「認知バイアス」とは何ぞや?

人が情報に接する時2つの可能性が生じる。
それは、

  • 情報を正しく認識する可能性

  • 情報を誤認する可能性

冷静に落ち着いて受け止めようとすれば、誤解する可能性は低くなる。
また、個人としてより広い知識を持ち、様々な経験をする事でも、情報を誤認する可能性は低く出来るだろう。

だが、どんな人間も森羅万象に通ずる事など出来ない。
つまりは、どんな人間も「誤認する」のだ。

そして、人々の誤認を誘発させる代表的なモノが

 「認知バイアス」

なのだ。
今回は「認知バイアス」について解説する。


人は2つの「理解」を組み合わせて生きている

人は生きて行く中で、常に判断を迫られ続ける。
こう言うと「人生の選択」的な話を想像するかも知れない。
だが、そんな仰々しい判断に限らず、ある物を見て好き嫌いの感情を抱いたり、会話の中でどんな返答をしようか考えたり、とありふれた日常風景にも表れる判断の話だ。

そう言った判断の元として、その時点で自分がある対象について、どのように「理解」しているのか?は大きな影響を与える。

ここで「理解」と一語で示したが、この「理解」には実は2種類あるのだ。
それが

  • 「直感的理解」

  • 「論理的理解」

だ。

・直観的理解

「直感的理解」とは、先入観経験則、まさに「直感」に頼った理解の事を指す。
脳の反応として素早い回答を用意するのに適してはいる。
だが、それが真に正しい回答である事は担保し得ない。
後で自問自答してみれば、必ずしも正しくない判断をしてしまった事に気付く場合も少なくないだろう。

・論理的理解

「論理的理解」とは、「直感的理解」を引き起こす先入観や経験則、直感などを排し、理詰め、論理的な正しさを大切にした上での理解の事を指す。
また、「論理的理解」を導き出す為の思考力、「ロジカルシンキング(論理的思考)」はビジネスの場面で必要な能力として言及される。
その思考形式の定着、個人やチーム育成の方法論など、ビジネス用語や教育論などでも見掛ける事があるかも知れない。

注意:「直感的理解」が悪い訳じゃない

このように2つの「理解」を並べられれば、

 「『直感的理解』は迂闊な判断に陥りやすい
  『論理的理解』はより正しい結論を導きやすい
  なので、極力『直感的理解』ではなく『論理的理解』を心掛けましょう」

的な結論を期待されるかも知れない。
論理的な正しさを求められた時に「論理的理解」を意識する事は当然大事な事ではあるが、人生のあらゆる場面で「論理的理解」を求める事は現実的でないし、それが人生にとって有意義であるかも担保し得ない。

人は「感情の生き物」でもあり、感情、情緒を常にそぎ落とし、何に対しても深く思考するばかりの人間は、客観的にかなり特殊な存在に映るだろう。
そう見られたい人ならそれはそれで自由だが、そうじゃなければ「直感的理解」に従った言動を極端に恐れる必要は無い。

また、『直感的理解』は『論理的理解』と”必ずしも一致しない”だけであって、『直感的理解』が『論理的理解』と一致する事も普通にあるのだ。

更に言うと、『論理的理解』当人の持ち得る情報、知識との検討の上でなされるものだから、検討材料が乏しければ導き出した『論理的理解』の正しさも保証できない
全知全能の人間などいない。となれば、時間を掛けて導き出した『論理的理解』が根本から間違っているなんて事は、ざらに起こるのだ。

あくまで、『論理的理解』は『直感的理解』よりも慎重な検討の上で出された『理解』だ。
なので、

 「『論理的理解』を常に志向すれば、間違う事は無くなる」とはならない

この事は大前提として知っておく必要がある。

「直感的理解」は危機察知能力に繋がる大切なモノでもある

「論理的思考」を求める場合、「直感的理解」が邪魔になるのは事実としてある。
だが、「直感的理解」に振り回される事を恐れる余り、自然に生じる「直感的理解」を憎んだり、毛嫌いする必要も無い。

そもそも何故、人間に「直感的理解」が備わっているのか?
それは、その「理解の早さ」こそが大切な場面が現実にあるからだ。

認知機能の誤りの一種として、錯覚が挙げられる。


猫の”長い物”へのリアクション

動画投稿SNSでは猫動画が人気だが、その中でも

  不意にキュウリなどの細長い物を見た瞬間、飛び上がる猫

はちょくちょくバズっている。

猫の祖先はリビアヤマネコであり、その生息域には天敵としてヘビが存在した事から、

 細長い物 イコール ヘビ(の可能性)

