脳味噌破裂するような(11)

 あのとき、彼が言っていた、公平なコインの理不尽どうこうといった話は矢張り間違っているのだろう。
 それにしても、有限的資源とか、燃料とか熱機関がどうとか……、そんなこと、何を言ってどうなるんだろう?

 笑みが、浮かぶ。

 どこまでも歩いてゆこうとしているかのような彼、あの男に追いつくことが出来そうだった。
 しかしながら、まだ足りない……、歩みが足りないのだ。
 より歩こうとしてゆく。
 メイドさんの彼女が手を振っている、歩みよりも早くするようにして。
 大きなリボンの付いたエプロンをして、ドレスみたいなメイド服、それのスカートを膨らませるようにして、進んでいる。
 クッキーを作ったとか、作らないとか、騒いでいたこともあった。ずっと、みんなでやっていた……。
 テロリストのアジトで、そんなことをしていたのだった。

 段々、距離が詰められてゆく。彼はただ歩いているだけで追いつけるものだったのかも知れない。
 たとえ、彼に近づこうと足掻き、もがくようにしなくたとしても、近づけるものだったのかも知れない。
 しかしながら、粘性的な空間を僕は潜り抜けてきたのだという気がする。
 暗い中、歩いているような気分に……。

――段々、あいつが朧気に霞んでゆくようだ
 そう思えるのは何故なのだろう? 実体の無い距離……、それがあいつと僕の間にあるようなのだった。
 ざっと、その距離を冒す度に、彼はそれを意に留めないかのような歩行でその距離を保とうとする。ざっ、と歩き出してみる。何かが飛んでくる気配がする……、しかし、それは錯覚だ、何故だろう、彼から何か流れのようなものが溢れ出すようなのは。それは白い刃となって僕の方へと飛んでくるようだ。そうして、それは僕を掠めてゆく。目を閉じてはならない、何故かそう思う。彼の姿を見失わないように。
 どこまでも、どこまでも遠くなり、逃げようとしているかのようだ、彼は……。
 どうして、彼は何もしないのだろう? いいや、彼はしていたのだろうか、色々なことを。テロを起こす以外のこと……。別に彼に興味なんて無いけれども。ただ、彼が捕まったら、マスコミが詮索し出すに違いない。犯罪者足る彼の生い立ちから性格、どんな境遇にあり、どんな学生生活を送り、社会生活を営んできたのか、すべて透明にし、そうして編集し加工してパッケージングし、電波に乗せて世間に流し出すに違いない。
 テロリストはテロリストとして、お決まりの言葉で語られることになる。彼の人生はウィキペディアにおいて数キロバイトの文字列で書き出されることになる、実質的には三十分の尺もない動画として、それが何倍にも希釈されてテレビ放映されることになり、雑誌に特集記事分だけ掲載されることになる。……文字列や動画データに変わり、あらゆる人が付けるデマや尾ひれがそれら情報にとって代わられることになる、だろう。
 彼や彼の経過してきた人生というものがそういったものに代わられるものなのか、そういった媒介に圧縮され切られるものなのか、それは知らない。
 けど……。
 それに、彼に積極的に加担していたテロリストの”同志”達もまた、詮索され続け、責められ続けることになるのだろう。
 あらゆる人が彼らを嘲笑し、そうして話題にするだろう。

 しかしながら、もしそういったことが起こったのなら、大麻を吸っていた人や、好き勝手振舞っていた人や、奴隷を作っていた人、横暴を振るっていた人達はどうなるだろうか、それからまた腐敗の進んだ政権は……。彼らはただ“責める人”なのだろうか?
 一体、どうして互いに争い合っていた人達が和解出来るだろうか? 共通の敵を失った今となっては、彼らは互いに敵対感情を抱くしかない、そういうことが起こるのではなかろうか?
 そういうことを見越して、彼はアジトにいたのではないかと、……そういう気がするのだ。

 僕の日常も、崩れていた日常もやがては見慣れた日常に復帰することになるのだろう。
 そこにはテレビがあり、人がいて、きっと新しい友達もいるのに違いない。
 若しかしたら、いつも一緒に居てくれたメイドさんもいるかも知れない。しかし、彼女はどうするだろう……?
 彼女は……。

――つと、視線を遣るも、彼女は意に介さないように進んでいる、それだけだった
 そうだ、彼女がいるとは限らない。それに……、どうして一緒にいるだなんて思ったのだろう。
 メイドさんは解放され遠くにゆくかも知れない。
 いいや、しばらくはアジトに留まるのだろう、そうだろう、何故ならテロリストがいなくなった世界というのはちっとも安全ではないからだ、彼女らにとっては。
 ただ、歩いている。
 僕はただ進んでいる。
――それが出来る
 進み、進めばいつかは切ることの出来る場にまでゆける。あるいは既にそういった、……近くにまで寄っているのかも知れない。しかしながら、手を伸ばそうとは思えない。
  どこまでの距離があるのか、それは一体、どれだけ歩けば届く距離なのか、それを把握しあぐている、……そういった歩行を続けている。
 喘息のせいで、息が苦しい。
 ……こんな風になったのも、あいつのせいだ。ずっとあいつが虐待された人間を見せてきたり、殺してきたりしたからだ。僕にストレスをかけ続けてきたからだ。
 あらゆる人が、彼の死刑を望むだろう、彼が一時、マスコミのスターになるのを……、そうして、また彼が裏のルートを通じて金を流しある種の均衡を維持することを望んでいるのに違いない、彼が暴れ腐敗した政権から汚い金を、それにまた”権力”を強奪して撒き散らすのを見たがっているのに違いない。
 あらゆる利権や欲望、それが彼に収束してゆくようなのだった。

