自民党女性局フランス研修炎上事件で思う事

「この炎上で得られる社会的利益なんて無い」
が結論。


炎上させなきゃならん程の話か?

自民党議員が
「エッフェル塔前の記念写真」を
「自身のSNSに投稿した」事で炎上した。
はっきり言って意味が分からない。

先に言っておくと、私は消極的ではあるが自民党支持者だ。
だからと言って、「自民党議員だから」との理由で「問題無し」と言いたい訳じゃない。
立憲民主党だろうが社民党だろうが共産党だろうが、同じ事をした所で文句を言う気は更々無い。

無論、「議員としての活動が全く無い」、もしくは「形式だけ揃えて実質観光旅行を議員活動と称していた」、など「研修旅行」名目に大きな疑義が上がっているんなら話は別だが。

しかし現状、この騒動に際して当該自民党議員の研修活動の内容自体を取り上げて、「実体が無かった」とまでの報道は今のところ無い。
じゃあ、何に怒っているのか?

要は
「国会議員が海外で楽しそうに写真を撮ってる姿が気に入らない」
と言う話になる。
「そもそも自民党が気に入らない」
と言う層も積極的に燃やそうとするだろう。
で、燃えてどうなるのか?
「当該議員が謝罪し、SNSから投稿写真を削除しました」となって、これで誰にとって何の得を得られたのか?

国会議員に厳しい風潮は、国会議員の質を下げるだけ

国会議員は公人であり、その言動はチェックされて然るべきだが、「厳しくすればするほど良い」なんて単純な話じゃない。

国会議員になるメリット、デメリットを比較する際、「言動を厳しくチェックされるようになる」は当然デメリット側だ。
最近の日本では、公的存在に対して圧倒的な強度で”無謬”を求める空気が蔓延している。

無謬(むびゅう)とは?
あやまりが無いこと。間違っていないこと。
※「謬(びゅう)」は「あやまり・間違い」を表す漢字

無謬性(むびゅうせい)」は政治や行政、組織論を論じる際によく出て来るワードなので、覚えておくとニュースや時事問題の理解が捗る。
「行政の無謬性」「官僚組織の無謬性」は政治改革の議論で頻出するテーマ。

時間泥棒・作

”無謬”への過度な期待は国益を損なう

あらゆる組織において、誤りが全く無い事、つまり”無謬”である事は望ましいが、「無謬であれ」と強く要求すると組織は必ず無能化に傾く。
何故か?

もし貴方が何らかの業務に就いていて、「誤りを完全に無くせ」と言われた時、どんな風に振舞うだろうか?
今までに批判されずに済んだ事だけは安全に出来るが、新たな判断が必要になると手が止まるだろう。
自分では判断が付かないから上に判断を求める。
直接の上司でも判断が付かないなら更にその上司へ伺いを立てるだろう。
民間ならそのまま社長まで決裁書が上がって行くだろうし、社長でも判断が付かない話ならその分野を所管する公官庁、公的機関に問い合わせ、判断を委ねる事になる。
公的機関内でも新たな判断が必要な話では、何処の部署が窓口となるのかで揉める事になるだろう。
つまり、過去にやった事しかやろうとしない「先例主義」と、責任の所在を他所へ移す「たらい回し」が始まるのだ。
行政組織や風通しの悪い硬直化した大企業で発生しがちな「先例主義」と「たらい回し」は、組織に対する”無謬”の圧力による当然の帰結だ。
つまり、お役所に対する国民、大企業に対する顧客が組織に対して「一つもミスをしてくれるな」と求める程に、「先例主義」も「たらい回し」も強化されて行く事になる。

「先例主義」と「たらい回し」ばかりの組織を見た時、貴方はどう思うか?多くの人は
「なんて愚かなんだろう」
「もう少しやりようがあるのではないか?」
と組織に対して不満や疑問を感じるだろう。
だが、上述したように「先例主義」と「たらい回し」の根源は、組織に対する”無謬”への期待であり、圧力だ。
多くの人が組織の有り様に不満を抱き、その声が現場に届いたなら、批判を受けたくないが為、更に組織内で”無謬”を求め、今まで以上に組織は硬直化する。
”無謬”から始まる無能化の無限ループだ。

何時の頃からか、日本人は行政組織に対して非常に厳しくなった。
古くから行政組織は「お上(おかみ)」と呼ばれ、時にうとまれながらもそれなりに尊敬の対象であった。
現代は国民全体の学歴が上がった為なのか、かつて尊敬の対象だったものへの敬意が次々失われて行ってるように感じる。
行政組織しかり、教師しかり。

