YouTubeオススメ「ロザンの楽屋」

メディアリテラシーの教材として使えるチャンネルをご紹介。

一応断っておきますが、私はロザン関係者でも吉本関係者でもありませんw

チャンネルの特徴

ロザンについて

宇治原 史規(うじはら ふみのり、1976年4月20日 - )
ツッコミ担当。
大阪府四條畷市出身、京都大学法学部卒業。

菅 広文(すが ひろふみ、1976年10月29日 - )
ボケ・ネタ作り担当。
大阪府高石市出身、大阪府立大学経済学部中退。

吉本興業所属のお笑いコンビ。
高学歴コンビとして知られる。

多分、全国区では東京キー局製作のクイズ番組によく出演している宇治原さんの方が知られていると思う。
菅さんは在阪局の街ロケで、その人懐っこさを発揮し、おばちゃんや日本語が話せない外国人とのコミュニケーションで活躍したり、スタジオトークでMCとの和気あいあいとした掛け合いで存在感を見せている。
コンビとしてのテレビ出演は在阪局(準キー局)製作のバラエティ、トークショーのゲスト、ワイドショーのコメンテーターなどが多い。

最近はネタ番組のテレビ出演はほぼ無いと思う。
どんなネタやってたか、は正直覚えてないのだけど、「つまんな」と思った記憶が無いので多分笑って観てたんだと思うw

「ロザンの楽屋」について

文字通り、ロザンが出演番組の楽屋にて、様々な話題について二人がトークする「撮って出し(撮影して無編集で出す動画。元は同手法のテレビ用語)」。
話題の時事ニュース、芸能ニュースに関するものが多い。

ただ、その話題に関して、マスコミ報道の仕方に対する疑問を率直に語ったり、世間的な注目ポイントと違う視点でモノの見方を提示する事がこのチャンネルの大きな特徴だ。

レギュラー番組もあり、ゲスト出演も多い売れっ子タレントと言う事で、奇をてらった極論に走ったりはせず、それでもメディアの姿勢への苦言・疑問を的確に言語化して提示してくれるので、肩ひじ張らずにメディア論評を考える切っ掛けとして有用なチャンネルだと思う。

二人とも理性的に話を進めるのが得意で、聞き役に回るのが上手、さらにお互いへのリスペクトがきちんとあるから、小難しい話題であっても聞いてて疲れない。
時事ニュースについてまだその問題点をよく分かってない状態で視聴しても、何が問題なのかの理解の助けになる。
また、笑いに繋げられそうな所はきちんと狙おうとするので、それが話の緩急を付け、見やすさに繋がってる。

ネット言論に触れた結果として、マスコミ報道に対して強い不信感を抱いた場合、それが行き過ぎて陰謀論的主張に流されやすくなってしまう人が少なからず存在する。
一度そっち方面にハマると、論理の整合性や理性的な議論をすっ飛ばし、結論を妄信した上で、その結論に同調しない人は敵に見えてしまう極端な状況に陥ってしまう。
そう言った過激な論調にハマる前に、「ロザンの楽屋」のような「穏当で理性的なマスコミへの疑問提唱」のスタイルを知っておく事で、「反マスコミだったら何でも良い」と言う姿勢の危うさを認識し、視野を広く保つコツが掴めるのではないかと私は考える。
こう言った理由から、マスコミ不信の強い人に「ロザンの楽屋」をオススメしたい。

ただ、実を言うとこれだけ薦めてはいるものの、視聴済み動画の割合はそんなに高くなかったりするw
「ロザンの事だし、この話題でもおかしな事は言ってないだろうな」
と言う安心感が、
「今すぐ見なくても大丈夫」
とつい視聴を先送りにして、
「そう言えばあの話題の動画、見ないで終わったな」
となりがち。

