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にわかでかじり虫

めちゃくちゃ憂鬱である。ひょっとしたらタイトル詐欺ではないかと思うし、実際そうコメントがくるかもしれない。ただここに書けることは、我慢にいらつきどうしたかというちょっとしたあることへの対抗したい気持ちなのかもしれない。

2年前、私は大学に進学し教職の授業をとった。しかし、入学して数か月後、果たしてこれが(教員になること)自分のやりたいことなのかわからなかった。「ただ資格だけ…。」そう思っている自分がいた。いや、確かに資格取得だと割り切って授業をとっても良いかもしれない、けれど「それに割くなら、違う自分のやりたいことに使えばいいじゃないか?」という自分もいた。『教員免許』という響きはかっこいい。けれど授業はとてもと言えるほどの時代遅れと、自分が教員でやりたいこと、つまり価値観の違いに頭を悩ませた。ICTの利用という今更感(皮肉にもコロナのおかげでICTの使用は必要不可欠に)、教え方をまるで集団行動かのようにさせなきゃいけない感、抜けない昭和じみた精神論とアンチグローバル意識がある校則(代表的なのは髪は黒指定)などなど、不満が日に日に増えるだけ。けれど先生は「お前らは教員になるためにここにいるんだ!」という、やりたいことのレールを無理やり捻じ曲げ終点という駅(職)を教員にしている。まるで宗教団体のようで、怖くなり授業も単位が取れる程度休んだ。やりたい選択肢が多い私にとっては我慢しなければならないことである。そう思った。

けれど、やはり我慢していては頭に10円ハゲができるだけである。私はそんな教職の先生の思惑に反抗できるものはないかと考えた。過去の自分の将来の夢を見た。  『心理系の仕事に就くこと』  これを見てふっと何かが軽くなったと同時に不甲斐なさを覚えた。軽くなったのは心理系の資格が取れるということ、不甲斐なさは、それの効力は果てしなく弱いということだ。けれどやってみて損はないと思い、早速心理学の勉強を始めた。正直めちゃくちゃ楽しい。教員よりもやりたいことはこれなのではないかと正直後悔が残ったのがとてもむかついたけど。結局資格は取ることができた。我慢に代わったのは心からやりたいという意思行動である。


けれど、その行動が報われないこともある。

私がやりたい心理系の職は、公認心理師がないとできないということである。やっぱり国家資格は最強のカードなんだな…。でも、教職の先生への反抗的態度はかなり効果があったようで、面談時に「…」という沈黙がしばらく続いたあの時は少し心地が良かった。

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