メディアの扇動するまま、行政組織のミスの報道がある度、
「またミスしたのか」
「何時になったらミスがなくなるのか」
との世間の空気が強まる。
だが、ミスをしない人間なんていない。
人間の集まりである組織もまたミスをゼロになど出来ない。

  • 極力ミスを減らすよう心掛ける。

  • その上で、ミスが発覚した際には速やかに被害を最小化すべく善後策を講じる。

これしか無いのだ。

どんな組織であろうが、ミスがゼロになる事は無い」と言う大前提は、改めて広く国民が共有すべきだ。
ミスに際して必要以上にあげつらったり、非難しない心構えが必要だ。
行政組織や企業が硬直化し、無能化すれば、それは国益を損ねているのと同じだ。当事者だけの問題じゃないのに、ここが全く理解されていない。

※マイナンバーカードの話も正にこれに当たるが、これに関してはまた別の機会に。

”無謬”の圧力は国会議員へも

別に私は国会議員の関係者でも何でもない。
なので、彼らの肩を持って特別な利益を得られる立場ではない。
だが、国会議員に対して過剰な”無謬”を求める行為は、国会議員のなり手を減らし、結局それは国会議員の質を低下させてしまう。
国会議員の質の低下は国益を損なう。
その点で、日本人である私も損害を被る事になる為、過剰な”無謬”は止めるべきだとの立場を取る。

国会議員が外国で記念写真を撮った。
国会議員へ普段から不満を抱いてる層、特定の政党が嫌いな層がそれを見掛けてイライラする。それは自由。
イライラのはけ口として、SNSで批判する。侮辱罪に当たらず、名誉感情を傷付けない範疇ならそれも自由。
だが、炎上事件として報道の俎上に上げる程の話か?の観点では大いに疑問を抱く。

先述したように、研修内容が不適当だったり、実質的な中身が無いとの話でもない限り、報道すべき公益性を持たないと思う。

この報道の論評として、
「党の活動としてなら党費が使われてる。
党費には政党助成金と言う公金、つまり原資は税金が入っているのだから」
と言う理屈で、当然の権利であるかのように批判してる人が少なからずいるようだ。
「議員としての活動の最中には、笑顔の記念写真が相応しくない」と言う事になるが、「何処のディストピアだよ」とツッコミせざるを得ない。
公人相手に要求する”無謬”の水準が上がり過ぎた環境に慣れ過ぎ、自分達が国会議員にどんな行動を取らせようとしているのか、冷静に考えられていないのではないか?

また、議員の家族も同伴した事を批判ポイントとすべく追加報道がなされているが、飛行機のチケット代が私費なら目くじら立てるほどの話とは思えない。
政治アナリスト伊藤惇夫氏が「民間企業の研修旅行ならあり得ない」と語ってるが、研修内容次第、企業次第な話じゃないかと思う。
「民間企業の研修旅行」だと、その始まりから終わりまで「同僚達と時間を過ごす事」が前提になってるものもそりゃあるだろう。
だが、時間的余裕があって空いた時間に個人行動を許すような場合なら、家族や友人と研修先近辺で落ち合って楽しむ事も否定されないだろう。
それを許すかどうかは企業の判断だ。
「民間企業の研修旅行なら絶対あり得ない」との前提で語る伊藤氏の話の方が有り得ない。
そもそも、性質の異なる「研修旅行」の話を持って来て、聞き手、読み手に「今回の国会議員の行動は”民間”ではありえないものだ」と刷り込もうとするのは、ミスリードを誘うただの印象操作だ。

公僕である前に、人間

多くの人は、自分が批判する勢力に対し、自分と全く相容れない存在、自分がその位置に立たない事を前提としてしまう。
だが、それでは批判によって生産的な何かを生み出す事は出来ない。
批判の為の批判に流れやすくなり、より強い言葉で非難し合う地獄の大喜利が始まるだけだ。

仮に、自分がフランスへ研修旅行に行った場合を想像してみたら良い。

研修の合間にエッフェル塔に訪れる機会がある。
研修の記念にエッフェル塔前で研修を共にした皆で記念写真を撮る。
SNSでその写真をアップする。
世間から「ふざけるな!」と罵詈雑言を浴びせかけられる。

地獄過ぎる。
これを当然視する国民の存在が恐ろしい。
「批判する権利」として「公金」の事を言い出すなら、国から議員報酬を貰っているとの理由で議員の全ての時間を検証し、あげつらう事も可能になるが、今現在声高に批判している界隈は実際、それをしたがっているように映る。
本当に国会議員のなり手を減らそうとしてるようにしか見えない。