あるYouTuberが
「ネガティブな話題の方が絶対に視聴回数取れる」
と断言していたけども、何となく分かる話ではある。
心に引っ掛かる言葉をサムネに入れた方が、気になって視聴する人が増えるだろうし、ちょっと攻撃的な表現で反感を買う事を厭わない人の方がYouTuberとして名を売れるだろう。
ただ、そういう手法は段々と刺激がインフレして行き、最終的に自滅したり、知らず知らず一線を越えてアカウント存続の危機に陥ったりするものだし、ノウハウとして使いこなすのは相当難しいモノだと思う。
そして、そういう部分を踏まえると炎上狙いの対極にいて、コンスタントに一定の視聴回数を稼いでる「ロザンの楽屋」は凄いな、って話に戻って来る。

個人的視聴方法

上述の通り、私は「ロザンの楽屋」を高く評価している。
ただ、それは「ロザンの楽屋」内での疑問点の提示や、問題提起、ロザン的な結論を全肯定していると言う意味では無い
基本的に論理的な正しさを大事に語っている事から
 「なるほど、そういう風な考え方もあるな」
と言う事は多いのだが、賛同し難い話も当然ある。

で、そう言った時、
 「宇治原さん(菅さん)が何故、そういう結論に至ったのか?」
を考え、
 前提 → 論理展開 → 結論
のどの部分で自分が引っ掛かったのか?を冷静に分析する。
その上で、相手の論理と自分の論理の比較を通じて、より妥当性の高い主張を自分なりに導き出そうと試みる

ロザンのお二人に対し、私は好意的に評価してるし、その理性に対して信頼を置いているけれども、それは彼らを妄信する事とは違うのだ。
 「二人が言ってるから、”きっと正しいのだろう”」
との思考様式が一番危うい。
これは誰が対象であっても言える話だ。

また逆に、自分とは違う結論を言っている事を理由にして、「二人は間違っている」と安直に決め付ける事も非常に危うい考え方になっている。
自分にとって好ましい結論だからと言って、論理展開を無視して肯定する事も、自分にとって好ましくない結論だからと言って、論理展開を無視して否定する事も、何方も妥当性が無いと言う点では変わらない
肯定する時も否定する時も、論理的な正しさを吟味する必要がある。

そして、感情に基づいた決め付けをやらないロザンの二人のお話は、こう言った「論理性の吟味」を行う練習にうってつけなのだ。
なので、折角視聴するなら、こう言った思考の訓練に活用し、メディアリテラシーを高めようと心掛けるのが良いと思う。

個人的に気になった話題

オススメしといて、わざわざロザンの語った内容に物申すのも、何だか微妙な話ではあるのだが……
私がどんな風に考えながら視聴しているのか、その具体例を幾つかあげて参考にしてもらおうかな、と。

「国葬の基準」問題

安倍元総理が銃撃され、亡くなってから数日。
岸田総理は「国葬」を行う事を決めた。

大手マスコミの大半は、安倍元総理への嫌悪感が先に来る為、「国葬」への疑義をあれやこれやと言い募るようになる。
その一つが「国葬の基準」問題だ。
 「どのような人物ならば『国葬』の対象とすべきか、基準が無いのはおかしい、政権の恣意的運用は許すべきじゃない」
と言った内容で、マスコミは批判した訳だ。
で、それに対して岸田総理は「国葬の基準について、一定のルールを設ける事を目指す」と言ってしまった。

ロザンの二人も、「当然、ルールは必要だよね」「基準が無いのは不公平感に繋がる」と言った論調で語っていたと思う。
そして、国葬から1年経った頃にもう一度、国葬ルールが決められてない事を指摘していた。

一つの考え方として、「行政として行う事にはルールがあって然るべき」と言うのは分からない訳では無い。時の権力者が制度を恣意的に運用する事への疑念、権力の暴走への懸念を抱く事も理解はする。
ただ、私は「国葬のルール制定」なんて土台無理な話だと最初から思っていたし、今も思っている。

まず、法律面での情報整理から行う。
上述中では、マスコミ報道が「国葬」表現一色だった事もあり、ほとんどの日本人が「安倍元総理の『国葬』」だと認識しているだろうから、「国葬」と書いた。
だが、実はこれは正しくない。
「安倍元総理の『国葬”儀”』」が正しい表現となる。

