「#望月記者の醜悪」トレンド入りに関して

10月2日、ジャニーズ事務所の記者会見があった。
ここで、1社1問との制限付き質疑応答中、質問機会が与えられない事に我慢出来なくなった東京新聞、望月衣塑子記者が勝手に質問を始めた。
多くの人から注目を集めた記者会見の中で、ルール無視で一方的な主張を披瀝し、ジャニーズアイランド代表取締役社長を務める井ノ原快彦氏から窘められる場面は、大きなインパクトを残した。
その結果、一時期「X」のトレンドに「#望月記者の醜悪」が入ってしまう。

今回は、ああ言った行動を取ってしまう望月氏の思考について論じてみる。


ちょっと考えれば分かる悪手を止められない理由

普通の感性を持った人なら、誰もが質問機会を求め待ち続けている最中、勝手に質問を始める行為が第三者的にみっともないと評価される事は簡単に想像が付くだろう。
そして、そのような自分へのマイナス評価を恐れ、大抵の人は、勝手な振る舞いを自制する事になる。

では、何故望月記者はこのような、誰もが想像出来る「非難されるような行為」をあっさり行ってしまったのか?
一定の非難が出る事は覚悟の上で、
 「それでも自分がこのような行動に出る事が、正しいはずだ」
確信犯的に発言したものだと私は見る。

このような行動を躊躇わない人は、自分、或いは自分と近しい人達との間で作られたごく狭い範囲の思考、議論の結果として出た結論について、絶対的な正しさを勝手に確信している

普通の人は、自分なりに出した結論に関して、個人的に強く正しさを確信した場合であってすら、「他者がどのように評価するか?」はまた別の話だと理解している。
個人的な見解を聞かれれば、自分なりに正しいと思う考えを披露する気はあっても、「私がベストの考えを出してやったぞ。みんな、これで良いよな?」と言った態度は普通取らない。

他者がどのように判断するかは他者の自由権の範疇にあり、自分の出した結論を押し付けるのは不躾な上に独善的だ。
他者とまともにコミュニケーションを取ろうとしない態度から、結論自体に異論がない場合であってすら、人間関係に問題を引き起こす可能性がある。
まともな対人関係を構築出来るような人なら、こう言った行動に出る訳が無いのだ。

こう言った他者との関係性を十分考慮せず、或いは考慮した上でなお問題無いと判断して暴走する人と言うのは、理想主義的な思考に陥っている
自分達が出した結論は、自分達の信奉する理想主義に合致したモノだ。
そして、自分達の信奉する理想主義的思考について、社会全体が受け入れるべきベストな解答だと思い込んでいる。
だから、「他者もこれを受け入れて然るべきだ」と考え、安易に他者へ自身の結論を押し付けてしまう。

一般には、こう言った思考をする人間は「独善的」「独りよがり」「傲慢」と言った評価を受ける。
だが、理想主義的思考に支配された人間は、個々人の出す結論を他者がどのように評価するのか?について、他者の答えを待てなくなる。
 「聞くまでも無く『正しい』ものとして、受け入れるべきだ」
と考え、逆に受け入れない相手に対して「貴方は間違っている」と確信する。
客観的に見れば、他者を尊重する心を失ってしまってる状態だ。

他者を尊重する気持ちを普通に持つ大多数の人から見て、彼女の態度に強い不満を抱くのは至って自然な事だ。
彼女、及び彼女の支持者はこのような他者の不満に気付いていない訳じゃない。
不満を抱く他者の方が、根本的に間違っていると確信している為に、このような言動を止められないのだ。

望月記者暴走の歴史

望月記者は東京新聞、社会部所属だ。
事件・事故、社会問題の取材がメインの仕事になる。

だが、彼女は事件取材そのものよりも、自身の政治的スタンスに基づく情報発信を勢力的に行うようになる。
反安倍晋三、反自民党を前面に出し、反自民野党応援団として活動している。
最早、マスコミ人ではなく、ただの政治活動家と変わらない言動を行っている。

モリカケ桜などの報道においても、自分達の中で勝手に出した結論から逆算して、政府批判、安倍晋三批判を繰り返していた。

森友学園問題の肝

これだけ抑えておけば、森友学園問題に関するマスコミ報道が印象操作の塊だと分かる部分を紹介する。

大きく取り上げられた問題として、
 「財務省による公文書偽造」
がある。
これ自体、行政組織の行動として強烈に非難されて然るべき大問題だ。
本来ならば、公文書偽造を指示した訳でなくとも、管理監督責任を取って財務大臣が辞職に追い込まれて当然の不祥事だ。
だが、安倍政権において最終的に政治家である大臣の誰も引責辞任に追い込まれずに終わった。
何故か?

