何の用?:トイレには行かないほうがいいんじゃないかな、という話の原稿


 この話は今までの「トイレには行かない方がいいんじゃないか」の話の中でも毛色がちょっと違うような気がするんですが、話を持って来た人が「トイレには行かない方がいいのかなあ」って悩んでる話なので、まぁ聞いてください。

 話を持ってきたA君。
 ちょっとした事情があって、大きい駅から二時間四十分、バスに乗って山奥に行くことになりました。目的地は、まぁダムを思い浮かべてください。
 その駅まで何時間もかけて行きまして、バスに乗って三時間弱、いよいよ山奥の目的地に辿り着きました。
 A君、旅慣れているんでいつものごとく、バスから降りたら帰りのバスの時間を確認ましたら、戻りのバス、通り道が豪雨で落石があって通行止めになっていて、運行中止って書いてあるんです。
 山道を通るバスって、通行がAルートBルート二種類あるのがあって、今A君が乗ってきたバスはAルート、帰りのバスはBルートを通るんです。まぁAルートは学校の前を通る、Bルートは病院の前を通るとか思い浮かべてください、運行中止になったBルートの停車場を必要としている人はどうしたらいいかはA君も知ったこっちゃありませんが、朝八時四十分発のバスが無いのは非常に問題で、次のバスは十時二十分発Aルートなんですが、それに乗ったらその先間に合わないんです。じゃその前のバスはどうかというと、六時半発Aルートなんですね。
 まぁ仕方がない、六時半発のバスに乗らないといけないというなら六時半のバスに乗りましょう、ただ問題は、宿の予約をとったときに朝食有りで頼んじゃいまして、朝食は七時半から九時半までに食べてくださいって書いてあったんですよ。
 とうていその時間に間に合うもんじゃありませんから、仕方がない、宿の人に事情を話して朝食はキャンセルしようと。自分のせいじゃないけど前の日にキャンセルって、宿の人ももう準備してるでしょうから朝食代はそのまま払わないとダメだろうなと思っていたら、宿の人は
「じゃ五時半に出しましょう」。
 いや、ありがたいんですけどね、出してくれるというのならおむすびにしてくれて、外で食べられるようにしてくれると嬉しいんですけど、朝の五時半に食事の用意をしてくれるならば、宿の人はたとえば四時半に起きて準備しないといけない、朝の四時半に起きて出来上がりがおむすびよりも、朝食をきっちり作る方が、そりゃ作り甲斐はあるだろうなと思ってしまったもんで、それでお願いしますと言っちゃったんです。
 で宿に荷物を置いて、用事を済ませて、ぶらっとダムとか湖を見物して宿に戻り、お風呂に入って晩ご飯を食べていたら、玄関でなんだか問答は始まった。
 聞くとはなしに話に聞いていると、突然の事情で今晩泊めてくれないかという人がやって来たようで、宿の人も「泊めるだけなら…食事の準備はできませんが…」みたいなことを言っている。じゃそれでって話がまとまったようで、何人かが通路を通って向こうに行くのが見えた。
 大変だなぁと他人事に聞いてまして、その日はそれで寝まして。

