映画「唄う六人の女」考察その1

映画「唄う六人の女」を見に行ったんですけどね、私も映画の情報を初めて見たときは「バミリオン・プレジャー・ナイトの唄う六人の女か!」と、バミリオン・プレジャー・ナイトの流れで嬉しく思いました。
んで映画が始まって題字がでたときに「〝見えない恋〟のオーケストレーション!」とワクテカしましてね、で物語が始まって…
うぉお六人の女たち綺麗だ!とか水中のダンスシーンは圧巻だ!とか見てたんですけど…
面白いかつまらないかを言えば面白かったんですけどね、テーマとか山田孝之氏の演技とかで(うーむ)となりまして、面白かったんですけど、見終わったときには感想が浮かばなかったんですよ、圧倒されて。

帰ってからネットで評価を見たら、だいたい私と同じなんです、バミ好きだの女優さん綺麗だの服が綺麗だの山田孝之氏すげぇが多いんですが、

フジテレビのドラマ「放送禁止」とか、YouTubeの「フェイクドキュメンタリーQ」とか映画「N号棟」とか考察系の怪談奇談に影響を受けた私としましては、この映画「唄う六人の女」って、映像や俳優陣の素晴らしさもさることながら、脚本が周到に練られてないか?
これ上記の「放送禁止」とか「フェイクドキュメンタリーQ」とか映画「N号棟」で増えた考察厨を挑発して引き込まないと、興行成績とか映画の評価が残念なことに終わらないか?と心配になってきました。
石橋義正監督に「大きなお世話だ」と言われたら「すいません」と謝るしかできませんけどね、ストーリーの絡繰りを解いていかないのはもったいないと思うのですよ、
なので当たっているのか外れているのかは保証できませんが、私の考察を書いていきます。
あ、あらすじは公式サイトで読んでください、
そしてここでは、おもいっきりネタバレします。

まず、山田孝之氏演じる宇和島凌が酷いのは確かにそうなんですが、ある意味竹野内豊氏演じる萱島森一郎も酷いですよ。
武田玲奈さん演じる咲洲かすみはマネージャー兼恋人は萱島の仕事の現実を担当しています。
仕事の依頼を受けたら依頼人と打ち合わせの日程を決めないといけない、スタジオなり撮影場所に許可が必要だったら日にちを決めないといけない、スタッフを雇わないといけなければいけなければ()と、現実とはそういう部分です、お父さんが亡くなったのなら仕方がない、その日のキャンセルは仕方がないですが、日帰りすると言ったのならもうそれで日程を組むんです、そういう話を萱島は一切聞かないし、父親の家での電話シーンでも、知らなかった部屋を見つけた=そちらに気を取られたら話を打ち切る、そういう性格です。
一般的にこの萱島の言動はアーティスト気質として見過ごされる、許容されがちだと思うのですが、現実担当者の気苦労あってこそですよ、
その萱島が、相手の話を聞かない萱島が、何も話さない女たち(といってもやりとりは基本的に二人だけ、水川あさみさん演じる「刺す女」と桃果さん演じる「見つめる女」だけですが)と対面することで、自分の思ったことだけを言うだけです。
女たちは何も言いません、実は「森を守って欲しい」とも言いませんし、「見つめる女」は「助けて」とも言いません、物語は萱島が勝手に考え、勝手に納得し、勝手に行動することに終始しています。
で現実界に戻って咲洲かすみと会って、やっぱり咲洲かすみの話を聞かない、咲洲かすみが望むことも聞かないで自分の思いの丈を語って自分で決めた行動を取ります。
物語的に全く成長してないんです。

一方で、もう一人の主人公(と言い切ります)宇和島凌。
私が映画を見て引っかかったのは宇和島が萱島の父親を「統合失調症」と言ったことなんです。
言ってすぐにヤバいと思ったんでしょう、「村の人たちがそう言ってたから」と言い訳をしましたが、宇和島も萱島の父親と何度も交渉しているわけで、そのときの印象ではなく村人の噂話を言うとは思えなくて(私の想像ですが)、萱島の父親評、白川和子さん演じる草刈り機を借りていった杉田、そして幼少期萱島が出て行ったシーンの父親の無声姿をみて「統合失調症」は文字通りのことで、
成人男性として他人とコミュニケーションを取ることに非常に難があることでお母さんが限界になって出て行ったんだな、と思いました。
しかし物語が進むにつれ父親の幼少期萱島に対しての言動ははっきりしているし、態度姿勢もぶれない、映画が終わって「変人」とか「山に魅入られた」ではなく「統合失調症」ってどこで思ったんだ?と気になったんですけどね、(たぶんですが、監督はもっと直接の言葉を使いたかったんだろうけどこのご時世それは無理で「統合失調症」という語の採用になったんだろうなと想像)

この物語って裏設定があるんじゃないでしょうか、

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