これは別に安倍政権が問題に真摯に向き合わなかったと言う話では無い。
野党側が問題追及の方向性を見誤った事が根本原因なのだ。

よくある「公文書偽造」に至った経緯に関する誤解はこういうものだ。

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安倍明恵夫人は森友学園の名誉校長になっていた。

近畿財務局に残された書類の中に、何らかの便宜を図った事を示す情報があり、それを揉み消す必要があったのではないか?

国会答弁において、安倍総理は
 「もし、私や妻が関係していれば辞めますよ」
と発言していた。

財務省はこの総理の発言に合致するよう、文書を改竄する必要に迫られたのではないか?
だが、財務官僚が自らそのような危険な行為を行おうと判断するとは考えにくい。
財務省を動かす程の政治力がある人物で、森友学園と関係がある人物と言えば、勿論…………

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と言った筋書きによって、「安倍晋三が財務省へ圧力を掛けた」かのような印象操作が行われた。
「印象操作」と言い切るのには、きちんと訳がある。

文書改竄指示の切っ掛けは、佐川理財局長(当時)が、野党、マスコミからの度重なる圧迫的な疑惑追及に窮し、
 「森友学園に対して、何らの特別的な取り計らいは一切やっていない事にしろ」
と、近畿財務局側の書類内容を変更するよう圧力を掛けた事なのだ。

この事が広く世間で認知されていないのは、ひとえにマスコミがまともに機能していないからだ。

Wikipediaの「森友学園問題」の項をきちんと読めば分かる事だが、森友学園が学校敷地として当初は国有地貸与を求め、後に払い下げを受けるまでの流れにおいて、複数人の政治家の名前は確かに出て来る。
だが、それらの政治家は別に国有地を管理所有する近畿財務局へ圧力を掛けてなどいないのだ。
森友学園からの陳情で、近畿財務局へ政治家秘書が問い合わせるが、この問い合わせ時点で籠池理事長の特殊なキャラクターについて双方が振り回されている記載が数多く残されており、政治家側から近畿財務局側へ慰労の言葉があった事まで残されているのだ。
役所内の規定通りに話を進めようとする近畿財務局に対し、一方的な言い分を振り回しては激昂したり、突如席を立ったりするなど財務局担当者を翻弄し、その一方的な言い分を政治家に陳情して政治家側に確認作業をさせている。
政治家側も近畿財務局が規定通りに動く事は至極当然だと考え、籠池理事長らに伝えるもこれに納得せず、次から次へと別の政治家に話を持って行き、問い合わせさせ、自分の望む展開へ進むよう画策する。
安倍明恵夫人を名誉校長に据えたのも、役所に対する圧力として機能する事を期待してのものだ。
そして、近畿財務局としてはそのやり取りを随時文書化し、特別な取り計らいなどやっていない事の証明を残していたのだ。

佐川理財局長(当時)からの要求によって、近畿財務局の書類から政治家らの名前などが削られた。また、財務省本省が関わった部分も削られた。
この国有地払い下げが特殊なモノでは無いかのように、文書が改竄された

だが、元の書類の方こそ、政治家らによる何らの圧力もかかっていなかった事を証明していた
また、森友学園側の要求の程度と交渉における態度のおかしさも相まって、学校新設の許認可を与える大阪府も巻き込み、特殊事例として話が進んだ経緯から、「不正ではない特例的な措置」が相次いでおり、その特例的な措置が不可抗力的なモノであったと記されていたのだ。

