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I'm 汀艷 / 나는 정염이다 / 我是汀艳 2024年7月

SNSの大海原に寄せて

幸せの天秤・不幸せの天秤

自分と他人の幸せ・不幸せなんて、本当は比べようも測りようもないのだけれど、便利になった世の中では、他人の物事が昔に比べて目につきやすくなったように思います。特に「幸せ」の造形的瞬間ほど顕著に。
あれは、どこまで本当なのでしょうか。皆さま幸せなのは多いに結構。問題なのは、あの瞬間の枠の外側を勘繰り出し始めないかということ。他人の幸せは、自分の幸せを見失わせる目眩ましになってしまうこともあります。逆に、「人の不幸は蜜の味」と言わんばかりに、他人の不幸せは、あの人に比べたら自分の不幸せなんて大したことないと思わせる鎮痛剤になることもあります。
どちらにしても、各々が自ら作り上げた世界にしか存在できない架空の杓子定規なのですけれど。文字に起こすと卑しさばかり気になりますが、それだって人の性。
「人間だもの」 (えんを)
やばいやばい怒られる。冗談よ。状態。でも、相田みつをさんの仰る「にんげんだもの」って、色々な考え方ができる素晴らしい言葉だと思います。

無い人、足りない人、失くした人、誰が一番幸せ・不幸せ?

私は、無いものづくしな人間でした。お金だったり、教養だったり、特技だったり、体力だったり、美貌人望無い無いづくし。無いなら作るか手に入れるしかなかったので、足りない人の足りないところだけ補うというスタイリッシュな生き方も、失くした人の絶望も、いまいちわかりませんでした。
私の見てきた足りない人たちは、遊ぶお金は足りなくても、学費を気にする必要はなかったり、自由な時間は足りなくても、お友達や家族と過ごす予定でカレンダーが充実していたり、私の杓子定規も例に漏れずマヤカシだから(そもそも性能も悪い)客観的には是非は問えないけれど、私には幸せそうに見えていました。
私の見てきた失くした人は、私とは比べ物にならないくらい、祝福された人たちだったのに、何があの子をそうさせたのでしょう。誰があの子をそうさせたのでしょう。志半ばに夢をへし折られてしまったり、心の時間を止められてしまったり、そのどうすることもできなくなった嘆きをSNSにぶつけていたり、その救難信号のような「不幸せ」の造形的瞬間の外側は、本当に不幸せで埋め尽くされているの?私にとって金銀財宝のように見えていた、あなたの幸せは、あの瞬間の枠の外側のどこにも落っこちていないの?…と、余計な勘繰りをしてしまったり。それもこれも、こんな杓子定規では測りえないことだけれど。私の見ている金銀財宝という幻覚が、取るに足らないものという幻覚なら、つまらなくて不幸せなのでしょう。

本当のことは誰にもわからない。

でも、ある人は「極端な選択」を仄めかしたから、私は声をかけるのも止めました。
私は身近な人間に「極端な選択」をちらつかされ続けて、大人になる頃にはすっかり心がボロボロになってしまったからです。
それくらい強い呪いになってしまうものを「不幸せ」の造形的瞬間として選んだのは本人なのだから、私は知りません。建前を抜きにしたら他人は決して興味ありません。血でも繋がってやっとこでしょうか。少なくとも私は最後の方はどうでも良くなってたけれど。なので…
勝手にしろ。
それをしたのなら、どんなに苦しんでいようと、当たり散らされた周りの方が被害者です。勝手にしなさい。

今なら許せること

いや、許さないけど。興味はとっくに無くなってしまっているので、敢えて許す許さないにエネルギーを使いたくないだけです。
今になって考えてみれば、こんな私(当時)のお友達になるなんて、高校生や大学生ぐらいの青い青い若者
の分別では難しかったのでしょう。人生の酸いも甘いもこれから味合う時分にね。
だから、もう大丈夫です。
さようなら、私を大切に出来なかった人たち。
私を嗤っていれば、嗤われるリスクは減ったのでしょう。私に付きまとわれたとでっち上げてしまえば、不細工なりにもひととき悲撃のヒロインになれたのでしょう。私を虐げていれば、強く勇ましい自分を容易く演出できたのでしょう。
私を「不幸せ」の杓子定規で測って、束の間に安心できて、それで今が健やかで「幸せ」なら何よりです。
ゆめゆめその「脆弱な幸せ」を失くしませんように。

得て補って失くしてみて今

無い無いづくしの子供時代から、多少(だいぶ、かなり)無理して手に入れた「私」になるための切符。
不恰好に嘯きながら、私は綻び穴を塞ぐために他人からは「多彩」と言われるシロモノを補い続けて、四面楚歌でも一瞬だけ観られた良い景色。
狭い世界の寄り合いに疲れて、椅子取りゲームの仕組みに疲れて、良くない人に苦しめられて、終点駅「夢」の前で途中下車してしまった私。

私は、描けなくなった作曲家。

私は、(まだ)売れ(て)ない役者。辛酸レビューのようなエッセイばかり書いてる随筆家。古典芸能の世界に飛び込んで、気付いたら名取目前のとある邦楽の平弟子(舞台は既に出ている)。短大で勉強したクラシック音楽も、気まぐれに弾き続けている。家には犬と猫がいる。殆ど人間関係を断捨離したけれど、恋人も家族も一緒にいてくれている。

音楽や演劇を取ってしまったら、私はただのフリーター。悪いスラングを使えば「弱者男性」(そうそう!私、戸籍上・生物学上は男性なんですよ。)。

でもね、今まで生きてきて、今のうだつの上がらない社会的地位の私が、私は一番好きなんです。今は、自分の「幸せ」に気付けているから。
あとは、キャリアアップするのみなのです。
●▲■★(本名の私)は醜くくとも、汀艷は誰が何と言おうと可愛いのですから。

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