむかし……感が拭えない。登場人物の年齢も数百歳と言われると同じ人間と思えないし、奇蹟にしても海が割れるとか……ちょっとレベルが高すぎる。

イエスの周りで起きた奇蹟も大同小異なのだけど、イエスや弟子たちには“人間味”があるので、同じフィクションでも(あ、フィクションと言ってしまっていいのだろうか?)より共感できる。より心に響く。


イエスが十字架に磔にされる前日に、神に対して嘆いた言葉を読むのは、信仰心がなくても辛い。彼が決して完璧な存在ではなく、神の子といえど一人の人間で、一人の若い男だったことがわかる。だから怖かった、でも自分の使命だと信じて耐えた。その葛藤。人間味があるからこそ(私の中では醤油顔かつ困り顔のイメージ)、「よく耐えたね…」という気持ちになる。

ペテロが「あなたは私のことを三度『知らない』と言うだろう」とイエスに言われ、「そんなはずはない!」と憤りつつ、実際にその通りになってしまったこと。鶏の鳴く声と共に自分の犯した罪に気づき、ハッとする──この話は昔から印象に残っている。

そして。おそらくイエス、マリアに次いで有名であろうユダの存在。弟子でありながら、たった銀貨数十枚で神の子を「売った」ユダ。イエスに裏切りの口づけをしたユダ。このエピソードは、いつまでも、キリスト教に無関心な人の心を捉えて離さないだろう。


もうこれだけで充分面白い。

──なんて言ったら失礼というか罰当たりだとは思うのだけど、聖書は面白い。よくできている。できている、という言い方も罰当たりかもしれないけど……私にはやはり、よくできた物語として映る。

100分で名著の『薔薇の名前』の解説に書いてあったことを思い出した。アリストテレスが『詩学』で著したように、悲劇はカタルシスを生む。カタルシスの効果は悲劇作品に対する一種のご褒美のようなものだ、と。

これら聖書のエピソードも、記憶に残るものの多くは悲劇である。そのカタルシスは人の心の奥にすんなりと入り込んで、残る。


どこまでが事実かは措いておいて、これだけよくできていて胸を打つストーリーだと「私の愛読書は聖書です」という気分にすらなりかねない。

そこでふと思う。聖書が愛読書になるということが、キリスト教への第一歩なんじゃないか?と。

つまり──例えばシャーロック・ホームズシリーズを読んで感銘を受けた時は、ホームズのファンになり、コナン・ドイルのファンになるだろう。ポアロシリーズにハマったら、アガサ・クリスティのファンになるだろう。それとあまり変わらない、が、聖書の場合は「作者」がいない(不明である)ので、仕方なく(?)キリスト教の信者に傾いていくのではないだろうか。


──という意味合いにおいて、聖書がこれだけよくできた面白い物語になっていることの功績は大きい。いやむしろ、それがキリスト教が世界一の宗教になれた最大の理由かもしれない。

こんな言い方も失礼だが(失礼ばかりだ)、もしもイエスやペテロやユダのストーリーが、なんの脚色もされず事実そのままに書かれていたら、もっとつまらなかっただろう。もしストーリーがつまらなかったら、人々の心に響かなかったとしたら、信者はもっともっと少なかったのではないか?

大切なのは、原因がなんであれ人々に奇蹟を信じさせるような偉大なイエスが実在していたことのほうである。事実に近い奇蹟もあったろうが、まるっきりの作り話もあっただろう。だが、いずれにせよ、奇蹟のエピソードは一つの比喩であり、イエスの偉大さを大衆に伝えるためには、こうした伝達方法が適していた、ということだろう。事実の報告だけが伝達の手段ではあるまい。小説でしか伝えられない事実というものが現代でもあるではないか。(P.98)

聖書を編纂した人々は偉大だな。


この本自体の話をすると、旧約聖書の方に比べてやや真面目すぎる感じはした。向こうはもっとギャグセンスが高くて笑えたし、バサバサエピソードを省略していて読みやすかったけれど、こっちは真面目な解説本だった。

ある意味では新約聖書のほうがデリケートだったり、エピソードが具体的で細かかったり、複数の福音書があって解釈しづらいとか、いろいろ事情はあるのだと思う。

それを差し引いてもよくまとまった一冊でした。おすすめです。


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