文書改竄が発覚した後に、国会証人喚問が開かれる事となり、改竄前文書が国会議員の手に渡ったが、自民党からは
 「改竄前の文書の方が、不正の入り込む余地など無かった事を示してる」
 「政治家の口利きでは何も進まなかった事が明らかではないか」
との声が上がった。
一方で、反自民野党は
 「改竄前文書から何が読み取れるか?」
には全く興味を示さず、
 「改竄する必要があったと言う事は、後ろ暗い所があったからに違いない」
との結論ありきで、この後も延々と安倍政権批判を行い続けた。
反自民野党も基本的に理想主義的発想でしか物事を見ないのだ。

佐川理財局長が近畿財務局へ圧力を掛けた原因が、まさにこの反自民野党の追及姿勢にあった。
国会審議でも、野党合同ヒアリングでも、事実関係で新たな証拠を得た訳でもないのに、「疑惑は深まった」のワンフレーズだけでゴリ押しし、自分達の望む回答をしないとの理由で役人は毎日のように野党議員から罵倒を受け続けていた。

状況的に政治家からの圧力で話が進んだとは到底思えない案件で、事実そのように書類が残されているにも拘わらず、それをそのまま提示しても野党・マスコミが納得しない。
情報の一部切り取りによって
 「複数の政治家が関与していた」
 「何故か森友学園にだけ特例措置を行った」
との形式で、更なる突き上げを食らうだろうと予想する中で、財務官僚が自己保身に走った結果の文書改竄だったと言う事だ。
佐川局長自身の自己保身も当然あるだろうが、部下らが連日の国会対応、議員対応に疲弊している状況を動機の一つとして語っている。

公文書偽造と言う政府への信頼を揺るがす重大な事件を起こした事は強く強く責められて当然ではある。
だが、何故そのような行為を行ったかの原因となった野党側の役人への圧力、圧迫的な態度についても目を向けるべきだ。
妥当性の乏しい論拠で恫喝、面罵を繰り返した事がこの結果を生んだとするなら、同じような事を引き起こさない為にも、野党議員の官僚への態度全般について検証すべきだ。

そして、理想主義者が
 「安倍晋三こそが、この文書改竄問題の直接的かつ最大の責任者」
と規定した事が、政治決着の部分で誰も責任を取る事無く終わった最大の要因となった。
上述の通り、出て来た改竄前文書を普通に読めば、安倍晋三の言動が何かしら森友学園の国有地払い下げに影響した事などあり得ない事がはっきりしている。
また、そこを強く確信していたからこそ、安倍晋三は
 「私や妻が国有地払い下げに関して関与していたならば辞職する」
ときっぱり言い切ったのだ。
財務官僚の文書改竄の動きは、安倍晋三を守る為では無く、国会対応に疲れ果てた結果の産物であった。
財務官僚の職務上の不手際、不正行為に関して、その管理監督責任を直接負うのは財務大臣であり、結果の重大性から鑑みれば、野党・マスコミが最初から麻生財務大臣だけをターゲットとして、その政治責任を追及していたのならば、辞任は不可避だったと見る。
しかし、野党・マスコミは終始、安倍晋三の重大責任に絞って勝負を仕掛けていた。
行政組織全体の長として、官庁内での不正に関して総理大臣に対しても一定の責任がある事は確かだが、財務省内で財務官僚が自らの保身の為に起こした文書改竄で、総理大臣の首が飛ぶなんて事は、責任の程度の問題として全く妥当性が無い。
だからこそ、政府与党は野党からの追及に対し、ゼロ回答を続ける事になったのだ。

理想主義的な「望ましい結論」を夢見た事で、現実的な落としどころから大きく乖離した要求を行い、可能だったはずの財務大臣の首を取る事すら叶わなくなった、と言うのが文書改竄問題の現実なのだ。

望月記者の”活躍”

森友学園問題で、望月記者は大いに名前を売った。

籠池理事長は明恵夫人を名誉校長に据えた事で安倍晋三に取り入る事が出来たと確信していたが、実際問題、そのような事実は無く、それをその通り語った安倍晋三に一方的に幻滅し、反アベ界隈に取り込まれて行く。

