見出し画像

自分を赦す

自分で自分を赦す。意外と重要なテーマです。自分で自分のことが赦せずに苦しんでいる人って意外といるんじゃないでしょうか。あなたはどうですか?こんな心理状態になったことはないでしょうか。

*他人のことは赦せるのに、自分のことになると赦せなくなる。
*周りの人は「もう気にしなくていいよ」と言ってくれているのに、自分は妙にこだわって「自分としたことがこんなことをしてしまって。こんなこと赦されるはずはないよ」と自分で決めつけている。
*神が赦すと言ってくれてるのに、それでもやっぱり自分は自分のことを赦せない。

 こんな心理状態を良心の呵責というのでしょうね。自分への理想が高く、非常に良心的な人ほどこういう状態になりやすいのではないでしょうか。理想が高くて良心的ないい人なのに、ひょんなことで自分を赦すことができなくなり、良心の呵責で自分を責めつづけているって辛いですよ。時にはそれで病気になってしまう人もいるようです。いい人なのに…。

 聖書には「隣人愛」という有名な言葉があります。一番の近くの隣人は、意外と「自分自身」だったりしませんか。一番近くて、一番関係が深くて、一生付き合っていかなければならない隣人。それが「自分自身」です。一番近くて、一番関係が深いが故に、「赦せない」ってことが起こります。でもそんな自分に赦しを出すことが「隣人愛」の大切な一つだと思います。それは決して自分を甘やかすことにはならないと思います。心のストレスを解除し、健康な心を回復する重要なステップだと思っています。

 聖書にパウロという人物がいます。キリスト教を東ヨーロッパに広げた大貢献者で、彼の書いた手紙は世界史を変えたと言っても過言ではありません。彼はユダヤ教で最も厳しい宗派に育ち、高い理想をもって自分を厳しく律しておりました。故にキリスト教徒への大迫害者ともなりました。そんな育ちもあったのでしょう、彼は神経症と言ってもいい程に自分の中の矛盾に繊細でした。良心の呵責で自分を強く責めつづけることがあったのです。そんな彼がキリストの十字架の愛と赦しに出会うことによって、自分自身に赦しを出せるようになりました。彼はこんな言葉を残しています。

***わたしはあなたがたにさばかれたり、人間の裁判にかけられたりしても、なんら意に介しない。いや、わたしは自分をさばくこともしない。わたしは自ら省みて、なんらやましいことはないが、それで義とされているわけではない。わたしをさばくかたは、主である。1コリント4章3節***

 僕はこの言葉が大好きです。誰もが納得し、本当に公正な裁きができるのは神以外にいません。この真理はものすごく重要で、私たちを自由にしてくれます。なぜかというと、人からどう言われようが、どう思われようが、どう批判されようが、人からの裁きに捕らわれなくなるからです。また同時に人をも裁く必要がなくなります。更に凄いのは、自分で自分を裁くことさえ必要なくなるのです。

 あらゆる裁きは神に全部お任せすればいい。誰もこの神の座に座ることは許されませんし、座ってはいけないのです。この神の座に座ることが最も大きな罪なのです。ですから、私たちがすることは、人を愛し、人を赦すことだし、自分を愛し、自分を赦すことなのです。“自分を赦さない”という牢獄から自由になりましょう。その牢獄の鍵をもっているのは神でもないし、周りの人たちでもありません。その鍵をもっているのは「あなた」です。その鍵の名前は「自分を赦す」といいます。その鍵を使って自由になりませんか!自分を赦していいのです。一日の終わりに、自分に赦しを出してあげましょう!そして、よく頑張ったね!と自分を労ってあげましょう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?