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ちんちんを親戚・知人に紹介するとき、君はスーツか?

 ちんちん短歌をこんな感じで紹介されたのだった。

 ありがたい話である。まさか、こんな感じで紹介されるとは思わなかったが、とはいえ、そうはいっても、ちんちん短歌にはブンガク臭いことは漂わせているわけだし、こういう感じで取り上げられることは、あるだろうなとおもった。

 俺はちんちんなんだけどなあ。

 ちんちんを、親戚や知人に紹介するときは、やはりネクタイをちんちんに捲くべきなのだろうか。紹介いただいたサイトも、「短歌評」という、きわめてスーツな、ネクタイのしまったサイトだった。紹介のされ方も、きわめて革靴だ。腕時計であり、七三分けだ。
 短歌という、文学のスーツのおかげである。

 たとえばこれが、芸人さんのファンブックで【短歌芸人タンカマンの、ちんちん短歌あるあるチンチョロ1000連発おもしろブック!!】とかだったら、同じ短歌が収録されていたとしても、紹介されていたのかどうか。たぶんされない。
 それは天津木村のエロ詩吟が、詩吟として批評されないように。

 天津木村のエロ詩吟のファンブックが、詩歌の棚にはおかれない世界線に私たちは居る。木村は詩人として評価されることは、多分ない。たとえ天津木村のエロ詩吟の中に、かなり詩としておもしろい表現があったとしてもだ。この世界線では、木村はだめだ。なにもかもだめだ。

 「短歌評」にちんちん短歌が紹介されるという事は、私に「文学っぽい」という隙があったんだよなあと思う。

 上記の「短歌評」のサイトで、触れられていないところが1点ある。それは私が「ちんちん短歌」で女性と出会い、セックスするために短歌を作っているという点だ。これは歌集の中に収録した4つのコラムの中で、何回か触れており、ちんちん短歌が何のために生まれて、何して生きるのかをしつこく強く説明したところだけれど、その部分は全くのあれなのだ。

 たぶん、そういうのは「文学ではない」のだろう。言葉を使って創作して、女性と出会い、セックスしたいという動機は、文学に含まれないのかもしれない。
 しかし、だとすればそれはなぜか。
 短歌を使って女性と出会おうとすることは、文学の「外」なのだろうか。そもそも、文学において、文学の外とは何か。

 文学を使って何らかの政治活動をするという事がある。プロレタリア文学とかそうかも。あるいは特定の宗教思想を伝えるため、文学という形に託すというのは昔からやられてきたことだ。
 これ、なんか、文学の外っぽいきがするがどうか。

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 あーでも、三浦綾子の『塩狩峠』は、キリスト教の思想を伝えようとする精神が前提になっていたりするが、文学としての評価で「キリスト教のよさ云々」は語られたりしてそうなんだよなあ。なんだろうなあ。

 文学は何でもありの領域ではない。
 例えば、ピンチョンの『重力の虹』は非常に分厚い小説で、新潮社版の『重力の虹(上)』に霧吹きをかけて冷凍庫で凍らせると、釘が打てるくらいに堅くなる。
 だが、それを文芸誌で深く考察したものはいない。
 どれくらい水分を含ませればよいか、冷凍時間はどれだけがいいのか等、釘打ちに必要な硬度計算をしたりするのって、文学ではないっぽい。
 批評に乗るのは、紙に書いてある文字の意味の方で、その外側については文芸誌を買うようなチンチョロチービィー達にはチンチョロどうでもいい事なのだろう。別にいいんだ、本で釘が打てるかどうかなど。本で人が殺せるかなど。みんな人の死など興味ないんだ。

 チンチョロチービィーとは誰なのかは全く分からないものの、文芸誌を買うような少数派は、文学の外側をあんま欲しない。だから私がちんちん短歌でどれだけの女性を抱こうとしているとかには触れないんだなあと思った。

 ただ、そこを触れずに、ちんちん短歌は存在しうるのかどうか。ちんちん短歌を詠むことで女性とセックスしたいという念を切り離して、ガンダムは大地に立てるのか。
 ガンダムはロボットアニメであり、ロボットおもちゃを買わせるがためのアニメであるという側面から、作品内設定上、ガンダムは主に宇宙で破壊工作をする機械なのに、大地に立つため足が生えている。
 それを、アニメ好き話者は「あれは宇宙でバーニヤを用いないアンバックという機構のために必要なもので足に見えているけど実は……」みたいに語るんだけど、それって、ガンダムというものを正確にとらえた批評なのか。「ガンダムはおもちゃであり人形だから、足がついてなきゃいけなかった」みたいな、物語や作品の外側からの批評や事実の紹介は、作品の批評たりえないのかしら。

 僅か30部しか製本していない歌集の『ちんちん短歌』は、ありがたいことに文学の批評の遡上に取り上げていただき、手に取ってもらった30人以上の人にその存在を知っていただける可能性を出していただいた。「短歌」という枠組み、「文学」の中での知られである。
 紹介された評では「一つの単語への執着」という点で評価していただいた感じがある。なるほど、その切り口で見ていただいたのか。たったひとつの単語をさまざまに詠う事で、国家や法、人間性など様々な詩情を表現しうる点が、文学として評価できる褒めポイントなんだなあと。
 そこには気が付かなかったし、ありがたく指摘してもらったなあと思った。

 ただ、文学の中で褒められるという事は、「短歌を使って物理的にセックスをする」という外側は、オミットされてしまう。文学というパンツを穿く。社会に出て、挨拶をし、短歌を紙に印刷してお金と交換するという円環に参加するためには、パンツを穿かねばならないんだなあと。
 つくづく、社会の中でちんちんは出せない事を、思ったのだった。

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本日の有料記事はちんちん短歌新作11首。
『チンチョロチービィーおばけ大行進』という表題をつけて、こういう表題をつけることによって短歌に表題をつける行為ってすごく格好悪いなあという事をチクリとやろうと思っています。

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