”平和主義者”がウクライナをdisるワケ

普通に考えれば、

  • 加害者であるロシア

  • 被害者であるウクライナ

の構図に対し、「ウクライナの落ち度」を指摘する人はどうかしてる
そして、日本の”平和主義者”は「ウクライナの落ち度」を語りがちだ
三段論法では、「日本の”平和主義者”はどうかしてる」となる訳だが、事実その通りなのだ。

何故、彼らがこんなおかしな事を言い出すのかを解説する。


”国家”に対する強烈な不信感

現代日本の”平和主義者”は、第二次大戦の総括として「国家としての日本が道を誤った」と考える。
そして、”平和主義者”が戦後左派の系譜にある為、西側自由主義陣営よりも東側社会主義陣営に心惹かれていた。

東西冷戦について、根本理念の部分でいうと

  • より自由を求める西側諸国

  • より平等を求める東側諸国(こっちは建前でしかないが)

の対立だった。少なくとも、左派勢力はそう捉えていた。
日本の左派勢力が自由経済に対して嫌悪感を抱いているからこそ、戦後一貫して経済的見立てを間違い続けているのだ。
そして、世界同時革命による世界中の赤化によって西側的自由主義国家が全て解体され、平等が徹底される世界統一政府出現を夢見ている。
左派的活動に加わっている個人個人がここまで明確な答えに到達しているか?と言えばそうでは無いと思う。
だが、彼らの社会に対して見せる問題意識をトータルで評価するなら、そっちの方向へ社会を誘導しようと画策している。表面的なお題目に目を奪われるばかりで、その活動の論理的バックボーンに気付けていない多くの随伴者たちは、「社会正義の実現」の為に動員され、活動を支える手足となるのだ。

左派勢力にとって「国家」とは、「個人の自由を奪う者」であり、「平等の実現を邪魔する者」なのだ。
左派勢力が徹底した「平等」にこだわる姿勢は、国政選挙の度に見られる。
極端な弁護士一派が毎回、「一票の格差」について裁判で争うのがそれだ。
現実的な対処法の提案とは別のところで、「兎にも角にも一票の格差が広がる事は許さん」とばかり、毎度裁判を起こしている。
ちなみに、一票の格差を一番簡単に是正する方策は、「議員定数増加」なのだが、一票の格差是正手段として議員定数増加を訴える左派を私は見た事が無い。その理由について、先述した通り彼らが国家権力への強烈な嫌悪を抱いているからだろうと私は見る。

「国家 VS. 個人」しか見ない”平和主義者”

”平和主義者”は「国家権力の行使」、「国家権力の強化」をひたすらに恐れる。
「国家」を「個人を弾圧する敵」としかみていないからだ。

「死刑」を「国家による殺人」と捉え、徹底批判するのはその典型だ。
「冤罪による死刑判決は取り返しが付かない」と言う点は理解する。
だが、左派界隈は「死刑への忌避」だけで自身の活動を論理的に規定し、「死刑を事実上無効化する」との極端な戦術を選ぶに至った。
この結果として、「凶悪な事件の犯人ほど、死刑を回避すべき人物であるとして、手弁当で弁護士有志が集まる」と言う異常な事態が起こる。
「これだけの凶悪犯でも死刑にならなかった」のならば、「より凶悪性で劣る事件で死刑が出される事はなくなるはずだ」との論理建てだ。
そして、「凶悪犯の死刑を回避する」との崇高な目的実現の為、「ありもしない被害者側の落ち度を指摘し続け、被告人の悪質性を軽減しようとやっきになる異常な弁護団」が出現する事になる。
また、死刑を回避する目的で刑事責任能力について徹底的に争う事も大きな戦術となる。これによって、当初は普通の供述内容を語っていたはずの被告人が、死刑回避の為の弁護団が付いた直後から空想、妄想の世界を語り出すようになる。ここで、被害者遺族の心情をおもんぱかるような普通の感性は完全に消失する。「死刑を求める遺族」は「死刑回避だけを望む弁護団」にとって邪魔な存在でしかない。
全ては「国家による殺人」を回避する為、彼らにとっては正義に適う戦いを行っているつもりなのだ。