との認知から、反射的に飛び上がってしまうのではないか?と言われる。
室内飼いでヘビを見た事の無い個体でも、観察される反応と言う事で、DNAに刻まれた行動原理なのかも知れない。


翻って人間の錯覚を考える

人間の起こす多くの錯覚も、

 「そのように認知した方が、身に迫る危険を回避出来る」

として動物的本能と繋がっていそうなモノは少なくない。

有名な句に
 「幽霊の 正体見たり 枯れ尾花」
がある。
「枯れ尾花」は「枯れたススキ」の事だ。
元の句は「化物の」だったらしい。

暗い夜道で何かしらうごめく影、何かが擦れる音などから、
 「人や動物がいるのでは?」
と想像するのは自然な発想だ。

逆に、暗い夜道で自分に危険をもたらす存在がいて、実際にその存在を匂わすぼんやりした影が見えたり、生じる物音を聞いていながら、
 「よく見えない、はっきり認知出来ないのだから、気にする必要は無い」
と言うのは、豪胆と言えるかも知れないが、危険予知能力が低いとも言える。

 雲や自然物、人工物の様子が、何か別なものに見える錯覚

 シミュラクラ現象(3つの点だけで人の目と口を想起し、顔に見える現象)
は、そう感じたその場で、直接的な便益を得られる訳ではないだろう。

だが、そのような認知が発生する脳の機能は、
 人間がある対象を情報パターンとして認識している
事を示唆している。

そして、それは脳が
 十分な知覚情報が得られない環境で、有り得そうな可能性を提示する
ものであり、広い意味で危険予知能力と繋がっているのだ。

脳の直観的なリアクションは、「直感的理解」とも地続きで繋がっている。
なので、「直感的理解」脳の本来機能、本能として「勝手に働いてしまうモノ」として、受け止めるしかなく、それを生じさせないように努力するのは健全な脳の働きを拒否するのに等しい

「論理的理解」を求める必要が生じた際に、「直感的理解」が邪魔してしまう可能性を考慮し、必要に応じて「直感的理解」が正しい理解と齟齬が無いのか、もしくは直感と論理的帰結が異なるのかを吟味すれば良いだけなのだ。


誰も「認知バイアス」から逃れる事は出来ない

「認知バイアス」は誰しもが持っている。

 「私は認知バイアスを持っていない」
と主張する事は可能だが、それが実際に意味するところとは、
 「『私は認知バイアスを持っていない』と言う『認知バイアス』を持っている」
事を意味する。

 「貴方がもし『今まで嘘を吐いた事が無い』と言うのならば、
  貴方は『嘘吐き』だ」
と似ているかも知れない。

現実に出来るのは
 「認知バイアスを極力排し、確度の高い情報を求め、客観的で正確と思われる理解に努め続ける」
くらいが限界だ。


最重要ポイント【確証バイアスによる認知の歪みに対し、知性云々を持ち出すのは百害あって一利なし】

確証バイアス:認知バイアスの中でも、ある情報を正しいと思い込んだ時に、それに合致する情報を選好し、合致しない情報は無視したり、受け入れた先行情報に合致するよう歪めてしまうバイアスの事

陰謀論批判の言論でありがちな構図

各種SNSでは、今日も今日とて陰謀論で大賑わいだ。
論理的な根拠を示して反論し得る立場にある人にとって見れば、陰謀論者は不可解な存在に違いない。

 「何故、騙されてしまうのか」
 「何故、論拠を正しく精査しないのか」
 「正しく情報に当たる事さえ出来れば、騙される訳が無い」
 「それなのに、こう易々と騙されるのは、陰謀論者は迂闊だ」

このように陰謀論者を規定するだろう。
ここまでは構わないと思う。
私も陰謀論者の落ち度は指摘されて当然だと考える。

だが、ここを一歩踏み越えて、

 「陰謀論にハマる人間は、知性に問題がある」
 「認知能力が欠如していなければ、陰謀論なんか信じる訳無い」
 「陰謀論者は人としておかしい」

その相手の知能全般、果ては全人格まで含めて否定し出すと、一気にその論評から妥当性を失わせてしまう。

何故なら、その相手が信奉する陰謀論以外に関しては、その人の持つ正しい知識、実際の経験に基づいて正しく論評する可能性を否定できないからだ。

 「ある分野に関しては真っ当な論評をしているが、別のとある分野に関しては陰謀論に振り回されている」

と言う状況は普通にあり得る。
これは私が特殊なケースを持ち出している訳じゃない。

高校数学の命題に関する知識があれば、

 命題A「ある陰謀論にハマっているならば、あらゆる論評を間違えるようになる」

との命題Aについて、「明らかに偽」であると分かるだろう。
前提が小さい割に、結論が大き過ぎるのだ。
ハマった陰謀論と関連する所が無い論評については、正しい発言を行う可能性は残る。

