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男尊女卑だからセックスしたいと言うちんちんなのか?

 私のちんちん短歌を詠もうという動機が「女性とセックスしたい」であることは何度も言いすぎて、そんな露悪的に頑張らなくても、結局かっこいいっぽい現代口語短歌を作ろうとしてウケようとしている自分という照れアピールはもういいですよ、と幻覚の中現れる小さなドラミちゃんに言われつづけて、疲れている。
 小さなドラミちゃんは私が短歌を作ろうとすると「あーあ」って顔をする。「ほーら」っていう。「結局ブンガクじゃないですか」と。

「う、うるさい! 俺はセックス目的でちんちん短歌作ってるんだから、これは恥ずかしい奴じゃない! サブカルなんだ! サブカルだから全っ然恥ずかしくない! 俺の耳元で、「ほーら」っていうの、や、やめてくれ!」

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 そう、絶叫し、耳からドラミちゃんを引きはがし、床にたたきつけ、馬乗りになり何度も何度もその顔面を殴りつけているのに、ドラミちゃん、ぜんぜん「あーあ」って顔をやめてくれないので、最近ほんとう困っている。

 そして空想の中であろうと、空想の女の子を馬乗りに殴りつけている自分に、ひゃっとする。俺、やっぱり男尊女卑なんじゃないか。男尊女卑だから、耳元でささやく空想上の機械猫女に馬乗りになり、首を絞めたり頭を床にたきつけるようなまねができるのではないか。
 もっと言えば、男尊女卑だからこそ、自分のちんちんを自虐するテイで、恥ずかしさから逃げようとしながら一週回ってブンガクっぽいことをふるまい欲を満たしている、という感じで、「ちんちん短歌」を作ろうと思うんじゃないだろうか。

 ちんちん短歌の中の数首は、あきらかに女性を蔑視するような視点で詠まれているものもあると思った。そもそも「まんこもちんちん短歌に入る」というスタンスも、ギャグ調にしているけど、根底に男尊女卑の思想がなければそうしないんじゃないか。
 本当に女性を蔑視しない男性書き手の文学・詩歌って、どういうものなのだろうか。宮沢賢治のように生涯童貞の作家によるものになるのか……そもそも「男性書き手」というものを意識している点で、もう男尊女卑というか、古い、アップデートできていない、価値観が最新でない中でものをつくろうとしてるんだろうかしら。

 『ちんちん短歌』の感想の中で、「男性のホモソーシャル内部で消費されるあるあるに帰結してしまう可能性があるのではないか」という評を目にして、それを全く想定していなかったので驚いた。
 それはありうるかもしれない。ちんちんを持たなければわからない共感ってあるよねー、みたいな読まれ方もあるのか……。自分自身としては、ちんちん短歌の読者を、かなり純粋に、セックスしたい女性に向けて作ったものだったから、男性読者の存在は本当に意識してなかった。でも、そうか、そりゃあ、男性の読み手にも誤配されるし、そこで、ちんちんを面白がられたりするってあるよなー。

 話がかわるけど、小学生のころ、「女」って言われるのが、本当に怖かった。

 別に私の身体が女の子っぽいわけではなかった。ただ小学生のころ、なぜか女子と話すと「お前は女だ」「女と話したから女菌がついたからお前に触ると女になる」「だからドッヂボールには入れない」と、ずっと言われつつげてしまった。
 きっかけはなんだったか。たしか先生に授業で当てられた時、つい「わたしは」と答えてしまった時があって。男子なのに「僕」を使わず、ついうっかり「わたし」と言ってしまうという過失。それを、クラスの男子たちは見逃さなかった。「自分の事を”わたし”っていうのは女だ」と。
 当時の私は釈明する。「僕は女じゃない」「授業の班の話し合いで女子ともしゃべらないと先生から怒られるから仕方なく話した」「わたし、は間違えて使っただけで、僕は絶対に女じゃない」と。
 必死に男子たちに説得したが、無駄だった。「お前は女だ」と笑われ、蹴られ、ドッヂボールには入れてくれない。
「お前は女だからこれを使え!」と赤い折り紙を机の上にバンと置かれる。それを触ると「お前は赤い折り紙に触ったから女だ!」とまた笑われる。水泳の授業でも、赤いビート板を無理やり持たされるし、服に少しでも赤系統――暖色でもだめだ――が入っていると、もうずっと「女だ女だ」と言われてしまう。
 それがあまりにもつらくて、自分の着ている服の赤い部分をハサミで切り取ろうとしたら、先生にすごく怒られてしまった。私はわんわん泣いて「赤は女の色だから」説明したが、先生は全く理解してくれなかった。

