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Earl教授の終わらない追憶:人格と記憶、そしてその円環について

僕たちは一体何なんだろう、って考えたことあるよね? 性格とか癖とか興味や趣味に経験。ジブリのキャラは誰が一番好きかとか。いろんなことを紐付けて、ぼくらはぼくらを、ぼくらと呼んでいる。それが正しいなら、およそ僕たちを定義付けているものって、その総体である記憶なのかもしれないね。その事をほんの少し頭に入れて読んでみて欲しい。

2013年、僕はカナダのトロントアイランドで暮らしていた。それは何度目かの逃避行で、あの頃の僕は、金融危機や大地震があるたびに海外に逃げ出すようなヤツだった。島での役割はほとんど何でも屋で、ある日はペンキ屋になって教会を真っ白に塗ったり、ある冬にはボイラーの修理に家々の地下を潜って周ったり、まあ共同生活の手伝いって感じなんだけどね。コミュニティについての詳しい話は今は置いておいて、そんな中の一つにある老人の世話役を頼まれたことがあったんだ。

Earlさんは大学で建築学をずうっと教えてきた。とても偉い教授だったんだって。だから島のみんなはいつもProf.をつけて彼の事を呼んでいた。

夏の木立にかこまれた、まばらなレンガ路。両脇にはコテージやログハウス。そのうちの一つが彼の屋敷で、毎朝早くから、とても清々しい道筋を、僕はどうしても憂鬱な気持ちで教授の元へと通っていた。

木々のアーチをくぐり、玄関へ向かうとアイツが飛び出してくる。名前は知らないけど、僕は勝手に「モップ」ってその犬を呼んでいた。犬種も知らない。ボウボウ伸び放題の毛に、顔も手足も覆い尽くされて、文字通り床を掃きながらやってくる。おかげでそこの床だけが綺麗なんだよ。歓迎してくれるんだけど、カスだらけの房の塊は、不潔と悪臭の怪物って感じで、最初は正直好きじゃなかった。これまで誰も洗おうとかって思わなかったんだね。

玄関をくぐると様々な調度品が目に飛び込んでくる。ーーおそらくヴィクトリアンと思われるーー、みたいなセリフが出てくる小説じゃなくて、この話は頭からお尻まで、とにかくも事実だってことを忘れないで欲しいんだけど、たしかにお話に出てきそうなシロモノだったよ。その時はそこにある物は全て、埃と蜘蛛の巣のヴェールに覆われた無意味な標本だったんだけれど。でも本当に目を惹くのはその蔵書だ。中二階と踊り場まである古いロッジ。それがそのまま古代図書館と化したと思ってくれればいいや。さあ一体どんな人物がここに住んでいるんだろう?

その主人といえば、いっつも家の最奥、全体にしてはかなり狭めのキッチンに、ひっそりと腰を下ろして佇んでいるんだ。視線の先にはいつも必ず、あの写真があった。けっこう大きんだよ。葬式の時に喪主が胸に掲げて歩いたりするのを見たことあるでしょう。まさにそんな感じでさ。ちゃんと額に入って、流し台のちょっと上に飾られているんだけど、なんのことはない、小さな男の子が、石の塀から身を乗り出して、川かなにかおおきな水面を見つめている後ろ姿なんだ。足もホラちょっと浮いてるような感じだよ。

僕はいつものように声をかける。
Prof. Earl, Do you read me? It’s Kay your caregiver.
このセリフなんど言ったかわからないよ。Earl先生、わかりますか?あなたの介護に来ているKayです。ってね。
もちろんわかってやしないからそんな風にいうのさ。

もうわかるでしょう。先生はもはやとっくに記憶が定かじゃないんだよ。
彼の病名は、The Short Term Memory Disorder : 短期記憶障害ーー、と呼ばれるものだったんだ。
それはただの痴呆とは違って、今という現在点から、その先の未来の記憶を保存できないって症状なんだ。HDがいっぱいになってキャッシュ先がないっていえばわかるかな。だから日常のことはもう何もできない。ペンやナイフを置いた先から、現象は意識の淵から零れおちて、もう存在していなかったものと同じになる。

そうだ先生の外見だったよね?
悪気はないんだけど、白髪のっけた豚かと思ったよ。90に手が届こうという高齢で、風呂なんてもちろんずっと入ってないし、初めてあった時はほとんど裸だったし。脱いだ服のことなんて、明日する糞のことくらい気にならなくなっちゃってるんだからさ。それに本当に面喰らったよ。正直どうしたものかわからなかった。島のコミュニティが僕に要求したのは、ただ食事を届け、教授が忘れずに食べるのを見届けさえすればいいってことだったんだから。

でもそれでハイわかりましたって、サンドイッチ置いて帰ってハイ終了って、君はそれでお金を貰えるかい?

