脳味噌破裂するような(18)

 彼が、追いかけてきた。

 速い、追いつかれるまでが、早い、……嘘のように。

 人間やめたスプリンターやっているような、……音が違う。

 どうして? こいつ、陸上でもやっていたんだろうか?

 全然、はやさが……。

 彼の、気配を感じた。
「だぁぁあかああらあああっ!」
反射的に振り返り、殴りにいっていた。
――その僕を、足を止めた彼は見ていた
 楽しいのか? そんな言葉が何故か頭の中を掠めていった。

「――っつぅか、生きてて楽しいのか? こいつ?」、

 「何の為にこんなことしてるんだろう?」、過去に聞いたフレーズ……。
 「どうせ楽しくなくて無意味な人生ならやめちゃえばいいのに」、そんなことを言いながら死んでいった、殺されていった”同志”の一人を思い出していた。
 渾身の気持ちを込めて放たれたらしい台詞に、銃撃と疑問によって彼は応えたのだった。
 それを聞いてしばらくした後、詰まり死体から血が大量に流れ去った、いや流れている中、分からない、いきなり何を言い出したんだろう、と彼は言っていたが……。
 あのとき、死んだ元“同志”は、勝ち誇ろうとでもしているように、尊大に、上から目線で、いっそ演技がかっているほど熱を込めて言ったのだった。

「――っつぅか、生きてて楽しいのか? こいつ?」

 振りかぶった先にいる影は、揺らごうともしない。
「はっはっはっはっ!」
そいつが笑う。
 そうして、こちらへと手を前に押し出してくる。それだけで、僕の身体は移動を止められてしまうのだった。
 加え、頭を掴もうと手を伸ばしてくる。
 うっぜぇ……。
 手を振り払うと、構えを取ろうと彼はした。
――どうせ、虚仮脅しに過ぎない
 僕の拳はしかし、両手に受け止められてしまう。一瞬動きを止めた彼から、身を退くと、捌くような動作を彼が空振らせているのが目に入った。
――躊躇
 あのまま受け止めるだけでなく、何らかの技を仕掛けることも彼は出来たのだろう。それが成功しなかった、……それは、詰まり。
――僕には技を掛けたくなかったということなのだろう
 そんなこと、されたくもないのだけれども。

 息を整えようとでもするように、彼は大きく息を吐いた。
 そうして、カカ、と笑いながら、息をつっかえさせながら、口を開こうとするのだ。
 何度となく繰り返されたように。

 そのまま、鬼は言葉を話し出す。
「昔々、人を殺しちゃいけないと大人達は言っていなかったか? しかし、ある意味彼らはもっとひどいことをしていただろう?」
息を吸って、吐いて、どこか滑稽さを帯びさせながら。
 あるいはそれはわざと、か……?
「殺してもいいんだと、そうやって人を軽んじてもいいんだということを彼らは態度で、言葉で教えてくれなかっただろうか?
 一体、そんなこと、どうだっていいことなのだろうけれどもね」
「聞きたくない」
「俺の言うことが聞けないか? こんな台詞言いたくもないが」「ふん」「人を殺してもいいんだということを俺は教わったつもりだったがね
 いざ、殺されるときになってみると他人を軽んじていた者程我が身可愛さに命乞いをしたり、身代わりを差し出そうとしたりするものだよ……
――自分の命の価値なんてあいつらは教わったことがないらしいな、偉そうに人を見下してばかりいると、無碍にされることになる
 しかし、どうしてそうされないなんて思えるんだろうね?
 何でだろう? 身に着けた価値みたいなものが重みを持っているのかな?
 ブランド、ステータス、学歴、年収、抱いた女の数、家柄資産容姿友達の多さ質の高さ云々、他に誰がいたものか……」
僕は話なんて聞きたくなかった。
 彼が咳き込む、わざわざ、自分を痛めつけようとでもするかのように、長い、息で、喋ろうとしている。
 口が、わななきながらも、言葉を繰り出している。
「それらがすべて無に帰すんだ。すべて過去のものに変わってしまう。利用価値のある物はいただいてゆく、が、……彼らは素朴なまでに自らの価値、そういったブランドや何かを捨て去った後にも残る自己という人間の過大な価値を信じているみたいだった
 どうしてそこまで自己中心的になれるんだろう? 俺には理解出来なかった
 それでも、今は分かる気がする」
彼は笑う。
「お前がいるからだ。俺の命が散ることだってあり得るからだ。この銃を盗み――」
と、引き金に指をかけた彼が、それを回してみせた。
 こちらを真っ直ぐに見ながら……。
 その視線を僕に刺そうと言うように。
「お前がトリガーを引けば」
そこで、彼は唾を呑み込んだ。
 むすっ、という、言葉にも息の音にもならないような、気管から抜けるような音声が響く。
「お前がトリガーを引けば、お前がトリガーを引けば」
銃は回っていた。……暴発しないとも限らないのだが。
 それを彼は気にしないようにして、あるいはわざと無視するようにして、そうし続けている。
 あっ、と口を、開いた。
 お前がトリガーを引けば、というフレーズが空虚な音を伴ってこだました。
「すべてが終わってしまう。そういうとき、どうにかすると自分の命の価値が無駄に膨らむ、いいや、死なせてはならぬ、そういったものであらねばならぬ、いざ死ぬとしても有価値的なものであったということを示さねばならない
 ……こういう過大な価値を持つ者を傷つけたのだということを周囲の人々に見せつけなければならない
 いや、それ以前的に、だ。生き延びてやる、生き延びてやる、そうして、その上で、この卑怯な殺人鬼を人ならぬ鬼として断罪せねばならぬ
 過剰なまでに罰を与え、思い知らせてやらねば気が済まぬ
 そうして、俺が価値を持った何かであり、俺の方が優越しているのだと、そのことを噛み締めながら、泣きたい
 己の命の価値を、生きているのだということを確かめながら」
僕は何も言わない。
 彼は銃を回すのを、やめ、そのグリップを握る。
――銃が放たれた
 壁だった物体が、欠片として吹き飛ぶ。
  そんな風に壊れてしまう程威力の高い銃だったろうか? きっと、口径の大きい銃に、持ち替えていたのだろう。
「ふん、くだらないだろう? どうしようもなくくだらない。大体どうでもいい奴らの末尾の振舞いなんか、思い出したくもない
 けど、きっとあいつらはそういう思いを抱いていたのだろうと思うよ
 恨みに思ってすらいたかも知れない。無価値で害悪でしかないものの命を散らせ、破壊してやったというのに関わらず、それが若しかすると全体からするといいことかも知れないとは思えない。次いでに言えば、他人に迷惑を掛けてすみませんといった言葉が出てこない、自らのエゴの犠牲にしていた奴らのことをただ食い物にされただけの何か、餌か何かだと思っている、暴力を振るったのであれ善意につけこんだのであれ何であれ――奴らにとってそういったものは食い物と同じだ
 死の間際に追い込まれてさえだ、誰かを恨む、自分が被害者で、自分は何も悪くないと信じている
 それだから大抵、睨みながら、死ぬ」
嘲笑を彼はやめない。
 どうだっていい、と思いながら、それを僕は聞き流している。
――ただ、彼が話し、僕にそれを聞かせようとする
 そういった時間を取り戻そうと彼がしているようだった。
 どうしたって過去は戻ってこない、それに、そもそも、そんなことどうして続けられるっていうんだろう?
 肩が上下していた。息が苦しかった。
――どうやらそれは彼も同じらしかった
 彼と何かが同じだということが腹立たしかった。何かが一緒なのだ、それが嫌だ。
 何かが同じだなんて在り得ない。

