映画「唄う六人の女」考察3:ラストの都市夜景のこと

ラストの都市夜景についてなんですけどね、なんで山の森から都市の夜景に映像が飛んだのか、物語も終わりなので解らないのですが、連想した話がありましてね、
島田荘司という人が御手洗潔という探偵のシリーズを書いていましてその「数字錠」という話。(「御手洗潔の挨拶」1989年初出)
主人公の御手洗は助手の石岡和己とこの話の登場人物の少年を伴って、もう無くなっちゃったマキシムド・パリという高級フランス料理店に行って、そのあと東京タワーの展望フロアに行くんです。
今現物がないんで文章は記憶に拠るのですが
石岡と少年は初めて展望フロアから東京夜景を見てその美しさに感激しまして、御手洗は
「僕はこの景色を見ると、ヘリコプターからみたジャングルを思い出すんだ」と言い出す。
石岡は(なるほど、同じくらい綺麗だろうな)と肯定的に受け止めるんですが御手洗は続けて
「その緑の絨毯の下では弱肉強食の世界が繰り広げられているんだ。弱いものは強いものに蹂躙され命を奪われている。
この夜景だって一緒さ。この暗闇の中から泣いて助けを求める声が聞こえてこないのは僕らの想像力が貧困だからにすぎない」
てな感じに続いておりまして。
しかしその後御手洗は時間が経って別の作品で、助けを求めてくる人全てを救うことはできないと探偵業から学術の世界に移り、ときどきに気晴らし程度にしか謎解きをしなくなるんですが、そこはまぁ仕方がない。
なのでこの映画で森から都会の夜景に映像が切り替わったのも、
単純に「森を/自然を守れ」という単純なテーマではないのかもしれません。
「森を守れ」の〝森〟の部分に〝都会を/街を〟を入れるとどうなるか。
「街を守れ」というスローガンを掲げたとしたら、〝街〟とは何か、〝守れ〟とはどういう状況か。
核廃棄物処理場の是非は確かに難しい問題でしょうが、リアル社会で全て無くせばいいかというと単純には言えないわけですよ、電気代高騰にお財布事情が厳しい人とか火力発電所を稼働させる重油の運搬とか戦争リスクとかいろいろ。
しかしそれを言いだしたら某sns の中のように罵詈雑言の飛び交う収拾のつかない状態になるでしょうね。
まぁそんなことではなく、森を守ることが都会の安寧を保つことだという単純な図式なのかもしれません、それは今後監督がどこかに書くかもしれませんね。

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