一応補足しておくが、あくまで「正しい可能性が無くなる訳じゃない」と言うだけで、別に私は「他の事については正しいはずだ」と予断を持つよう勧めている訳じゃない。
論理的思考を維持するならば、一事を以て万事を論ずるような姿勢は正しくない、そういう事を言っている。

「一つでも陰謀論にハマっている論客は信用に足りない」との評価を否定している訳じゃない

陰謀論を批判する人達の多くは、その批判先の陰謀論に対し、辟易している事だろう。
そして、その陰謀論が提起される度に、モグラたたきのようにカウンター言論を行う事に飽き飽きしている。

陰謀論に真正面から対峙している人ほど、カウンター言論に疲れ、その相手に対しフラストレーションを抱える事になる。
そこには同情するし、一定の共感はするのだが、論理性を逸脱した批判に走る事は容認できない。

陰謀論にハマった相手に対し、
 「この人は論理的思考全般が出来ない人なのだろう」
と評価する事自体は止められるものでも無いし、内心そう思う事は全く以て自由だ。
だが、それがあたかも論理的に証明された事かのように一般化し、
 「相手の全知的活動、言論全般が正しくない」
と言い出すならば、
 「それは別に証明されてる訳じゃないよね」
と指摘される事になる。

主観的に「信用ならない」と思うのは個々人の勝手だが、客観的には
 「ある陰謀論にハマった人が、実際に何を語ったか」
検証を経なければ、その言説が「正しい」とも「間違っている」とも断言できない。

至って当たり前の話だ。

人によっては、
 「何故、こんな重箱の隅をつつくような些細な話に拘るのか」
と思うかも知れない。
だが、ここがとても重要なのだ。


「知能が高くとも、陰謀論にハマり得る」と言う現実

人は森羅万象に通じる事など出来ない。
余りに多くの情報が溢れる社会を目の当たりにすれば、誰でもそれは理解出来るだろう。

であるならば、人は誰でも知らない分野がある訳だ。
その未知の分野に興味を抱いた時、たまたま丁度良いサイズの陰謀論が転がり込んで来たら、どうなるだろうか。
しかも、それが自身の既知の分野と通底するロジックで説かれ、初見では論理的整合性が取れているように見えたなら、どうか?

迂闊にも、
 「そうだったのか」
と膝を打ち、それを真実であると強く確信してしまう確率はぐっと上がる。

相手の話を聞き、その場で目から鱗が落ちたような経験をしてしまうと、そこで判断保留の態度を取るのは非常に難しくなる。

論理的思考を先ず大事にするならば、
 「貴方の話はとても興味深く、正しそうに感じられたのだが、私はその分野について明るくないので、一度持ち帰って貴方の主張に対する反対論陣がどうなっているのか調べてみたい」
と言った具合に鵜呑みを回避するのが正しい態度だ。
だが、インテリ層でも必ずしもこう言った知性に誠実な対応はなかなか取れないものだ。

基本、私はリベラル界隈に対し否定的な見解を表明し続けている。
そして、リベラル界隈の主たる論調が、如何に非論理的で説得力が無いものであるかを常日頃論じている。
そのリベラル界隈には、多くのインテリ層が含まれている。
学歴、経歴的に言って十分に知的水準が高いと思われる人達が、安倍政権を積極的に悪魔化し、非論理的言説によってアベ叩きに奔走した。

また、財政論に関して、私はリフレ的発想、アベノミクスを支持し、財政均衡論はデフレ圧力の塊であり、全く支持しない。
財務省、日銀の伝統的価値観ではリフレ的発想を通貨危機を引き起こしかねない危険な思想と見做し、未だにマスコミを通じて国民の認知を歪ませようとしている。
財務官僚は多くが東大出身者が占め、政界で財政均衡論を主張する議員達にも財務官僚出身者は少なくない。やはりインテリ層だ。
そんな彼らが、伝統的金融政策手段に拘り、ゼロ金利政策を止めようと環境が整ってないのに焦っては景気を腰折れさせ、余計にゼロ金利政策期間を続けさせたのが「失われた20年」だ。

