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悪口を言う時は悪口ですと言ってくれ別にあなたのこといい人だなんて思ってないから

 批評とはその物自体を全て受け入れる作業ではなく、過大も過小もせずにフラットな目線で物事の尺度を測ることだと認識しているのだけれど、その目線が偏ることなく息をしていられる環境は自分で形成するものだと思うこの頃です。


 何かについての批評をしがち(その意見に多くの承認欲求が集まるからという理由だと私は推測しています)なこの世だけど、もうそれは批評というか主観だろそれ、みたいな構文を用いて他者を攻撃あるいは自分のアイデンティティを誇示するみたいな文章にやたら"いいね"がつく現象、これすなわち現代の病の根幹じゃないか?みたいな状況を最近顕著に見ることが出来て大変"生"を実感します。何があれかって、こういうことを呟いている当の本人は正しい価値基準に則った批評をしていると本気で思っている可能性が高いことにあって、私はそこの部分に逃げを感じて彼らに対するセンスの無さを噛み締めなくてはならなくなってしまいます。
 

 何か自分の意見や価値観を露呈する時には必ず何かを失うこと前提に引き換えとして出すことが、本気のお気持ち表明だと思っている節があり、要は所詮現象に対する考え方なんて見方によって180度変わってしまうのだから正義も悪もクソも無く、単純に「お前の考え方マジで気に入らねぇんだよ、愛を込めて中指も付け足しとくね」という悪口をどれだけ面白くセンス良く自覚を持って書き連ねることが出来るか、これに尽きると思うのです。悪口を書き連ねるということは敵が出来る訳で、もうその時点で現代社会の鎧のひとつである"いい人ムーブ"は失われているのでそれはお気持ち表明として成り立ちます。けれど先ほど述べた、批評をしていると本気で思っている人たちが書き連ねる文章は「これは悪口じゃなくて"常識"に基づいて判断される良質な意見であって、こちらの方が正義として見られるよね、普通はね」みたいな大変卑怯な皮を被った悪口であるからして、お前の主観で道徳を解くなよ、たかが底が知れた人間性で、というような意見しか持つことのできない大変厄介な代物となる訳です。大概正義や常識などを蓑に振りかざされる文章や意見の浅さなど歴史が何度も証明してくれているはずなのに、私たちはエラーアンドエラーを繰り返していってしまう。不器用な存在ですね、人間は。
 悪口を悪口として悪口だよだから何だと宣うことが出来る人、私は大変に好きです。綺麗事が何ひとつ通用しないこの世を生きるからこそ、綺麗事に縋りたくなる気持ちも分かるが、それはそれとして私も単なる悪口を連ねているだけなので、もうみんなして道徳を解くふりを一旦辞めて「お前のそういう考えが本当無理、意味わかんないんだけど嫌い」って言い合って殴り合う機会みたいなもの、あったりしないですかね。あったらいいな。殴り合った後は肩組んでオリジン弁当でも一緒に食べようよ。

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