国葬:天皇(上皇)崩御時に行われる「大喪の礼」を指す。 
 皇室典範が根拠法となる。

国葬儀:過去には吉田茂逝去時に行われた。この時は根拠法が無い中、終戦直後から日本の再独立を果たし、長期政権を築いた事を以て”戦前の総理大臣判断で執り行われる国葬儀”に倣って実施された。
 長期政権の元総理や現役総理の死去に際して、国葬儀を行うか?はたびたび問われ、その根拠法の制定が懸案事項となっていた。
 そして、2001年の省庁再編を前に内閣府設置法が制定されたが、この中で「内閣の判断で儀式を行う権限」が盛り込まれた。
 なので、内閣府設置法が根拠法となる。

時間泥棒・作

マスコミは、最初から混乱していた。
「国葬」「国葬儀」の違いを正確に報じる事も無ければ、「『国葬儀』にはきちんと根拠法がある」と言う事実も正しく報じず、まるで岸田政権が思い付きで法的根拠の無い勝手な行動に出たかのように報じた。
「安倍晋三を国葬にするとはどのような了見なのか?国葬とは天皇、上皇崩御に行われるものだ。安倍晋三を神格化しようとする危険な試みを岸田政権は行おうとしているのではないか!?」
と事実誤認も甚だしい左派的SNSの曲解と歩調を合わせるかのように、「国葬儀」の実施が危険な保守的発想から来るものとの世間的な誤認を大手マスコミがこぞって拡散した。
全く以て論理性を欠いた批判ながら、マスコミが繰り返し報道するものだから、世論調査では当初「国葬(儀)」賛成派が過半数だったものが、日を追うごとに減って行った。さらに、この世論変化を更にメディアスクラムで報じる事で、「世論の反対を押し切ってでも、国葬(儀)を推し進めようとする強権的な自民党、岸田政権」との印象付けを行った。
そして、野党、マスコミからの突き上げに窮したのか、「内閣判断」で十分にも拘わらず「国葬(儀)ルール制定を目指す」と妥協案を出してしまい、これがさらに「現状は、国葬(儀)のルールが無いのだ」とのマスコミ、世間的な誤解を拡散する事に繋がってしまった。

「国葬儀」と言う言葉を正しく理解し、使用出来なかったマスコミ、野党は馬鹿しかいないのだと思う。
(きちんと使えてたマスコミ、野党議員もいたからこそ、誤認し続けた連中、確信犯的に誤認を広めて世論誘導を画策した連中の罪は重い。当人らがこれを認める事は絶対無いだろうが、「国葬儀」の解釈の誤りはネット言論から繰り返し指摘されていた為、情報精査を行うチャンスは幾らでもあった。彼らは十分分かった上で政治的に好ましい方向に世論誘導したのだ。)

「国葬儀」を行うかどうか?時の内閣の判断で十分であり、仮にこれが国民の望むもので無かったとするなら、政権与党は次の国政選挙においてその責めを受けるのだ。
逆に、このような個別案件で国民投票を行う事はコスト面でも割に合わないし(国民投票に掛かる予算で10回は国葬儀を行えるだろう)、国民の信任を受けて立法府の過半数を持つ与党、立法府の議決で指名される総理大臣と言う存在が国民を代表して判断する事に違和感を抱く方が余程おかしい。
ここに疑念を抱く人は、間接民主制の機能を理解してないのではないかと思う。

さらに、「国葬儀の基準の明確化」などちょっと考えれば到底、文章化するのが無理だと分かる話なのだ。
安倍元総理の死から間もなく、アメリカからその死を悼む外交団の派遣が打診されている。国として葬儀を行うなら行く準備がある、何人まで派遣可能なのかと問われたのだ。
ここで何も準備出来てなかった外務省は1ヶ国辺りの受け入れ人数として当初4人として回答したが、それでは足りな過ぎると返されてる。