 「女」と言われるのが本当に怖かったし、ドッヂボールに入れてもらえないのが、つらくてつらくて仕方なかった。なぜか、僕だけそうなる。他の男子が赤い服を着てたり、女子と話していてもそうならないのに、僕が女子と話すと「女菌」と言われてしまうし、ドッヂボールに入れてくれない。

「藤田が怒ると面白いんだよ」と、同じクラスの傷だらけの男がそう言ってくれた事がある。いつも突き指している男が、そっと教えてくれた。小学1年生の、夏休みの1週間前の、国語の前の行間休みの時だった。
 その時、なんとなくわかった。僕が受けているこの仕打ちは、「笑い」なのだ、と。女がどうこうとかではない。「男が、女だってみんなで言うと、笑えて面白い」なのだ。
 僕がどれだけ、心の底から、死ぬ気で、本気で「やめてくれ」「僕は女じゃない」「ドッヂボールにいれてくれ!」と絶叫しても、それは笑いになってしまう。いじめではない。いじめではないんだ。彼らも、僕に本気で女の子だという理由で差別してるわけじゃない。笑いだ。笑いの力だ。笑えるから、僕の「やめてほしい」「つらいんだ」「くるしいんだ」「死にたいくらいくるしいんだ」「ほんとうのこころなんだ」「ドッヂボールにいれてほしい」という声はかき消される。
 僕のまごころなんかより、笑いの方がはるかに強い。
 僕はそれを、その時悟った。

 それからというもの、僕は「笑い」の強さを尊敬することになった。まごころを示すとか、正直でいる事や、正義を貫くことよりも、「笑い」の方が強い。人を動かす。人を変える。
 だから、「女」って言われないようにするには、「僕は女じゃない」と主張するより、それ以外の笑いを起こせばいい。
 例えば、ちんちんを出すとか。
 これはみんな笑ってくれた。男子は大爆笑だった。僕がちんちんを出すと、みんな手を叩いて笑ってくれる。「藤田が教室でちんちんを出した!」「先生に言いつけるぞ!」と盛り上がり、僕を蹴り、ランドセルをちんちんめがけて投げつけられ、僕の持ってきた消しゴムや鉛筆を金魚の水槽にぶちまけて、笑ってくれる。「藤田がちんちんを出したから消しゴム全部捨てといたからー!」と、みんな幸せそうに笑う。ちんちんを出すと、ドッヂボールににも入れてくれる。笑いはすごい。笑わせると、人は仲間に入れてくれるのだ。

 それ以降、私は人を笑わせることばかり考えていた。笑わせないと、僕はこの世界に居られないのだ。
 そして「この世界」を構成するのは、向こう側にいる男子たちだった。そこに女子は居ない。ちんちんを見せて笑う女子は、男子側に付いている少数の女子しかいなかった。
 
 なんでだろうなあ。

 そのあたりに、僕の「男尊女卑」の根底はあるんじゃないかなあ。「女」にされると、世界から外される。男の世界、つまり、この星の支配階級から外されないためにも、笑いをとることで参加しなくてはならないこと。

 その始まりが、ちんちんを見せる、という事から始まっていたのを、書きながら思い出しました。

 さてそうなると、私はしかし、なんでそんなに女性と……「女」と、セックスがしたいんだろうなあ。もう少し自分の記憶や過去を掘り起こす必要がある。
 少なくとも小学生の時点では、女性に対して嫌悪感と警戒心があった。あっち側にいったら、ドッヂボールにいれてくれない。その気持ちから、どうしてセックスをここまでしたい、という気持ちに至るのか……。

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 さて今日、わたしが今、一番好きな女性から「今私、彼氏とセックスしているよ」とラインが来た。その女の子に私は「このラブホ行ってみたいんだよね」と個性的なラブホの情報を伝え「機会があったらここに行きましょうね」と約束をしたのだったけれど。
 彼女は今、そこで、今、彼氏とセックスしているという。

 どうして私はこんなに、男尊女卑なのに、セックスしたいんだろうなあ、ブンガクっぽい何かをやりたいんだろうなあと思いながら、この文章をしたためているのだった。

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