論理的思考で自ら答えを出す前に、特定の政治活動に触れたり、職務上必要不可欠なものとして与えられた大前提は、先入観として思考の入り口に入り込んでしまう。
そして、一旦入り込んだ先入観は、思考を行う度に強化されてしまう。
思考を始める前提が乗っ取られてしまっているが為、その人が本来持っている論理性、思考能力が正しい方向に向かなくなる。
そして、自分の回りには自分と同じ先入観に冒され、確証バイアスにハマった仲間ばかりなのだから、自分の陥っている確証バイアスに気付けるはずもない。

論理的保守として、或いはリフレ派として、理想主義的リベラル界隈や教条的な財政均衡派に対し、
 「アイツらは馬鹿」
と罵るのは簡単だが、それは彼らの主張を論理的に打ち破った事にはならない。
当たり前だ。

論理が通じない事を以て、相手の知性の問題と切って捨てるのは、同じ意見を持つ人達の間では一定の溜飲を下げる効果をもたらすかも知れない。
だが、それは論理的思考から導かれる妥当性ある結論でも何でもない。

そのような態度を取る事は新たな社会的合意を生み出す事に全く寄与しない。
知的分断を深めるばかりか、論理性軽視による主観的発言を殊更語る姿勢を以て、あたかも非論理的結論を振りかざしているかのようなレッテル貼り、印象操作に使われる可能性まである。
そうなれば、本来論理的に正しい主張を行っているにも拘らず、世間に対する訴求力を失いかねない。

人間的優しさの発露として「他者批判のボルテージを下げろ」なんて話ではなく、実利の面からプラスにならないので、情緒的批判は止めるべきなのだ。


まとめ と言うか、この記事を書いた動機について

認知バイアス、その中でも特に確証バイアスについては、元々私が論じたい対象ではあった。
今のタイミングでこの記事を書いた理由は、中東を中心とする研究者、言論界隈の対立がヒートアップしている事にあった。

単に意見の違いによるものならば、何処までも言論の世界の話になるし、言論の質はファクトチェックなどで第三者的な評価も可能で、各々が判断すれば良い話だ。

だが、一方の主張が単なる議論を逸脱し、十分な証拠も提示する事無しに、まるで外務省から研究名目で適切でない補助金を受けたかのような言説を拡散し始めた。
更には、中東の国際関係論にも外務省の補助金差配についても詳しくない保守系論客が複数名、言い掛かりとしか言いようが無い乱暴な主張に相乗りしてしまった。
更に、複数の保守月刊誌までもが加担し始めた。

これら、相乗りした人達、一部の保守界隈の人達は、騒動以前に当事者の語っていた中東論に信憑性を感じ、その人物を信頼するに至ったと思われるのだが、言論的対立を越え、論拠を示せないならば単なる誹謗中傷にしかなり得ない主張に、検証も疎かに肩入れしてしまったのだ。

私はこれを「確証バイアスの為せる業」だと見做している。
最初に信憑性を感じてしまったが運の尽き、論評に限らず全人格的に信頼に足る人物認定を行ってしまったが為、本来なら慎重さに慎重な検討を要する危険な他者非難に、安易に乗っかったのだと見る。

言い掛かりを付けられた側は、法的対抗を行う旨、SNS発信を始めている。
当然の対応だろう。

一方的な糾弾者と相乗り保守論客らにはそれなりの影響力があり、情報を自分で精査する事の無い保守層もその発言を鵜呑みにしてしまってる。
私も国内政治や日米関係を中心とした外交評論については傾聴に値すると思ってた人物が相乗り保守論客の一人となってしまい、非常に残念に思っている。

確証バイアスは事程左様に恐ろしいものだ。
彼らを考えが足りぬ者と嘲る姿勢が先に来る人は、明日は我が身となるかも知れない。
繰り返しになるが、迂闊さは指摘されて当然ではあっても、そこから広げて全面的な知性の問題としたり、全人格的問題と見做す論法は論理性に穴がある。
「年老いて鈍ったか」との論評も見掛けたが、そういう安直さも確証バイアスの種になり得る

変に一般化して教訓めいた話に落とし込もうとする必要も無いし、無理やり擁護する必要も無い。
非論理的主張に与した人達を批判する際に、非論理的な主観を持ち出すのは意味が無いのだ。

ただでさえ、多数派では無い保守層が影響力を減ずるほかない状況を前に、これ以上非論理的主張に流される人間が出ないよう、法的措置が順調に進む事を祈るばかりだ。

<了>

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