アメリカ海軍において、長らくアメリカ太平洋軍だったものがアメリカインド太平洋軍に名称改変されたのだが、この切っ掛けは第一期安倍内閣に安倍晋三が提唱した「自由で開かれたインド太平洋構想」だ。
インド洋、太平洋を一体化させた世界戦略トランプ政権下のアメリカも採用したのだ。更に、トランプ政権終了間近、米国防総省は敢えてアメリカの世界戦略が安倍晋三総理大臣の影響を受け、太平洋軍からの改称に至った経緯をわざわざ公表している。
トランプ政権で決まった事に対し、総じて否定的だったバイデン現大統領は、就任から暫くは「インド太平洋軍」表現を使わなかったが、これにアメリカ国内から突き上げを食らい、結局はバイデン政権においても「インド太平洋構想」の基本戦略は踏襲される事となった。
アメリカの世界戦略を大きく転換させた日本の総理大臣など、安倍晋三が唯一の存在だ。
対アメリカで一番大きいのは、単にトランプとの個人的関係を築けた事ではなく、事務方から高い信頼を得ていた事だ。自分にとって気に入らない結論には幾ら事務方から話を上げても首を縦に振らないが、安倍総理を通じてアドバイスされると「そうなのか」と話が通ったとのエピソードがある。
また、トランプ大統領と言う極端に個性が強く、左派色の強いヨーロッパやカナダ首脳としばしば対立した大統領との信頼関係を構築し、トランプと他の首脳との調整役を果たし、双方からの信頼を得ていた
さらに、オーストラリアのモリソン首相(当時)は「安倍晋三は私のメンター(職場等での指導者・助言者)だ」と明言し、コロナ禍の最中で一度出国すると首相であっても帰国後に隔離期間を取る必要がある中で、わざわざ安倍晋三と外交面で直接意見を聞く為に訪日した程、心酔していた。

ここまで外国首脳から高く評価された総理大臣など安倍晋三しかいない。
日本がお願いする遥か以前、そもそも国葬儀をやるかどうかも決まってない内に、外国から「国家としての葬儀に出させて欲しい」と先に言われる元総理に対し、「国葬儀の対象とすべきかどうか、疑問が残る」と言い出す連中は最初から国葬儀には反対なのだ。

また、政治的功績について客観的な評価を出そうとする発想がそもそも無理筋だ。
数値化出来るとすれば、それは在任期間くらいしか無いだろうが、長期であっても他に適任者がいない、野党の党勢が弱弱しい事で政局にならなかったとの消極的理由で長期政権になる場合もあるだろう。
一方で比較的、短期政権に終わった場合でも日本の憲政に大きな足跡を残した総理大臣は政権期間に縛られる事無く、国葬の対象になってしかるべきだろう。
数少ない数値化ポイントの在任期間ですら、このように客観指標とするには非常に問題が大きいのだ。

更に、その死に至った経緯、有り体に言えば「死に方」国葬儀にすべきかどうか?の議論に影響を与えるのだ。
外交的には政治家として現役に近ければ近い程総理在任中か辞任後間もなくの方が、世界的なトピックとして大きな話題となり、当該人物と首脳会談を行った相手方も現役首脳であったり政治的影響力を残した状況にあるだろう。
そう言った現役、もしくは現在も政治的影響力を持つ外国要人を迎える場としての機能もある為、国葬儀にする方が相応しくなる
また、安倍元総理のように、選挙演説の最中と言うまさに政治活動中に凶弾に倒れたとの悲劇性の評価、及び、「このような暴力に対し政治が屈する事があってはならない」とのメッセージを込める意味合いでも国葬儀にすべき判断材料となる。
このような情報を予めルールの中に入れ込むなんて、出来る訳が無い。
逆に無理やりルール化しようとすれば、膨大な量の想定を行い、それへの回答を用意する必要に迫られるだろう。

