脳味噌破裂するような(17)

 鬼の顔が現われた。
――それはドアの隙間の影から、ぬっと出てくる
 そして無遠慮な歩き方で、こちらへ近付こうとしてくる。

 金の目玉は人工の光を照り返し、鮮やかな赤が地味な部屋に映えている。……白い牙は鋭く尖り、どこか凶器めいた輝きを宿してもいる。
 拳心が硬く固まり、結局、サンドバッグでも何でも殴っていたらしいことを窺わせ、若干前傾的な姿勢でいることがいつでも攻撃的な行動を取れることを示唆していると、その為にそんな状態でいるのだと思わせてもくる。
 黒い服が鬼の髪色と照応し、尚且つその面の色合いを際立たせているようにも思わせるのだ。
 この意味で、ほぼ単色のその服は、この部屋から浮き立つ為に、また赤色を目立たせる為に、それらの為だけに着られているようにも思わせる。
 無目的にも思われるような、テーブルの前あたりでの一時停止、それは詰まり、誰がそこにいるのかを告げさせていた。
 傲慢にも思える程、拳を腰に当て溜め息を吐くという、どこか腑抜けた態度を取るのであり、それとは裏腹な、片手に銃を握り、それをこちらに向けてくるという振舞いをしてもいる。
 それはまた黒く塗られているのだ。

 仮面の男がそこにいた。
――あの何度見たか分からない、口の動きが、また目の前で再演されようとしていた
 喋り始める一瞬前の、息が吸われる音が聞こえる。
――腰の裏から出した拳銃は、しかし彼の発射した弾丸によって吹き飛ばされてしまう
「フリーズ」
彼は言う。
 首を回しながら、傷を見せつけるようにしながら、こちらに銃を差し向けながら。
 縫合痕がいかにも痛々しい、紫や赤に変色し、腫れた肌を見せつけてくるのであり、一体どれだけ針を通されたのか分からない惨状を告げさせられている、……かのようだ。
 僕は一頻り、その傷痕を眺め、

「よし」
とだけ、呟いた。

 彼はこちらに銃を差し向けたまま、如何にも面倒臭そうな口調で言う。なるべく、こちらを刺激しないとしているかのように、欠伸を混じえたような、自分には敵意が無いのだとでも言いたげなようにして。
――まるで、自分の方が不利な立場に置かれているのだと言いたいかのようにして
 引き金に指をかけている。
「いつ掏ったんだ、拳銃なんて……、これだからと言うべきか、流石はと言うべきか、俺が一体、どれだけ痛い思いをしたと思っているんだ、お前のそれで
 これが、如何に、治すのに苦労したのか
 大体一発目はフェイクなんだ、本当の拳銃はこちらに、……ある」
そう言いながら、腰のホルダーからもう片方の手で銃を引き抜いて彼は見せてくる。
  先程のはゴムの弾丸であったと、こちらは正しく本物の、殺傷能力を持った兵器なんだと示すように、金属的な反射光で、こちらの目を切ろうとしてくる。
 ……目蓋を、閉じた。

「バンッ!」
彼は暴れたようになって何度もその言葉を大声で放つ。
 バンッ! バンッ! バンッ! そうしていれば殺すことが出来ると信じているみたいな、些か狂態じみた風体で、何度も何度も、拳銃を震えさせながらバンと言い続けているのだった。
 鬼の顔が言い続けている、バン、バン、バン、……バン、それはどこか悲しげに響くようでもあったのだ。
 俺の、ことを、殺そうと、……しやがって。
――金属の銃をこちらに向けながら
 何度、こういった光景を目にしただろう、何度撃たれそびれ、生き逃れてきたのか。
 何度、僕は拘束され、死ぬような思いをさせられてきたのか。
 何度、僕は、何度、……人が死ぬ様を見せつけられてきたのか。
 何度……。

 一度、歯を食い縛ると、彼は跳弾によって部屋を撃ち尽くそうとするように、ゴムの弾丸を放ちまくり、そうしてから、その恐らくは強化プラスチックと金属の合成物であろうそれを、……床へ放った。
 それが滑ってゆく。
――何発か、ゴムが僕の耳を掠めていた
 恐らく、狙ってやったのだろうと思われるようなそんな精度で……。
 当たらなかったのが不思議な程だった。

――条件反射的に身を固める僕を見ながら、彼は本物の拳銃を利き手に持とうとする
 硝煙が銃口から靡いていた。
 ……一度、それが暴発したようになっていたことに気付かされた。

 銃身は真っ直ぐ、僕に向けられている。
 何となく、その手に浮かぶ血管や筋や、先程と較べ多少下がっているらしい手の位置から力が込められているらしいことが分かり、その銃の重みを実感する。
 それはきっと、重いのだ。

 その背後には、開く隙間の見えるドアがあった。
 それに視線が合ってゆく。

「狂いそうだ」
その呟きは彼のもの。
 「は?」という返答は僕のもの。
 それは誰の台詞だろう? 彼に殺されたり、拷問されたりした側がそう言うのならまだ分かる。しかし、彼は一体、何を言っているのだろう?
 ヒトラーが言っただろうか、自分は狂いそうなんだ、と……。エルンスト・レームが聞いたら何と言ったろう、それは総統、正気なんですよ、と一体何を言ったかなんて分からないが、しかし、虐殺をした男が狂いそうなんだ、俺はおかしくなりそうなんだと、そんなことを言ったらおかしいじゃないか?
 どうして、そんな泣きごとめいたことが言えるだろう?
――そんなことが言えるだなんて思えるのか?