これまで説明したような状況、控えめにいっても幽霊屋敷に痴呆老人と雑巾みたいな犬。悪臭と黴と埃で、美術品と稀少本を閉じ込めた発酵槽みたいな場所ーー、に居着きたいなんてやつは、どう考えても変わり者だろう。でも僕は少なくとも島に雇われてそこいた。島の人々にも恩があった。ただの貧しい給食係以上になにかできたらという想いと、実際に教授の状況に少なからず興味もあった。やっぱり変わり者ってのはあってたんだね。

そこで僕は、毎日朝食を届けるだけでなく、できるだけ教授の話も聞いてみたいって思ったんだ。

始めてみてまずわかった事は、Earl教授は現在の症状に陥る前の状況や出来事を、ーー集中が続く範囲でーー、思い起こすことができたということ。その時間は、4、5分の時もあれば、10分程も続くような時もあった。学生のころ留学したフランスがどんなに素晴らしかったとか、教え子の面白かった癖だとか、断片ではあるけど次々飛び出すんだ。今までもしかしたら誰も、そんな会話を試みようとも、思ってもみなかったのかもしれないな。

当時、水回りだけを清掃にくる掃除婦なんかもいたんだけど、彼女たちの教授に対する態度は、完全な無視か、犬に対する警告のような発声以外、なんにもなかった。その点はちょっと擁護したいのだけれど、もしこの状況がそのまま日本で、自分が一介の作業員のような立場であれば、僕だってわざわざ業務時間を押してまで白痴の患者に語りかけたいなんて夢にも思わなかったんじゃないだろうか。君もそうじゃない?

もう一点、彼は興が乗り始めれば問題なく、一貫した英語を話した。当時から今も僕はことばの習得には目がなくて、そこにチャンスさえあれば、その場は理解できようとも出来なくとも、会話の流れに混ざりたいという欲求があった。そういう気持ちが無いと言語なんて身に付きはしないんだからさ。ちゃんと学校で学んだ訳じゃない分、いつも必死だったんだよ。

そういう訳で、僕は教授の助手兼世話係、そして話し相手として、彼のキッチンに居座る適役になった。常には先生の意識は朧げで、幼児のように振舞っていることが多かったし、周りには、赤ちゃんを相手にするよう、彼に話しかける人もいた。だけど僕はいつでも、たとえ数センテンスでも、彼から意味あるものを引き出したいと願っていた。いろいろ試したよ。彼の身の周りの家族の肖像やら小物なんやらについて質問をしたり、突然ふいにシャンソンを歌い出したりするんだけど、その歌詞の意味を訪ねてみたりするんだ。学生がするようにね。

最初は、ほとんどゲーム感覚か、英語の練習みたいな考えだったように思う。でも大抵の試みは失敗に終わった。たとえ会話ができたとしても、彼も記憶錯誤者によくある羞らいを持っていて、すぐにお決まりのクリシェばかり、繰り返して話そうとするんだ。頭に負荷のない単調な話だけなら、健全に見せることができる。そうして、やがて訪れる”全喪失”までの間を繋ごうとするんだよ。そのまさに最たるものが例の写真にまつわる話だったんだ。

どれほど写真について語り合ったか、とてもじゃないけど計り知れない。なにせ写真の少年は、他ならぬかつてのEarl教授自身なのだから、思い出もひとしおだ。あるときは美術館の研究員のように、そっと視点を差し挟んだり、まさに大学教授のように、僕に意見をもとめたり、、、。
「よろしければ写真を解説致しますが?」
「君、どうだねこの写真を見て胸に浮かぶことは?」
そうかと思えば子供のように戻って
「ねえ、あの写真の子は何考えてるのかなあ?」なんて具合に毎回違うんだ。

ほんとに、その場では笑ってしまうんだけど、これにはギミックがあって、それは先生が一度全てを忘れてしまった場合、必ずその写真の話をすることで、それを軸として現実に戻ろうとしていた証左なんだ。喋り続けているうちはいい。でも集中力が切れれば、または視線を逸らせば、どこにも行き場のない思考は立ち所に霞となって消えてしまう。それがいつも何度でも起こりうるって、きっととんでもなく恐ろしい体験だと思うんだよ。