逆の視点から語ると、「国葬儀の基準ルールの明文化」を求めている人達に対し、「どのような具体的で妥当性の高い国葬儀実施基準を自分の中に持っているのか?」との率直な疑問を抱かざるを得ない
ちょっと考えれば到底、明文化不可能な条件付け、国葬儀の適不適のライン設定を「出来るはず」だと思い込んで、時の政権に安易に求める人達は、政治的課題を我が事のように落とし込んで考える習慣付けが出来てないのだ。
「我が事のように考えた事は無いけれど、時の内閣、政権与党に要求する事に躊躇いが無い」のは、結局のところ「批判出来れば何でも良い」との情緒的反自民勢力と大差無くなってしまう
冷静で論理性を大事にしようと思う人であればこそ、情緒的で結論ありきの論調とは一線を画すべきだ

そもそも、国葬儀に相応しいような総理大臣など、何十年に一度出るかどうかなのだ。
変に緩い基準にすれば、国葬儀の乱発を招き、その価値を自ら減ずる事に繋がってしまう。
逆に過度に厳しい基準にすれば、ルールはあるが実施されない事実上の死んだルールになりかねない。
更に、国葬儀の基準をほぼクリアしているけれど、1つ、2つ基準を満たさなかった程度の実績がある総理大臣で、多くの国民から「それくらいなら認めてあげても」との声が上がった場合どうするのか?
結局はルールなど作っても、それを厳密に運用出来るか非常に怪しいのだ。

全ては「国葬儀の基準を明確化出来る」との想定が間違っている事に端を発している。
何世代かに一人、同時代の人にとって見れば「不世出の政治家」と思われる程の総理大臣でなければ、「国葬儀を行おう」なんて話は出て来ない訳だし、それならばその判断を行うのは時の内閣に任せるだけで構わないじゃないか、となる。

「政治に対して厳しい目を向けなければならない」
との政治不信が根底にある人ほど、「内閣の判断」と言う基準に対して「それで本当に良いのか?」との観点でモノ申したくなる。
だが、客観指標の作れそうもない問題に対しては「内閣の判断」に任せる事は、「致し方ない」と言うより「そうすべき」話なのだ。
更に、現行法できちんと根拠法が存在している。
どうしてもそれが許せないと言う人は、次の選挙で意思表示すれば良い。
それで話は完結している。

このような理由から、私はこの件のロザンの結論に賛同しない。

「知床遊覧船沈没事故」の余波に関して

知床遊覧船が沈没した事故の後、多くの遊覧船運営企業が各種点検、万が一のトラブル対処の再確認を行った。

これに対し、宇治原さんが
 「逆に、『うちはそういう事必要無いくらい、普段からきちんとやってるので』と言うくらいでないと怖いわ」
と言った内容の発言をしていた。

宇治原さんの主張は、理屈としては分からないでもない。
ただ、現場の遊覧船運営企業は、この事故のタイミングで一斉に点検するのがリスクマネジメントの観点で絶対的に正しい
何故か?

知床遊覧船の事故から間もなく、別の遊覧船でも運悪く事故が発生したとする。
その時、多くのマスコミ、世間一般はどのように受け止めるだろうか?
多分、
 「このタイミングで事故を起こすなんて、知床遊覧船同様、適当な運営を行っていたのでは?」
と直感的に思うだろう。

事故に関する詳しい情報が出る前に、多くの人がこの情報バイアスに思考を乗っ取られる事になる。
こうなると、運営企業にとって不利になるような情報ほど好んで報じられるようになり、世間全体もその情報バイアスを強化させながら事故情報を追い掛ける事になる。

事故を起こした企業の幹部が
 「うちは知床遊覧船と違って普段から十分に点検してる。
改めて特別何かやるつもりは無いよ」
と周囲に語っていたとする。
この発言に辿り着いたマスコミはどう報じるだろうか?
 「幹部に驕りか?知床遊覧船事故の教訓生かせず」
と言った形式で煽るような一報を報じるだろう。

虚偽報道では無い。
だが、本来は普段の点検の程度、事故の発生原因との兼ね合いで、企業側の責任の有無、注意義務違反があったのかどうかを正しく探った上で報道がなされるべきだ。
しかし、事故報道ではその時その時に得られた情報で次々に新たな報道が行われてしまう。
情報バイアスは強まる事はあっても、弱まる事は無い。