 彼は口を開く。
「ヤバかったよ」
「もう死んだつもりでいた」
その言葉を聞いて、彼は鼻を鳴らす。
「お前が抹殺してくれなくてありがたかったよ、まったく、あと一発至近距離で撃ち込まれていたら危うかった
 ……いつでも防弾ベストは着ておくものだね」
僕は、なるべく、かわいいと言われたときのことを思い出しながら、視線に力を込めつつ、彼を見た。
  そういった視線になど動じないとでも言うように彼が少し、前に出る。それを牽制するように僕は口を開いた。
「お前、死んでくれたんじゃなかったのか」
「どこの世界に自分から死にたがる奴がいるかよ、え? ありがたいことにあいつが殺してくれたんだなんて、誰かを指差して言う奴があるかよ
 殺してくれたって構わないんだぜ? お前が今銃を持っているってんなら」
すっと、腰に手を回し、
「バン」
と言った。

「おっと」
彼は肩をびくつかせる。
「自分がどれだけ殺人的なことをしたのか分かってるのか? 指鉄砲で脅す気か? やめてくれよ、銃で撃たれるのはもう勘弁だ
 あれから銃に対して随分おっかなびっくりになってね、ムネーメってやつだよ
 お前らの営為には随分感謝しないとな」
「あの、メイドさんは……?」
はっ、と彼は笑うようにして言う。
「もう殺してくれって言うまでいじめてやったよ、今頃は飢えた男の溜まった牢で餌食にされているさ
――簡単なことだ、うまいうまいって食われてるんだ、あの鬼畜どもに」
「……てめぇ」
テーブルを蹴り飛ばすと、それを彼は拳で叩き落とした。
「ふぅ、冴えてるな、今日は
 さっきのゴム弾だってまぐれ当たりだったんだ」
そうして、それを戻そうとする。

――こちらに銃を向けたまま
 無駄にテーブルの位置やそういったことを彼は気にするのだ。
 どんなときも。

 あのな、とそうしながら彼は口を開く。
「あのメイドさんは近衛兵なんだよ、お前の警護をやらせてるの」
「……、あの、意味が分からないんだけど」
「ふん」
彼は、椅子を引いてきて、随分離れたところに着席しようとする。

――勿論、銃をこちらに向けたままだ
 うんざりとするくらい、銃を向け続けているのだ。

「お前、急に大人しくなったな、これは詰まりあれか、俺の隙を窺おうという訳か
 会話をしながら」
「……そう」
とだけ答えておいた。

「待て、お前立て、それから、俺の言う通りに動け」
「嫌だ」
「銃を隠し持っていないかどうか調べさせろ」
順番が前後しているような気がするが、僕にとってそういったことは問題ではない。
 彼はこちらに近付こうとしてくる。
――随分、警戒しながら
 よし、動くな、なんて言いつつ。
 ……僕のことを何だと思っているんだろう? それはいつかテレビで見た、アマゾンの奥地で猛獣を手懐けようとする芸人の仕草にも似ていた。
 それを言わないでおいた。
 言ったらきっと彼は銃を撃つだろう。
「やめてよ」
と、僕は震えるような声を出す。

 そうしたまま、彼はこちらに近付いてくる。
――視線に力を込めたまま、僕は彼を見つめている
 ドアの位置を確認しながら。

 ……随分、彼は近付いてきた。

 僕の頭には、同性愛者的な振舞いを彼がしていたことが思い起こされていた。
 一体、彼が何度こちらをいやらしいような目で見ていたのか、一体、どういう仕草に目を奪われていたのか、それを思い出そうとする。
 萌えポーズと呼ばれるような姿態を思い出し、それを身体にインストールさせようとする。
 彼は一体、何を好んでいただろう?
 どういった属性が好きで、どういったフェチズムを持っていただろうか?

 そういったポーズに、近づけようとしてゆく、自分の体勢を。
――こちらに彼が手を伸ばそうとしてくる
 大人しくなったように、僕はしてみせる。

 彼の息が止まる。
――呼吸の乱れを把握する
 視線がどこに彷徨っているのかを掌握する。

 彼が、こちらに近付いてくる。
 銃の震えがおさまり始める。
――僕の方へ、萌えキャラ的なポージングをしようと意識する僕の方へ、と
 支配欲ってどれ程なのだろう、そんなことを思いながら。

 そうして、上着の服を、捲ってみせた。
 ふっ、と彼の息が吐かれる音が聞こえた。

――視線が肌に刺さるのを感じる
 それと、銃が蹴り飛ばされるのが同時だった。

 色欲、ってのは、扱い次第では便利なんだなぁ、と思うも、それを見越したように、彼は銃へと走り戻ろうとするのだった。
 一度、手に持った本を投げてみる。

――それが当たるかどうかは問題ではない

 床に手を伸ばそうとする彼の背を踏み台に、真っ先に、ドアに……。

 ドアを抜けて、脱走してゆくと、そこは真っ直ぐな通路だった。
 それを走り抜けてゆく。

 すぐに彼が追いかけてくるかと思いきや、そんなことはなかった。
 ……痛そうな呻き声が、その代わりと言ってはなんだが、聞こえた。 
 冴えていると言ってはいたが、実際のところ、かなりの程度身体にダメージを負っていたに違いない。
 きっと立ち上がれないのだろう。

「フリーズ」
ようやく、彼の言葉がこだましてくる。

 銃声も聞こえてくるし、壁が弾けるが、構わずに走り続ける。
 あぁ、もう、何で止まらないんだよ、と彼が言った気がした。

 そのまま、彼は走って追いかけてくるみたいだった。

――どうして、という言葉が思い浮かんだ
 どうして、僕なんだろう?

 他の人じゃ駄目だったのか?

 一際高く、銃声が響いた。