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だから歩くのか、歩くためだからなのか

やっぱり今日も僕は歩いている

積極的に歩き始めたのは、二十歳過ぎくらいで、この年齢では健康とか運動不足解消なんて理由ではもちろんなく、将来に迷い悩んだ、鬱屈した気持ちをどうにか整理しようとしたのだ。

活動的だったり爆発するようなエネルギーを持て余していれば、興味は外へと向かい、友達と遊び歩いたり、青春の香る人生相談を持ちかけてみたり、バイトに精を出したり、恋愛関係に情熱を注いでみたりしたのだろう。

けれど、僕の表現型は内向的で、エネルギーもすかしっ屁のように勢いがなく、人付き合いができるほど自信もないが、家でじっとしてはいられないという、中途半端な体たらくだったので、追い詰められるようにひとりで歩くということを始めた。

ただ、その方法が僕に異様にフィットしたのも事実だ。

もやもやしたものが、歩いているときにはなくなった気がした。一歩を踏み出すと、血の巡りが良くなるとともに、悩みの成分も抜け出ていく気がした。あとで知ったのだが、仏教には『歩行禅』というものがあるそうだ。

歩くと気分が良くなる、というか『無』になれる。味をしめた僕は、意味があるときないとき構わず、「歩きたいときは歩く」というスタイルを獲得した。僕にとって、公共交通機関や車や自転車は楽な手段とは限らない。逆にストレスがたまることもある。歩くことがなによりの喜びになった。

大切なのは、『無』の状態を獲得するには、ひとりで歩くことで、誰かと一緒のときは普通に歩く。無のときはやはり黙るし、自分のペースやコースで歩きたいから、ひとりが必要なのだ。

あとは、よく知った、人の少ない安全な道を選ぶ。自分の内側に意識が向くので、気を遣わずにいられることが肝要だ。

そう、僕は気遣い屋なのだ、昔から。だからこそ悩む。だからこそ歩く。気遣いがちな人が気を遣わずに済むのは、ひとりで自分だけに集中していいときだ。けれど寂しがりでもあるので、山奥に常にひとりきりというのは無理。僕はかなりワガママでもあるらしい。

しかし、気を遣わずに生きられれば歩くのをやめるのだろうか?悩むのをやめれば歩くのをやめるのだろうか?

それとも、歩くために気を遣うのだろうか?歩くために悩むのだろうか?

うむむ……。

これは答えを出すために、歩かなければならないようだ。

じゃ、行ってきます。

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