 テロリストに家族を殺された者達は、彼が殺されるのを心待ちにしているのに違いない。
 だがテロリストを支持し続ける人もいるのに違いない……。死刑にならなかった犯罪者達を優先的に”同志”達は殺そうとしていたのだから。自分の利得を守りたいという人もいるだろう。
 一部では支持を受け、それから反発されてもいるテロリスト、ヘイトを集め、熱狂を生み出してもいる彼……、それを殺す。
――躊躇もなく、人を殺した彼だから
 誰もきっと同情はしない。

 知らない内に、僕と彼との距離は随分狭くなっていた。それなのに、どうしてだろう、笑ってしまうぐらいには、彼と仲良くなりたいなんて思わないのだ。同情なんてしないのだ。
 彼との距離は開き出しているようなのだ。随分と、空間的距離は縮まったのだ、そのようなのだ、けれども。

――流れが強くなっていた

 彼から発せられる流れのようなものが強くなりゆく、……近付く度に。何故? どうして? これは、一体……。
 しかしながら進んでゆく、流されるのが嫌だから? いいや、立ち止まるのが嫌だから?
 どうしてそうなんだろう? 立ち止まるのが嫌だなんてどうして? 傍らのメイドさんは歩みを止めたらどうするだろう?
 ストレスか、息が、漏れる、それから吐いて、吐いて、……吸えるまでには時間がかかる。それは時間の経過の一つの基準を与える筈なのに、どこか時間の流れを乱すようでもある、一時的に乱れを作り出すようでも。
 それでも彼は進んでゆく。
――逆に、どうだろう? 彼がこの流れに抗っているのだとしてみたら
 仮面の男は、息を切らしたような呻き声をあげた。敵は近付いてくるのを嫌がっている。怖がっている。
 ……そうなのだ、ではないか?

 僕が彼を殺すとしたなら、そのとき、何が起こるのだろう?
 彼が誰かを殺すときに、何が起きていたと、言うのか。

 明確に、痛みを感じた。流れが強く成り過ぎて、景色が霞んでゆく。何故だろう、何なのだ、これは……。ただ彼は流れを突っ切るように進んでゆく。僕は流されるように流れに逆らい進み、彼に手を掛けるところまで来ている。
 あの首に刺さったナイフ、それによって彼は殺されるのだ。包丁を凶器にした犯行、日常の世界で度々起こっていたようなそれらのように。……ドラマの中でよく見掛けたように、ニュースで鋭利な刃物でと報道されていたように、ありがちな、殺され方を彼はするのだろう。
――まったく、明確に、どこかで見たような、ドラマや映画のワンシーンを再現するみたいにして
 その脈動を断つのだ。

 殺されるまでの間、彼は何を喋るだろう? 何を話すというのか? あのいつも僕に話し続けていた、偉そうに物を言うななんてよく言われていた彼は……。
 一体、何を話すと言うのだろう?
 僕に、……殺されたなら。

 果たして、彼が僕を傍らに置き続けたのは一体、何故なのか?

 それは分からないにせよ、いつかは話してくれるのではないかとも思えるのだ。
 いつか訊いたときには銃口を突き付けたまま黙っていた彼なのだけれども。

 興奮することさえ無い。ただ距離がある。それを歩きながら詰めていって、最後には彼が断たれるところを見届ける。
 この手が真っ赤に濡れたところですぐに拭けると思いつつも、汚いのは嫌だなんて思う。そうだ、もっと汚れない仕方で、彼の銃を奪うとかして、脅して、色々なことを聞きながら、殺そう。
 あの首に刺さったナイフをそのまま押すとかでもいいのだけれども。
――それにしても、どうして誰もあいつを殺そうなんてしなかったのか……
 それはきっとそれによって利益を得てもいたからなのだろう。あいつを殺したら利益が減るからそういったことをしなかったのだろう。
――そして、あいつが死ねば、その利益をどこかで補填しようとし出すのに違いない……
 実際、町が崩壊して秩序が乱れて奴隷制とかが導入される場合もあって小さな独裁者が生まれなんてしていたけれども、そこで暴君として振舞っていたのは矢張りポスト-ジャイアンに収まっているような人達だったのだから。
 それなら、彼もまたそこまで期待を集めるなんてことはしなかったのだろう。