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手の温もり

 実は、僕、コンビニおにぎりが苦手なんです。食べれないという訳ではありませんが、なんか寂しくなるんです。やっぱりおにぎりは人の手で一つ一つ握ってくれたものがいい。多少形がヘンテコでも、味にばらつきがあっても、人の手で握ったおにぎりは不思議と心を温かくしてくれます。これはあくまでも僕の感覚です。あしからず。

 昔から病気やけがの処置をすることを「手当て」と言いますね。小さい頃、高熱で苦しんでいる時に、お母さんがおでこに手を当ててくれたり、手を握ってくれていると、なんとなく心が落ち着いて、そのまま眠りに入れたものです。また自分自信でも、頭が痛い、お腹が痛いときなど、患部に自分の手を当てると、精神的に痛みが和らいでいるように感じます。お医者さんも手で触診をして患者さんの病状を尋ねます。

 ある人は、人間の手のひらは「気」というものを発していて、手を当てることによって「気のパワー」を送ることができると説明しています。不思議なもので、手のひらを合わせる、つまり、合掌すると、散漫していた心が落ち着いてきて集中できるようになります。僕は牧師ですが、心が散漫になって祈りにくいときは、合掌して祈ることがあります。合掌は仏教のポーズと決まっている訳ではありま
せんので。

 聖書では、地上で生きている私たち人間は、肉体と霊(霊が分かりにくければ、心と理解していただいても結構です)が一つになって生きている存在だと教えています。ですから身体的な病気やけがであっても、そこには霊(心)も関わっていて、身体と共に霊(心)も痛みを感じているのです。

 終末期を迎えた人にとっては、身体的な痛み以上に霊的(心的)な痛みを強く感じていることがよくあるそうです。ですから薬で身体的痛みは和らいでいるはずなのに、霊的(心的)痛み(スピリチュアル・ペイン)のために、「痛い、痛い」と訴える人がいるそうです。そんな人の手を優しく握ってあげたり、手をそっと当ててあげることで、スピリチュアル・ペインが和らぐといいます。

 手のぬくもり、手当には不思議なパワーをあるようです。それは手を当てたり、手を握ったりすることによって、人と人とのつながりが成立するからなのでしょう。それによって見えない世界でいのちが行きかっているのではないでしょうか。クリスチャンは、祈りを通して、そのつながりに神を迎えますから、さらに豊かな命の交流がなされるようになります。


***参照聖句***
イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、「そうしてあげよう、きよくなれ」と言われた。マルコ1章41節

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