――こいつは何もかも終わっているんだから

 そんな奴の話になんか耳を貸さない。

 もう、終わった奴に、そんな奴の話になんて何の意味もない。
「恨むな、睨むな、お前には周辺の……
――まぁ、いい
 そういったことは」
皮肉っぽい笑い声を、彼は出してみせる。

「セックスのことばかり気にしていた男達のことが思い浮かぶよ
 ……あいつらはただセックスのことばかりについて話していた。そうして、それにまつわる行為しかしなかった
 実際、彼らからすれば、何をしても最後にはそれにつながってゆくんだよな、何をしても、それをする原因みたいなものが、女にモテる為とか、セックスの為だというところに落ち着いてくる
 セックス、セックス」

 耳を塞いだ。
――性的なことは嫌いだ
 それに、メイドさんを、こいつは……。
 いいや、こいつらは。

「原因、分かるか? 彼らすら主体性を放棄しているんだよ、理由ではなく、原因……
 謂わば、本能的、刺激から結果へのリレーレースだな
 そういったことを彼らはしているんだと、ある意味勘付いてはいるんだよ
 けれどもまったくそれに関心を払わない
 ただリレーレースをすることだけに注意を惹かれている」
言いながら、おかしげに、彼は笑うのだ。
「人間は主体性を放棄することが出来るよ、あることの為なら、自分の存在を丸ごとダストボックスにポイと投げ捨てることが出来る、そのあることというのはね、セックスなんだ。ただセックスの為になら、詰まり、それこそが唯一主体性と引き替えに出来るものなんだ
 誰か女性を支配下に置くか、それとも自分がセックスをすることが出来るとなれば、何だっていいんだ
 自分の身を預けてしまえる、何か考えることを預けてしまえる
 混乱や迷いといったものがお預けになれるんだ
 ……これがあいつらという男だよ」
分かるかい、彼が呟く。

 どうでもいい、とだけ呟いた。
――どうでもいい、お前の話を聞きたくない
 出来れば、早くその口を閉じて欲しい。

 しかし、僕はただ睨んでいた。そんなことを言うこともせず。
――彼が早く終わればいいとだけ、思いながら
 どうして、と彼が声を出す。

 しかし、思い直したように彼は口を閉じ、それから、開き直した。
 何度でも、こいつは話そうとする。
「あいつらが一体どれだけ何を犠牲にして何を得ようとするかといったことを試したいと思ったんだが、そうしたら、セックスのことばかりになった
 セックスしたいが為に仲間を殺し、持ち物を売り、媚び諂い、嘘を吐き、……そうしているとセックスすることしか脳に無いような者共でも何かが出来るんだと思えるようになるよ
  あいつら、ただの鉄片一つからナイフを作ったり、交換しまくって金塊を得たりするからな、何だって出来るよ
 原動力が違うからね」
それから、何かを付け加えるように言った。
「あと、薬物があれば尚いい」
そうして、僕へ手を伸ばそうと彼はするのだった、引き摺ろうとでも言うのだろう。あの、生活感の無い部屋へと。
 自分のあらゆるものを犠牲に出来るんだ、そんなことを、呟きながら、こちらの手を引こうと、彼は手を伸ばしてくる。
「汚い、触んなっ」
「失礼な」
それなら、とでも言うように、彼は銃を突きつけてき、歩け、と顎で指示してくる。
 睨み、応えないでいると、半-強制的に銃で押し出そうと彼はしてくるのだった。
「歩け」
あの部屋に、また押し込まれることになりそうだった。
 その間も、こちらが嫌になるような話を、彼はしていた。あいつらは何か、ただで女をくれる人の言いなりになるんだ、とか……。
 どうでもいい。

 ただ、そのときになって、何か、料理の臭いがすることに気付かされていた。