「国家は個人にとっての敵」との思考は、「緊急事態宣言」議論の中でも現れる。
そもそも「緊急事態宣言」とは、通常の治安維持に著しく困難な状況に陥った場合に、国家が発令して一時的に国民の権利を制限する宣言だ。
外国からの侵略、テロリストによる重大犯罪に際して、国家として国民の生命・財産を十分に守る事が難しい状況に際して、一時的に外出制限を求めたり、逆に特定地域から一般人を締め出すような命令となる。
この制度を準備すべきでは?との提言に対し、左派界隈は徹底批判する。
「個人の権利を奪う国家権力の強化など認められない」、と。
だが、この場合でも、国家に与えられる権限とは国民の生命・財産に致命的な損害を与えないとの目的によってなされるものでしかない。
国民の生命・財産を大切に思えばこそ、「非常事態宣言」の整備は急務なのだ。
さらに、「非常事態宣言」が未整備の中で、治安を大きく揺るがす事態が発生した場合、結局は時の政府が「超法規的措置」として「”事実上の”非常事態宣言」を出す事は現実として起こり得る。
この時、過剰な国家権力の行使が起こらないようにする為にこそ、平時に「非常事態宣言」について議論し、「何が出来て、何が出来ないのか」を予め規定しておく事こそが大事なはずだ。
だが、国家への強烈な不信感を抱く界隈は、一歩たりとも妥協してはならないと強情を張る。
少しでも「国家権力の強化」を認めるならば、必ずやその強化された国家権力によって個人が弾圧されるはずだと確信しているからだ。
最早、「国家恐怖症」とでも言うべき症状に苛まれている。

”平和主義者”の目に映る「ウクライナ侵攻」

このように、何処までも国家への忌避感、嫌悪感を抱いた勢力が辿り着くのが、「愛国心」の全面否定だ。

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自分自身を大切にする「自己愛」は、個人の権利の観点からも当然認められる。

家族を大切に思う「家族愛」も当然、大切なものだ。

生まれ育った土地、そこで出会った人たちを大切に思う「郷土愛」も自然な感情だろう。

この世界の住人全てに対し、宇宙船地球号の仲間として協力し、共生して行こうと努め、「地球愛」「世界愛」が広がる事は望ましい。
これは世界同時革命後の世界市民思想へと繋がる大事な思想でもある。

だが「愛国心」、テメーは駄目だ。

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これが標準的な”平和主義者”の思考だ。
「愛国心」の先には「国が存亡の危機に陥った時にどうするか?」との問いが必ずあり、その選択肢として「国の為に戦う」は至って普通の事だ。
これは別に「全員、無理やりにでも戦わされる」との意味じゃない。
「国を愛し、この国が守られる為に戦う選択をしたい」と言う人の気持ちは否定されない、と言う意味でしかない。

だが、”平和主義者”にはこの違いが分からない。
「国」の看板を背負って武器を持っているなら、それは「国によって戦わされているとの一点で何も違いが無いはずだ」と言い出す。

この思考を前提にウクライナを見た時、彼らの目には
 「ウクライナ政府の為に戦わされる可哀想なウクライナ人」
しか映らない。
そして「即刻、武力による抵抗を止めるべきだ」と言い出す。

「国の為に戦って亡くなった戦死者」は、彼らにとって「自国の誤った判断によって殺された被害者」だと解釈される。

あくまで「国家 VS. 個人」の対立軸で物事を見ようとするが為、「侵略者としてのロシア」は全くフォーカスされない。
この異常性に気付けない人達が”平和主義者”を自認しているのだ。

平和主義者にとって「ウクライナ侵略」は、「日本侵略」時のシミュレーション

何故、”平和主義者”がここまで国家「ウクライナ」を敵視し、「ウクライナの為に戦うウクライナ人」を悪し様に語るのか?