僕にはわかったんだ。何故なら僕は面と向かって、彼が記憶を失う瞬間を、その時の瞳を何十回も見てきたから。飢え死にしそうなのに、人を頼っていいかわからない猫のようなあの瞳。突然の自信の消失と恐れは、目に見えない動揺となって、僕の心の襞にも押し寄せてくるんだ。その場合は、お決まりの台詞を僕が言う番だ。なんなら自己紹介も改めてするし、それは後回しにして共に写真を振り返ってもいい。記憶の鍵ということ以上に、彼はあの写真を愛していたんだから。

そうした会話が彼の脳髄に染み渡っていったのかどうか、確かめる術は無い。いや記憶としては留まっていない事は明白だった。でもそんな話を続けているうちに、先生は僕を全く怖がらなくなった。突然引き攣ってWho are you?と叫び出すようなこともなくなった。それに続いて色々な素敵なことが起こり始めた。

先生は、それまで完全無欠のひきこもりだった。そりゃ自分の脳髄すら毎秒疑ってるのに、当然のことだよな。でも少しずつ、自分といる時には一緒に玄関のドアを越えられるようになった。その時だって絶対怖かったと思う。でも手を取って連れ出したんだ。爪はお化けみたいに伸びていて、気持ち悪いし、slowlyって何度も叫んでてコッチまで恐ろしかったけど。でも太陽の下にでてしまうと、とても気持ち良さそうにしていて、僕は本当に良かったと思った。

ある日の朝、いつものように彼の家に出勤すると、先生はどうやら自分の意思だけで外へでてきたようで、満ち足りて日を浴びていた。モップが彼の足元で戯れていて、そして僕は泣きそうになった。

島の人たちも、彼が家の外まで出歩くのを認めるようになった。そうなんだ、今まで目に見えていなかっただけのことだったんだ。彼はとても偉い教授だったんだって。それを知っている島のみんながProfessor Earlと呼びかけると、彼は微笑んで会釈を返した。

Mary Hayはすぐに彼を清潔にしなければと思い立った。僕も手伝って、彼はやっと爪を切ってもらい、風呂に浸かり、分厚く堆積した踵もスッカリ削り落とされ、ノリの効いたシャツに袖を通した。掃除のための道具や梯子などが集まり、Maryと僕はそれらを使って家中を、ーーそれこそ屋根の上までーー、徹底的に綺麗にした。

家中の埃や蜘蛛の巣は取り払われ、全ての窓が内からも外からも拭き清められると、そこには、外に出ずとも十分に陽を楽しめる、透明感のある空間が蘇った。毛を刈られたモップは、モップ掛けの済んだ床の上を嬉しそうに滑っていた。ギリシア風な石膏も、皮の背表紙に収まる偉大なる名前たちも、そこでは少しも恥ずかしそうに見えなかった。

Earl教授はといえば、わかりきったことだが、本人の症状には一切、回復があったわけじゃない。普段の彼はいつも混乱し恐怖し、怯えたままだ。可哀想だけれど、常に自分がどこにいるのか、頭では死ぬまで見出せなかっただろう。ただ無意識的にでも、誰かがそばにいるなら、そんな過去への恐怖を断ち切って、憶える必要もない今を味わうことを自分に許せるようになったんじゃないかと、そうだったんだと願いたい。そうでなくても僕らはあの時全員変われたんだ。

僕は幾千度もの彼の逡巡が、時に真に迫った洞察に至るのをこの耳で聴いた。La Corbusier, Buckminster Fullerなど偉大なる建築家たちへの彼の賛辞や、人間愛を根底にした深い考察を、5分や10分という制限はあってもーー、たしかに聴いたんだ。

思い出の写真の中をくぐり抜けて、どうにか現在に帰りたかったEarl教授。
だけど壊れたレコードの心は、もう決して完全な今への道筋を示すことはなかった。
それでも、過去完了進行形の文法しか使えない彼のダイアログにも、今を生きていた僕に伝わる何かが、何かがそこにはあった。その点において僕は彼を理解できたし、記憶を超えて、その理解のなかに、彼の一瞬の今は生きていたように思う。

Earl教授は、僕が島を去ってまもない、2014年12月16日ーー、この世を去った。それは単にベッドで眠りにつくような静かな最後だったらしい。

音楽を聴くとき、彼は嬉しそうに空想のオーケストラを指揮していた。記憶のしがらみを離れ、彼自身を離れ、その指先には音楽があった。何も思い出せなくなっても、彼は最後まで人間だったんだ。

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