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白河夜舟というセクシャル

時々、性嫌悪。 

いつか私が死んだとき、叶うのなら腰から下は火葬せずに医療廃棄物として棄てて欲しい。と、思いつつ、もし私が女性として生まれて魂は私のそっくりそのままだったとしたら、その場合は腰から下どころではなかったかも知れないという由々しき仮説。
(でも、女性に生まれていたのならタカラジェンヌを目指せていた、いや、トップ娘役になっていたと思うと男性に生まれたのが口惜しい。嗚呼、口惜しゅうございます。)
それでしたら、雌雄同体の生物なら幸せでしたでしょうか?絶体に嫌でございます。アレ系は本当に無理なんです。
ノンバイナリーとして幸せになりたいと思いつつも、もし手に入る代物でしたなら「富」や「美貌」や「都内にマンション一棟」の二の次三の次四の次五の次六の次七の次八の次九の次十の次ぐらいに「明確な性別」が私は欲しゅうございます。(欲張ってはいけませんね。) とは申し上げましたが、少し違うような気もしております。愛する人と肌を重ねたときに、私の精神世界で起きているアナフィラキシー・ショックのような破壊現象が寛解されるのであればそれで良い。と。

男性でも女性でもなく

男女両方の気持ちが理解できるという半分正解半分不正解。
男女両方の良さを持っているという半分正解半分不正解。
男女両方の嫌な部分を持っているという半分正解。

逆カエル化現象 

私は知りたくありませんでした。セックスがジェンダーバイアス全開な構造であることを。
大雑把なくくりで申し上げてしまえば、私は戸籍上、生物学上は男性ですので、男性を好きになる男性、いわゆるゲイということになります。無論、男性としての構造しか持ち合わせていないゆえの制限だらけ、機能も、立ち回りも。
そして、それを意識してしまったとき、私は再認識させられることになるのです。「私は男性である」と。物凄く極端に。これはルッキズム由来の呪縛も作用しているのかも知れませんが、私は「相手に」ではなく、「自身に」気持ち悪くなってしまって、続かなかった恋愛も少なくありません。心のどこかに、自分だけは「性別」なんて呪縛のない特別な存在だと思いたい自分がいて、それでも自分ももれなく醜いのだと知らしめられてしまう。
まるで昨今の巷で囁かれているカエル化現象。「百年の恋も一時に冷める」というものの逆の現象。
私なんて醜いの!気持ち悪い!こんな素敵な人を私なんかが汚してはいけない!どっか行っちゃえ私!私の愛するに人に触れないで!これ以上この人を汚さないで私!
セックスは私にとっては「バッドエンドのゴール」になり得る危ない行為でございました。今は、色々な事情で殆ど不能な身体になってしまっているので、恋人もその辺を物凄く考慮してくださって、私なりの愛の型を模索しております。
(一度、それが申し訳なさ過ぎて、私で物足りなかったら、他の人のところへ行っても良いんだよと言おうとしたら、口が縺れていってとうとう大泣きしてしまい迷惑をかけてしまった事がございます…)

造形美術としての性

それでも、セックスは愛を確かめ合う幸せな行為であって欲しいと考えております。男性も女性もその他の性別を生きる人も等しく美しく、神秘的で大切に守られるべき者達なのだと。白河夜舟を生きる私には何処か他人事だから、他人事の性は余計に美しい。
最近、女優さんと可愛いに蝕まれた症状としての、ピンクのゲロの話や、射精で男性器から花が咲き乱れるようなイメージの話をして、美術部を動かしてなんとか形にできないか考え耽っております。きっとその映画は素敵ですもの。性はタブー視されてはいけないと私は考えております。
愛する者同士を詠った古い言葉に、
空にありては比翼之鳥
地にありては連理之枝
というものがございます。
愛する人とひとつになる手段のひとつとして、性を理解するのは大切でございますし、極めて重要な教養とも言えるでしょう。

白河夜舟というセクシャルもいつか芸術に落とし込むことはできるのでしょうか。

(とある二人の記事に触発されて、
1週間遅れて投稿)



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