国会議員は国民の代表だ。
国民の代表としての仕事を遂行するのが役割で、その仕事に資するとして研修旅行に行ったのだ。
そして、相手国の現状を知り、相手国議員たちと交流した。
この研修旅行中、ずっと険しい顔をしていれば満足なのか?
もしそうなら、判断基準が狂ってるとしか思えない。

過剰な公務員批判も同じ病根

不景気の続く環境では、相対的に公務員の給料は高くなる。
民間企業の給与水準を反映して、公務員給与が決められるからだ。
感情的には、民間企業で働く人が公務員の待遇を羨ましがることは分からないでもない。
だが、羨ましいを越えて「公務員は給料を下げろ」と言い出すのは完全に間違ってる。

不景気に際して大企業は給与水準の目安として公務員給与を見ているからだ。
不景気の環境では何処の企業も人件費を圧縮したがるものだが、だからと言ってむやみやたらと人件費削減する訳には行かない。
大企業は「公務員給与でこのくらいだから」と自社の給与を決めているのだ。
不景気にあえぐ中小零細企業もまた、大企業の給与水準を横目に当然それより低く給与水準を設定する。

つまり、「民間が苦しんでるんだから公務員給与も下げろ」は回り回って自分達の首を絞めている。
それが実現すれば、全国民の給与水準の低下を加速させてしまうからだ。

労働環境についても同じことが言える。
公務員であると言うだけで、外回りの職員が勤務時間中コンビニで飲料を買っただけで苦情を入れる行為が全国で起こってる。
一時流行った透明なジュースも、普通にジュースを飲んでると苦情が入る職種の人にも一定の需要がある為、と言う。
公務員の労働環境悪化は回り回って全国民的な労働環境の悪化を招きかねないのに、その懸念が大きく語られることは非常に少ない。
(一応、外回り職員の飲食に関しては批判する側の要求レベルがおかしいのでは?との視点から報道されるようになったが)

基本的にメディアも公務員叩きを好んで行う。
喜ぶ国民がいるからメディアも叩く側に回りやすいのか、メディアが散々叩いて来たから国民がその論調に乗りやすくなったのか。
どっちも影響として有り得そうだが、とにかく年がら年中叩きまくっている。

他者への批判、悪口と言うのは、確かに一時の溜飲を下げるものではある。
だが、誰に対してでもマイナスな言葉を発したり、イメージする事は、脳機能的には自身の不安、ストレスを高めてしまう。
脳には論理性を思考する能力があるが、脳自身にはその言葉のイメージだけが残ってしまう。

ひとつ例を挙げよう。
貴方の隣の人が出番を前に緊張している。
この時、貴方はどんな言葉をかけるだろうか?
貴方がもし「緊張しなくて良いんだよ」と言ってしまうタイプなら、その人はそれまで以上に緊張してしまう事になる。
論理的には「緊張するな」、「緊張の反対状態になれ」との意味は伝わるが、脳自体は否定形を正しく受け取れない。
「緊張するな」と言われる度、「本来、緊張するような場面なんだ」とのプレッシャーに苛まれる。
否定形の部分が抜けて「緊張」だけが脳に残るのだ。
結果として、「緊張するな」と伝えるのは、「緊張しろ」と言ってるのと全く変わらない。
本当に相手の緊張をほぐしてやりたいなら、「リラックスだよ」と優しく言ってあげるべきなのだ。
※一応言っておくけど、この知識は悪用しないでくださいね。どれだけ上手く隠したつもりでも、悪意ってものは露見するもんですし、「人を呪わば穴二つ」ですからね。

悪口にも同じような効果がある。
口にする度、その悪口自体の持つマイナスイメージを脳が受けてしまうのだ。
すると今度はその不安、ストレスを打ち消す為に、新たな批判、悪口を欲するようになる。
まるで麻薬のように罵詈雑言の世界にハマり、抜け出せなくなってしまう。

批判されて然るべき相手への正当な批判なら、脳機能的な問題があっても誰かがきちんと批判せねばならないが、妥当性の乏しい批判を繰り返して自分自身のストレスを増幅させるのは全く割に合わない。
それが特定のコミュニティで共有されればそのコミュニティを汚染するし、マスコミ報道されれば広く国民を汚染する。
過剰な公務員叩きは、社会的損失にしかならないのだ。

私の結論

もう、いい加減、国会議員も公務員も叩けるだけ叩こうとする風潮を断ち切るべきだ。
批判するのが容易で、滅多に反撃して来ない国会議員だからこそ、その批判の妥当性には注意する必要がある。
「メディアがこぞって報道しているから」

「みんなも目一杯叩いてるから」
も自分が叩いて良い理由にはならない。
デカい声を張り上げてる連中ほど、深くは考えてない。
そんな連中との間で一体感を求めたところで、自分の価値を落とすだけだ。

<了>

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?