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Step by Step 7月24日 ■□人間だもの□■

そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。」マタイ18章21-22節


 人生に失敗と間違いは付きものです。それは「能力がないから」ということではありません。またその人の「人格」とも全く関係がありません。失敗したり間違いをしてしまうのは、その人が「人間だから」ということです。

 完全無欠な人間などいません。非常に優れた人であっても完璧ではありません。能力がありすぎる人に、時に「あれっ」と思うところが抜けていたりすることがありますよね。何か抜けてしまうことは「能力がない」のではなく「人間だから」です。

 ところが最近の社会傾向は、失敗や間違いに非常に厳しくなっています。「能力や人格」を否定するように厳しく追求する傾向があります。ネット社会になってからは、その傾向はさらに強まっていて、過去のことまでも引っ張り出して追及し、社会から存在を抹殺してしまおうという勢いです。心が病んでも仕方がない、一億総監視社会です。

 「人間だもの仕方がないよ」と言ってもらえる寛容さが今の社会に欲しいですね。失敗や間違いを正直に認められる雰囲気、素直に謝れる寛容な雰囲気が必要です。厳しさがあってもいいのですが、その根底に、責められない、裁かれない、決めつけられない、烙印を押されない寛容さ必要です。同時に、その人にもう一度立ち上がり、やり直せるチャンスと励ましを与える赦しと愛があればどんなに素晴らしいことでしょうか。

 失敗しても立ち直れる社会。そのためには、その人を囲む身近な人たちが何よりも重要です。神は不完全な人間をこよなく愛し、間違った事実と存在を分けて関わって下さいます。間違った事実を赦し、私達自身を立ち上がらせてくださいます。この神の愛の絆で結ばれているコミュニティが教会です。教会は、私たちが失敗しても立ち上がり、やり直すためのリカバリー(回復)スポットなのです。

■祈り■
 神よ、あなたは私達の弱さをよくご存じです。ですからキリストの十字架で裏付けされた赦しを与えて下さいました。失敗しても、間違っても、十字架に立ち戻り、勇気をもって立ち上がってやり直します。イエスの御名によって、アーメン。

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