ここで望月記者は籠池理事長夫妻に接近し、野党議員らと共に反アベ活動に邁進した。

上述したように、森友学園問題は安倍案件でも無ければ、自民党議員案件ですらない。
土地の賃貸借契約に際して、十分な瑕疵担保責任の説明を果たさなかった落ち度を責められる形で近畿財務局、財務省側の立場が弱くなり、特例的な国有地払い下げに至ったと言う経緯であり、役所がやりたくてやった特例的な措置でも無かった。

にも拘わらず、マスコミ、野党は連日連夜、有りもしない「安倍晋三の不正行為」を認定しようと躍起になり、印象操作だけで政権支持率を大きく落とす事に成功した。
端的に言って、印象操作だけで倒閣運動を実現しようと試みる勢力も異常だし、それに安易に騙された多くの国民の軽薄さも異常だ。

だが、それでも安倍政権の土台を揺るがしたと言う結果は事実として残った。
元から安倍政権を非常に否定的に捉えていたマスコミはこの成果を喜び、東京新聞の幹部の中でも望月記者の評価が上がった。

この後、彼女は社会部記者のまま、本来政治部記者の担当である「官房長官定例会見」を主戦場とするようになる。

「官房長官定例会見」での暴走

ジャニーズ会見における異常な行動望月記者の事を知った人にとっては、何故あんな行動に出るのかいぶかしく思うかも知れない。
だが、望月記者は以前から”あんな感じ”なのだ。

安倍政権における官房長官はずっと菅義偉だった。
この菅官房長官に対し、毎回毎回、自分の考えを披露する独演会のように、冗長で意味の無い質問を望月記者は繰り返した。

自分達の中で菅官房長官に言わせたい言葉は決まっていて、それをどうにか言わせようと望月記者は粘りに粘り、菅官房長官に軽くあしらわれる日々が続いた。

そもそも、望月記者と彼女に近しい人達の政治的な見立ては、反自民、反安倍晋三で固まっていて、彼女たちがリベラル的と思う方向に政府見解を誘導する事を目的として、官房長官定例会見の場を使っていたのだ。
官房長官定例会見を私物化しようと試みる異常な態度であり、事実をありのまま伝える事を旨とするマスコミ人の姿勢としても非常に問題がある。
だが、彼女はそう言った批判には全く耳を貸さず、ほぼ政治活動家同然の姿勢で官房長官への長く無駄な質問攻めを繰り返していた。

このような行動に対し、内閣官房付きで定例記者会見を仕切る立場の政治部記者たちは不満を抱いていたと言う。
東京新聞の政治部記者でもそれは同じだった。
望月記者の質問し始めると、会見終了まで彼女が延々と食い下がり質問を重ねようとするのだ。
彼女が質問すればするほど、他の記者の質問機会は失われる。
何より、彼女の質問は菅官房長官から
 「そのような事実はありません」
の一言で終わる回答を貰うだけの非生産的なモノでしかないのだ。

当人的には菅官房長官の痛い所を突いたつもり、質問が生産的にならないのは質問に向き合わない菅官房長官のせいだと考えているのかも知れない。
だが、第三者的には「質問が悪い」の一言に尽きる。
まともな証拠も無い週刊誌報道を取り上げ、怪しい怪しいと言い募るだけで、菅官房長官から有益な回答を得られる訳が無い。
この単純な仕組みに気付けない時点で、記者としての資質を大いに欠いている。
何より、周囲の政治部記者たちが白けた態度を見せている理由について、省みる事が出来ない事が、洞察力の無さをそのまま示している。

理想主義者の末路

理想主義者「あるべき結論」を先に規定し、そこに合致するように「物事を解釈する」
この事から、物事をありのまま伝える事が本来業務の一つである「マスコミ」とは非常に相性が悪い。
だが、実際のマスコミには理想主義者がうじゃうじゃいる。
それ故に、偏向報道がわんさか量産されるのだ。

ジャニーズ問題における望月記者の姿勢を振り返ってみる。
勇気ある告発を行った方達の会見の場において、
 「刑事事件で適切にやれば、皆さんが対話をする以上の……」
と話し始め、被害者の妻から制止を受けた。