 翌朝五時半に食事をとらないといけないんで目覚ましをセットしたのは四時四十五分で、荷物をまとめて、何度も忘れ物がないか確認をしまして、五時半に食堂に行ったらもう全部用意されている。
 もぐもぐと食べ始めまして、もうすぐ食べ終わる、六時を回るってときに、
「あの、すいません」と声をかけられた。
 振り返ってみると高校生くらいの女の子で、なんでしょうと返事をしたら、ちょっと深刻な顔をして
「すいません、ちょっとお話しをしてもよろしいですか?」と言ってくる。
 いやお話しをしてもよろしいでしょうかと言われても、六時半のバスに乗るためには六時二十分には宿を出ないといけなくて、トイレに行ったり忘れ物の確認をしないといけないとかで、かなり時間がぎりぎりなんですね、でこれが一番重要というかA君ひどいというか、女の子、体格がちょっとがっしり系で、顔もくっきり系で、眉毛がふとく顎もちょっと個性があって、綺麗か綺麗でないかと言えば「綺麗ではないってことはない」って感じで、A君がその日の予定も、大げさに言えば自分の今後も投げ捨ててでもお知り合いになりたいっていう感じの人ではないんですね、
 そういうことが全部一瞬で頭をよぎり、
「すいません、六時半のバスに乗らないといけなくて、時間がなくて」って断って、食器をまとめて厨房に「ごちそうさまでした」って声をかけて、女の子を置いて部屋に戻っちゃった。
 部屋の中を三回確認して、荷物を持ってトイレに行きまして用を足しまして、まぁまたバスに二時間以上乗りますし、バスの中でトイレに行きたくなっても降りるわけにはいきませんからね、仕方がないっちゃぁ仕方がないんですが、女の子が何か言いたそうな顔をしているのを頭を下げて通り過ぎて、宿の人におカネを払いましてね、走ってバス停に行って、ぴったり乗ることができまして。
 で、ですね、バスに乗って落ち着いてくると、女の子に電話番号とかメールアドレスを書いて渡せばよかったかと気がつくんですよ。A君女の子一般とのあれこれに慣れてないもんで、その場では気がつけないんです。
 また昨晩の食事時にやってきた一団にあの女の子がいたら、車で来たんでしょうから、車に乗せてもらえれば話す時間もとれたかなと思ったりするんですが、さすがにそれはずうずうしいかなと思い直したり。
 その後A君は予定を全部こなして家に帰ったんですけどね。
 そういえば、と後になって気がつくんです。
 女の子が話しかけてきたとき、女の子から匂いがしていた。
 不快な匂いじゃないんですけど、特に良い匂いでもなかった、時間が経つまで気がつかなかったのは、とても控えめな匂いで、ふと思い出す奥ゆかしさというか、A君香水にもお香にも、香りの文化には全然接点がないんで説明が非常に難しいんですけど、考えて考えて一番ぴったりな説明が、「椎茸の匂い」だって言うんです。椎茸って嫌いな人は味も香りも嫌いですけど、好きな人って控えめで出しゃばらない、焼いて食べても美味しいし出汁をとっても主役を引き立てる、そんな感じがする匂いだってたどりついたんです。

 ここまでの話は、「ふーん、縁がなかったんだねぇ、なんか惜しかったねぇ」って話で、旅行の一シーンなんですけど、A君、家に帰って以来、家でも外でも、トイレに入ると、音が聞こえてくるようになったって言うんですよ。
「え?匂いじゃなく?」って私も驚いたんですけど、
「聞こえてくるのは電話の呼び出し音で、大きい音じゃないんです、かといって小さいかすかな音ってわけでもない、控えめな音なんです。
 音の大きさが緊急とか重要とかを表すわけじゃありませんが、なんとなく出られなくても仕方がないなって弱々しさがあって、トイレから出たら聞こえなくなるんです。
 私は友達とか同僚と一緒にトイレに行く趣味はないんで、誰かに確認してもらうのはできないんですよ、まさかたまたまトイレで一緒になった人に、すいません電話の音聞こえませんかって聞くわけにもいかなくて。本当に電話の音が鳴っているのか、私の頭の中だけに聞こえているのか、実は電話の音なんてしていない錯覚なのか、全く解らないんです」
 A君は私に話を聞いてもらえたらそれでいいと思っていたようなんですが、私は私で、ちょっと全く別件で、現実には鳴ってない音が聞こえてるように感じるって、脳の病気の一種なんじゃないかって経験しているんで他人事に思えなくて、
「じゃあ一緒にトレイに行ってみますか」って誘ってみたんです。
 A君ちょっと考えまして、これもいい機会だと思ったんでしょう、了承してくれまして、二人で歩いてA君がトイレに行きたくなるまで時間を潰しまして、いよいよ二人でトイレに行ったんですよ。
 他に誰もいなくて、A君が用を足している後ろで私がぼうっとしていましたが、確かに音は聞こえてきました。
「どうですか?聞こえましたか?」とA君が聞いてきまして、うん、私も嘘は言えない、
「聞こえてきましたけどね、電話の音じゃありませんでした。キャリア音が聞こえてきました」。
「キャリア音?なんです?それ」
 若いA君はキャリア音を知らないようで、説明しても解るかどうか。
「昔、インターネットが出現する前、草の根BBSってのが流行ったんですけどね、そのときの電話線と繋げるモデムって、音が出ていたんですよ。ピーギャラギャラ、ピーっていう音なんですけど、それが聞こえました」
 A君、納得したんだかしてないんだか、難しい顔になりました。
 この音はたまたましていたのか、A君に聞こえている音と関係がなるのか、なんにも解りません。

 A君別れ際、
「電話には出てあげられないんですから、トイレには行かない方がいいのかなって思うようになってきましたよ」
 と言っていました。

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