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Step by Step 7月26日 ■□いのちの価値□■

 ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。2ペテロ3章9節


 いのちの価値に優劣をつけることは誰もできません。しかしこのことが本当にできるのは、いのちの源である神を信じ畏れている人のみです。この世に誕生したすべてのいのちは、神がそのいのちの誕生を望み、目的を託して誕生しているからです。

 しかしいのちの源である神を畏れず、人間のみがのさばる時、いのちの価値に優劣を付けていくことになります。人に都合のいいいのち、効率のいいいのちには価値があり、人の都合に合わせないいのち、効率の悪いいいのちはディスカウントされてしまいます。

 最近は、医療の発達によって、胎児の頃から障碍があるかどうか判別できるようになりました。それによって産むか産まないか決める人もいるようです。このことについて紋切り型に裁くことはできませんが、いのちって何なのかな…?、いのちって誰のものなのかな?、いのちの価値って何なのかな?と考えさせられます。障碍があるから産まないということは、障碍のある人はお荷物であり、生きる価値がないことになってしまわないでしょうか。

 僕の知り合いの夫婦のことを紹介させてください。二人目の赤ちゃんが与えられました。赤ちゃんがお腹の中で育っていく中で、ドクターからこの子は重い障碍もって生まれるかも知れない…と告げられ、産みますか、産みませんかと突きつけられたとのことです。その診断を聞かされ、この夫婦は大きなショックを受けました。神に祈りつつ彼らが決断したことは、このいのちは神様が授けてくださったいのち。いのちは神のもの。もし重い障碍を背負って生まれてきても感謝をもって受け止めよう!と決断したのです。そうです。産む決断です。僕は二人の決断に感動しました。二人は赤ちゃんのために心を合わせ祈りながら妊娠期間を過ごしました。生まれてきた赤ちゃんは障碍のない元気な赤ちゃんでした。

 この夫婦のあり方を、すべて人に押しつけるつもりはありません。当事者が考えて答えをだすことですから。でも、忘れてはならないことは、どんないのちも神の前では価値あるいのちであるということです。

■祈り■
 神よ、いのちという尊い宝物を感謝いたします。全てのいのちは神から贈られた宝物です。自分のいのちを大切にします。そして、私の周りの人々のいのちを大切にします。イエスの御名によって、アーメン。

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