望月記者にとっては
 「これだけ酷い事件なのだから、刑事事件として扱われるべき」
との思いがあるのだろう。
だが、それを求めるかどうかは被害者自身の問題だ。
様々思い悩む相手に対し、「刑事で訴える事も可能なんじゃないか」と提案するのとは話が違う。
 「こうした方が良い」
 「こうすべきだ」
と相手の気持ちへ寄り添う事無く勧める行為は、記者としての役割を逸脱している。
記者として云々以前に、苦しい胸の内を語る相手に対する人としての情を欠いているとしか思えない。
この普通では理解し難い言動を取らせる根本にあるのが、「望ましい結論」として「刑事事件化」を先に規定し、被害者をそちらへ追い立てようとする理想主義的発想だ。

ジャニーズ事務所社長に就任した東山新社長に対し、過去の書籍内容を引用して、わざわざその性的な表現を質問に入れ込んで資質を問い質した場面も同じだ。
彼女の中で
 「このような性的な行為を後輩相手にやらかした人物は、新社長として相応しくない」
との結論が先に有って、それを東山氏に認めさせようと躍起になり、この下品極まりない質問をぶつけるべきだと発想するのだ。

個人的感情として、
 「東山氏は新社長に相応しくない」
と考えるのは自由だ。
だが、その個人的な思いは別に社会的な合意形成を経ている訳じゃない。
誰もが同じように「そうだ、相応しくない」と同意する内容だと言い切れる状況には無い。
社会に向かって提示し、世間一般の大多数が賛同する声となった後じゃなければ、他者に対して「当然受け入れるべき内容」とは言えないのだ。

仮に性被害を受けた人の中から東山氏へ期待できないとの声があったとしても、全ての被害者が口を揃えて「絶対に許せない」とまで言われるレベルじゃないのなら、個人的思いを振り回して「貴方は社長になるべきじゃない」と詰め寄る権利など無いはずだ。
実際、「当事者の会」は東山新体制の最初の会見で性加害があったと認めた事を評価して「期待している」と語っていた。
当事者である元ジャニーズメンバーの全てが問題視している訳では無い東山氏の資質に対し、望月記者の独断で徹底批判する行為に何の意味があるのか?
そこにあるのは望月記者の自己満足だけではないのか?

他者の気持ちに配慮する事を覚えれば、人は自らの行為について、客観的にどのように見えるか?を意識するようになる。
逆に、どのように見えるか?を考慮しているようには見えない振る舞いをする人物は、他者の気持ちに寄り添う思考が出来ないか、他者の気持ちに寄り添うよりも優先すべき事があるのだ。
私は望月記者が全く人の気持ちを推し量る事が出来ないとまでは思わない。
だが、独善的な振る舞いをこれだけ継続して行って、批判を受けてなお、行動を改めようとしない姿勢から、余りにも極端な理想主義的思想に思考が支配されているようにしか思えない。

個人的な考えとしては何を考えても勝手だが、記者としての社会的役割を果たす上では、全く以て適当ではない思考様式に陥っている。
このような記者の暴走を容認している東京新聞は、はっきり言って異常だ。
東京新聞幹部に望月記者の言動に対する完全な賛同者でもいなければ、記者から配置転換されてもおかしくないと思う。

多分、これから先も望月記者はこのスタイルを貫いて行く事だろう。
自分なり、或いは自分と近しい人達との間で先に出した結論を絶対的に正しいモノとし、これを社会全体が受け入れるべきと考え、一方的で傲慢な態度で活動家のような言動を繰り返すと予想する。

望月記者的発想に共感する一部勢力は、彼女の事を積極的に擁護している。
彼らに対し、一般的な感覚からの指摘、助言などどれだけした所で効果は無い。
理想主義者とはそういう者だ。
他者から妥当性ある指摘を受けて「確かに」と態度を改めるような人は、そもそも理想主義的発想に染まらないのだ。

彼らの思考様式に全く共感出来ない多くの人が出来る事と言えば、
 「人間、ああなってはお終いだな」
と他山の石として、我が身を振り返り、他者を思い遣る事の大切さを改めて知る事くらいだろう。

<了>

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