特に、最近はネットでは、誰もが思い切り叩いて良い相手、「パブリックエネミー」を常に探し求めている。
 「うちは大丈夫」
と言ってた企業が事故を起こしたとの経緯だけで、
 「こいつらは叩いて良い相手だ」
と思い込んで誹謗中傷する人間が少なからず現れる。
この手の手合いは、仮に事故原因が偶発的なもの、運営企業に注意義務違反があったとは言えないと後から認定されたとしても
 「でも、事故を起こした事実は変わらないでしょ」
とネットで叩きまくった行為について反省するどころか自己正当化に走る。

結局、大きな事故が発生した直後、同業者にとっての最適解は、臨時の整備点検、社員教育の再実施になるのだ。
自社の安全基準、乗務員や社員の事故対応訓練の程度にどれだけ自信があろうと関係無い
何故なら、マスコミも世間もそこまで深く知ろうともせず、先入観から来る認知バイアスに従って煽る方向に走るからだ。

仮に十分な点検、社員教育を再実施していた場合の事故だったなら、
 「知床遊覧船沈没事故があったのに、また遊覧船で事故!?」
 「あぁ、でもこの社はきちんと事故後の整備点検も、安全教育もやってたんだ……じゃあ、不運な事故だったのかな……」
と他の情報が出揃う前に、違う形の情報バイアスが働くようになる。
この時も、短期間に再度、同種事故が発生したとの条件が揃っただけで、少なくない人間がネットで叩きを始めるだろうが、その短絡的な思考を諫める人達も確実に現れる。
批判者の多くは「それが正義に適うはずだ」と思いながらネットでの叩きをやっているものだ。
「叩ければ何でも良い」的な手合いも紛れ込んでるが、絶対数では多くない。
何故なら、批判者の多くは「兎に角誰かを非難したい」訳じゃなく、「叩かれて当然の人を叩いて、自分の言葉に賛同してもらいたい」「賛同を得る事で自己肯定感を高めたい」との心理を背景にして叩きを行っているからだ。
なので、「一方的に非があるとは言い切れない」案件では、一歩引いたスタンスを取り、続報を待つ事になる。
強烈に非難した後に、「叩くべき相手でなかった」と知る事になれば、非常に後味が悪くなる。多くのネット民はそれを避けるべく行動選択をしている。

宇治原さんの語るように、安全への意識が常日頃高い企業ばかりであって欲しいと思う。
だけれども、万一の場合をきちんと考え、リスクマネジメント的に正しい判断を行うなら、他社の事故に際して横並びで同業者が再点検、再教育を行う事は理に適っているのだ。
そして「うちは普段から十二分に整備、訓練を行っている」と思っていたとしても、それを社外で主張するのは避けた方が良い。
万一の事故に際して、マスコミの取材陣に自社を不利にするような認知バイアスを作ってしまう可能性があり、それが世間一般の事故の受け止めに影響する可能性もあるからだ。
報道する側の責任感の薄さ報道を受け取る側の軽薄さによって、誤報に晒され、非難の対象となるリスクは誰にでも発生し得る
ここを考慮しない想定は、机上の空論でしかないのだ。

まとめ

薦めておきながら、意見の異なる話題を2つも挙げると、本当に薦める気があるのか?と思われるかも知れない。

でも、私がロザンのお二人を高く評価しているのは事実だ
このように、必ずしも意見が合致していなくとも、それでも大手マスコミ報道には無い鋭い指摘があり、妥当性のあるメディア批判を行っている点で視野が広がり、役に立つチャンネルだと強く確信している

どれだけ有用なチャンネルであっても、鵜呑みする事には必ずリスクが生じる
それは私のnote記事についても言える事だ。

この文章を読んだ人には、批判精神を時々思い出しながら「ロザンの楽屋」を楽しんで欲しいし、私のnote記事も読んで欲しい。

<了>


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