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寄せ書き、苦手すぎる

表題の通りです。



ある日、弊社営業担当が妊娠したという報告が社内メールで送られてきた。すごいな。何人目だっけ。

うちの会社は少子化などなんのそので、社員が毎年コンスタントに1人か2人は新たな命を産んでいる。そんなにポンポン産まれるものじゃなかったような気がするんだけど。今どき本当に珍しい。

メールには、これから数週間はテレワークを続ける旨、その後はしばらく産休に入る旨が書かれていた。
ご迷惑をおかけしますが、だって。迷惑なもんか。私という存在の方がよっぽど社会にとって迷惑で今すぐにでも消えるべきで…………

違う違う。そんなことを考える時間じゃない。
だってほら、みんな寄ってたかって「おめでとうございます!」って言ってる。今はそういう空気。お祝いムード。この流れに乗るしかない。
命が生まれるということは、めでたいのだ。そう世間の相場は決まっている。

さて、そろそろみんな落ち着いてきた。作業に戻ろうか。そう思ったとき、別の社員さんからまたメールが送られてきた。なになに?

『〇〇さんの出産祝いについて』
『みなさんお疲れ様です。さて、先ほど本人からご報告いただきました通り、〇〇さんがこの度、ご妊娠されました!
つきましては、産休へ入られる〇〇さんへ、寄せ書きをお贈りしようと思います。メッセージカードを1人1枚お渡ししますので、△月×日までに……』

終わった。そう思った。

***

誤解されたくないので強調しておくが、その社員さんのことがイヤとか、そういう気持ちは全くない。お話が上手で、軸がブレなくて、とても尊敬できる方だと思っている。
お祝いの気持ちも、もちろんある。どちらかというと「子どもが産まれる」ということよりも「妊娠、出産という文字通りの『産みの苦しみ』の過程にこれからチャレンジする人間がいる」ということへのリスペクトが強いけれど、それも紛れもなくお祝い、だと思う。だからわたしは、祝うつもりが十分ある。

それでも、それでもさあ……

本当に寄せ書きが書けないんだよ。


これまでの人生でも、何度となく「寄せ書きお願いします!」「メッセージ集めます!」という瞬間に立ち会ってきた。時に部活で。時にバイト先で。時に遠くへ旅立つ友達へ。

そのたびに私は、死ぬほど困ってきた

どうしても書けないのである。その主な理由は、恐らく以下の3つにある。

1.適当に済ませられない

私が小さく切られたパステルカラーの正方形を見つめながらウンウン唸っていると、必ず周りから言われるのが次の言葉である。
「なんか適当にパパッと書けばいいんだよ」
「どうせ誰もちゃんと読まないし」

わからないだろ。
めちゃくちゃちゃんと読む奴がいるかもしれないだろ。


こういうものは、手を抜くと一瞬でバレる。「ああ、この人、本当に私に興味がないんだな」、そう思われる。イヤだ。
淡白な人間だと思われるのは別に構わないけど、淡白かつその態度を堂々とメッセージカードに表現してしまうような奴だとは思われたくない。

ましてや、こういうものは周りの人間もいくらでも読める。寄せ書きは、宛てられた本人(いわゆる主役)への私信と見せかけて、その実、書き手同士が主役との関係性の深さを見せつけ合う、"短文のマウントバトル"である。
負けられねえ…負けられねえんだよ……この一筆に、俺の魂のすべてを乗せなきゃなんねえんだよ……
お前らも、適当に書けとか言っといてしっかり仕上げてくるだろ……俺は知ってるんだぞ……

2.貰い手としての良い思い出があまりない

これは完全に人望の問題である。
どこのコミュニティに属していても先輩からも後輩からもロクに好かれなかった私は、卒業だとか引退だとかの節目に、必ず中身がペラッペラの寄せ書きを受け取ることになる。

私が貰う寄せ書きのイメージ。ずっとこんな感じ。
「あまりお話できなかった」ことは言わなくてもいいだろ


みんな書くことがなくて困ったんだろうなぁという様が如実に見てとれる。いや、いっそ困りもしないのかもしれない。多分みんな箸休め的な気持ちで書いている。この寄せ書きは、どう考えても「本番」ではない。

普通に人と仲良くなることができない私が悪いんだけど、その功罪がこうして形となって手元に残ってしまうとかなりヘコむ。私はこの数年間、一体何を成してきたんだ?なぜ、この卒業のタイミングで、こんな現実を鼻先に突きつけられなきゃいけないんだ?

だからせめて、自分が書く側となる時は、何か1エピソード交えたような、気の利いたことを書いておきたい。
人望のない奴が急によく覚えてもいないエピソードを添えてくるのはそれはそれで怖いことかもしれないが、この悲しみを他人にそのまま同じだけ負わせようとするのだけは間違っているような気がする。気がするだけ。わからない。

3.スベりたくない

実際問題、これが一番深刻である。

メッセージカードに書ける文章なんて、一人あたりたかだか3〜4行くらいのものである。
その文章量の制約が、むしろ大きなプレッシャーとなっている。

とにかく無駄がなく、かつ趣旨に沿っていながら、気の利いたことを書く。
大喜利と何が違うのか。

もちろん、一般人の寄せ書きにそんな抜群のユーモアやウィットを求めている人間はどこにもいないことはわかっている。あえてこう書こうかな、理解わかっている。

けれど、最善のメッセージを目指すということは。つまりそういうことなんじゃないんですか。「一言で心を鷲掴みにするようなスーパーユニーク名文、したためてみなさいよ」ということなんじゃないんですか。私には無理です。

こうやって自分で寄せ書きのハードルを勝手に上げ、勝手に怖気付いて、勝手に勝負から降りている。実のところ、その繰り返しである。

怖い。怖い。スベりたくない。人とちょっと違うことを書こうとした結果、主役にも意味が伝わらず、「こいつは(字が汚くて)何を書いているかよくわからない上に、(内容も)何を書いているのかよくわからない」と思われやしないか。そうなったらおしまいだ。祝福の言葉が困惑の言葉にすり替わってしまっては絶対にいけないのだ────

***


私はもうダメだ。私を置いて、みんな先に行ってほしい。私抜きの寄せ書きを、産休前の彼女に届けて笑顔にしてあげてほしい。
それが一番幸せな方法だ。私も彼女もそれでいいのだ。だからもう、許してよ。

この苦しみが理解されなくても全く構わない。その代わりお願いだから、本当に書けなくて深夜にカフェイン入れながら泣いている人は特別に提出しなくてもいいことにだけしてほしい。お願いだから。後生です。


締め切りは明日に迫っている。この小さく切られたパステルカラーの正方形に3、4行の文章を書く前に、私はとうとう2700文字のnoteを書き終えてしまった。

お金を頂いた場合、より幸せに生きられる確率が高まります