それは、ウクライナの現状に将来、「侵略されるかも知れない日本」を見ているからだ。

”平和主義者”は国家意識の忌避と非暴力・無抵抗主義を教義として抱いている。
 「国の為に戦うなんてまっぴら御免」
と言うアンチ国家意識と同時に、
 「仮に侵略されたとしても、そこまで酷い事など起こるはずもない」
との何処までも非現実的な楽観主義に陥っている。

戦後日本を占領したGHQの統治が概ね成功裡に終わった”世界的にも稀な経験”を、安易に普遍的事実として敷衍して考え、
 「抵抗した為に、余計に戦争被害は拡大した」
 「抵抗を早くに止めていれば、もっと被害は小さく済んだだろう」
と非常に短絡的な思考に陥っている。

彼らは現実の侵略戦争後の統治において、

  • 女性はことごとく凌辱される

  • 男性は徹底的に痛めつけられ、侵略国にとっての労働力にされる

  • 子供は思想教育を施され、自国嫌悪と侵略国礼賛を植え付けられる

  • 言語・文化を人為的に捨てさせ、二度と復活しないよう、個々人が徹底的に分断される

こういった行為が当たり前のように行われる現実を知らないのだ。
そして、
 「仮に相手が苛烈な統治を行おうとするのならば、”無抵抗主義”による反抗をすれば良い。
 この意思表明で、侵略国を屈服させる事は可能なはずだ
 だって、ガンジーだってそうやってインド独立を実現したじゃないか」
と考える。

ここには、多くの日本人が”無抵抗主義”に対して抱く幻想が影響している。

上記リンク記事において、
 「何故日本人が”無抵抗主義”を過大評価するのか?」
 「”無抵抗主義”が機能する時、しない時」
 「”無抵抗主義”の限界」
について語っている。

基本、日本人は”無抵抗主義”を一発逆転カードか何かのように誤解しているのだ

こうして、”平和主義者”は「侵略されるウクライナ」を見ながら、「侵略される日本」を想定している。

  • 「国としての抵抗」は「国の命令によって国民が戦う事を強いられる事」だから許せない。

  • 「抵抗しなければ、そんな酷い目に遭わされる訳じゃない」との無責任な確信によって、政府の徹底抗戦を非難する。

これらは、日本が侵略される側になった時、彼らが行う主張そのものなのだ。

まとめ

”平和主義者”が全く平和と懸け離れた主張を平気で行うのは、「国家すなわち悪」との強烈な意識を当然のように抱いているからだ。

そして、彼らの主張はあらゆる面において、「決して平和実現に寄与しない」。
彼らの議論の前提が悉く現実離れしている為だ。

ただ、現実主義に立脚して妥当性ある結論を論じ、それを拡散しようとする人は、「空想的平和主義者を”過剰に”非難する事」は避けた方が良い。
「如何に話にならない事を言っているのか」「彼らの議論が如何に間違っているか」の指摘は確実に行わなければならない。
だが、その冷静な指摘を越え、理解出来ない相手だからと強烈に罵る行為は、まだ判断が付きかねている第三者的立場にいる人が判断を行う上で、必要のないハレーションを生んでしまう。
客観的に見て「どちらも攻撃的に相手陣営を批判し、罵倒している」ように映る状況は、何方に対しても親近感を抱かせにくくしてしまう。
その結果、論理的に破綻しているはずの相手陣営を利する言論になりかねないからだ。

非論理的主張を何度も喰らわされると、理性的な言論を行っている側は「勘弁してくれ」「馬鹿は絡んで来るなよ」と段々といら立ってしまう。
そこで苛立ち任せに強烈な言葉を吐く行為は、瞬間的に胸がすく思いになるかも知れないが、自分達の言論を拡散する力を減殺させてしまうのだ。

基本、人間社会の大多数は論理的思考を徹底する事に慣れていない。
「論理的に正しい事を言っていれば、自然と多数派になるはず」と言うのは現実主義的論者が陥りがちな理想主義的発想に過ぎない。
それでも、言葉によって社会意識を変え、世論を変えようと努力するしか無いのだ。

平和主義者は、徹頭徹尾間違っている。
この事実を冷静に淡々と語り続ける事だけが、彼らの政治的影響力を削ぐ為の近道となるのだ。

<了>

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