性なる聖、聖なる性


文章で登場するのは久しぶりかもしれない、お久しぶりです。気圧というどうしようもない暴力に負けては起き上がるを繰り返すこの頃です。みんなも気圧と戦えてるかな、負けちゃってもこの試合には負けてOKな感じがあっていいですよね、気圧。全て委ねてしまえるところは委ねてしまいましょう。
  12月の神様かよ、とか思うくらい忙しない日々を過ごしてはいるものの、溜まるものは溜まるのでどうせなら出してしまおうとしたためた文章の一部分になります。それにしても溜めたものを出すって、とてもえっちな行為。


 我々おそらくほぼ全ての人類が抱える矛盾というものは"性"から始まると思っていて、"性"と"聖"の同一化を自認するところからアイデンティティの確立は始まるものでもあると思うのですが、私はこれを「羽化」と呼ぶことにしています。聖と性、性と聖。この2つは非なるものだという答えがマジョリティを占める今日この頃ではありますが、我々人類の進化の過程で必ずと言っていいほどこの2つの単語が立ち塞がってきたようにも思えるのです。男だから、女だから。それは神聖ではない、それは性的である。また逆も然り。聖なるものと性なるものが相反する状況を作り上げることにより生じる争いに身を投じるのもなかなか疲れる作業です。本当はみんな、わかり合いたいだけなのにね。


 ただ人類の歴史を振り返ると、私たちは羽化を避けて性と聖を相反するものとして位置付けたいのかもしれないとも思います。足りないものを補いあう作業をしているときって1番気持ちいいから。そうやって完結することなく、ゆるやかな地獄へと愛するものたちと堕ちていく方が好まれるのでしょうか。それもまた一種の幸せとも言えるのだけれど。性と聖の一貫性に共感はするものの、完結するにはまだ早いとも思うので、これからも相反する状況の美しさを抱きしめて、みんなを性的に愛したいです。それは聖に繋がってるという証明にもなるはずだからね。

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