脳味噌破裂するような(15)

 発信器を振り回す彼女が、こちらの方を振り向いた。
――車に付けられていたそれだった
 アジトを脱してから程なくして、彼女によって抜き取られた。
 使い勝手がいいとか、言っていたけど……。

 あのAI車に奇妙な装置が付いていないかどうか、点検することも勿論、した。
「ハワイでも行きたい気分……」
そんなことを、彼女は呟いた。
「行きたくない」
と言うと、何故、とでも言うように彼女は小首を傾げた。
 愛玩動物的な仕草。
 何故?
「暑いから」
そんなところに行きたくなかった。
「シベリアの方がまだマシ」
「そこまで……」
と言いながら素足の彼女はこちらの方へ歩み寄る。
「北海道にでも行きましょうか?」
「……あっちの方は」
政府の人達がいるから、行っても、捕まるだけだったろう。
 いや、テロリスト達の情報を交換条件として提示すれば、ある程度身柄を保障してくれるだろうか? しかし、そんなこと、国がする筈もないか。
 隠蔽されてしまうだろう、きっと……。
 僕らのことなどあってなきが如しの扱いをしてしまうに違いない。

――しかし、何故、彼女はここにいるのだろう

 まるで忠誠心を持っていますと言わんばかりの笑みを崩さず、絶やさない。
 メイド服を着ていることは少なくなったが、それでも車には積み込まれていたし、懐中時計も持ち歩いていた。
 ……川の中から、魚を持ってやってくる。彼女といると不思議な程、食事には困らなかった。
 米のストックもまだあった。どうやらそれは保存がきく、らしい。……元から車に詰まれていたそれではあるが、逃走の為に用意されていたのだろうか?
 飯盒で炊いて、焼き魚と一緒に食べていると、彼女が木の実を渡してきた。
 デザートらしい。
「いい」
と言って断った。
 意味の分からない物を、なるべく口にしたくなかった。それに、そういったものは野生動物が汚しているからも知れないから。
 食べない方が無難であろう。
 そうして彼女はそれを、捨てた。
 烏が飛んでいた。都市が爆撃され、人間が減ってからというもの、その姿を見掛けることは稀になっていたというのに……。そもそも、人間の出したゴミを漁って増殖したそれだから、廃棄物が少なくなると同時に個体数が減るのも分かっていたことなのだけれども、それでも、それを見掛けると、何となく、あぁ、減ったのだな、生活の場を追われたのだなと思わずにはいられないようなところがあった。そう、彼らは生活の場を失くしたのだ。元はと言えば山野を追われて人間の生活圏に顔を出したらしいそれらなのだけれども、そこに住み着き、人間を追い出さんばかりに増えてしまった。それがまた、山へと帰っていった。
 ある時代、ある国では食用にされていたと言うし、食べ物が少なくなると、烏は乱獲されるようになった、……らしい。何しろゴミがあれば無限に増えるのだ。ある意味では同じ食べ物を奪い合うライバルなのだけれども、人間にとってかなり有益な食糧資源であったのに相違無い。
 偶に、子供達が、ボーラを投げて捕獲しているらしい。他にも、人の集まる場所周辺では、簡単なトラップがたくさん仕掛けられているようだった。そういった罠というのは何も対烏目的のものばかりとは限らなかったけれども……。
 彼女もまたボーラで狩猟をすることがあった。何しろその投擲具は石と蔦があれば出来るのだ。ある意味では手軽に作れ、そうして狩りをすることが可能だったのであった。
 食事を終えると、彼女が薬を渡してきた。しばらく前から熱があり、気怠かったが、彼女が採ってき、調合してくれもした薬草を飲んでいると、段々と体調が落ち着いてくるようだった。
 果実酒も彼女は作っていたが、まだそれ程飲んだことが無かった。……どうしてそういったものが作れるのだろうと思う。
 車の中に瓶があるので、少し臭かった。そのことを言うと、
「酒はいい交換財になるんです」
とだけ彼女は言った。
 いざというとき、村人や町人と物を交換する為に使うのだろう。ただ、臭いだけで酔ってしまいそうな気分になることもしばしばだった。
 自動運転車でよかったと思う。
 その車の掃除も定期的に、彼女はした。
 掃除や整理というとそういったものばかりではなくて、僕の身嗜みについてもそうだった。
 アジトにいたときも部屋の掃除を彼女はよくしたし、あらゆるルームを清掃していたけれども、車もまたきれいにされていた。
 下着も白かった。……偶に見えることがあったけれども、いつも清潔なショーツを彼女は身に着けていた。
 横髪から毛が跳ねることも無く、また臭いがすることもなかった。逃亡生活と言われるものを続けているのに身嗜みが整っている人などいるだろうか?
 けれども、彼女はそうしていたのだった。
「そろそろ引き上げましょうか」と彼女は言った。
 それが水車を川から戻す合図になっていた。燃費はかなり良かったけれども、発電や充電だけは欠かすことが出来なかった。それは電気自動車の宿命のようなものだった。電気自動車が電気自動車として働きをまっとうする為には、どうしてもそれが必要だったのだ。……電気を取り去ったらそれは自動車として使い物にならなくなってしまう。
 後部座席の天井に貼り付けられるように小型ソーラーパネルは収納されていたし、熱発電チューブや、熱伝導性の高い金属棒なんてものも搭載されていた。
 座席の下、ボンネット、そういったデッドスペースになりそうな空間は、発電機、食糧、医療品や衛生品といったものをしまうのに使われていたのだった。
 そうでありながら座席を倒すとベッドとして使うことも出来た。そうして寝ている間にも車は走り続けた。

「やっぱり、北海道に行きましょう」
と呟くように、彼女は言った。
 ある夜のことだった。それは夜に眠りの摂れる少ない日の一つだった。
――久し振りに、天井を見ながら、暗い空間での睡眠をしようとしていた僕には寝耳に水のことだった
 まったく、文字の上に表れている通り。
 それは考えてみないことではなかった。もし、ネットや公共の電波にテロリストの情報を持っていることを伝え、アジトから逃れてきたことを第三者に掲示出来る形で北海道――政府――へ乗り込めるのなら、こちらの身柄の安全を政治家や役人達が保障しないというのは、この限りではなくなる。
 しかしながら、その為には様々な条件を課す必要がある筈だった。
――その為に、彼女は考え事をしているようだった
 綱渡りなのかも知れないが、逃亡生活が危うくなってきたなら、そうせざるを得ないことだろう。
 それに、テロリストには”首謀者”のようなものが実際にいて、そうしてそいつがすでに死んでいるのだという情報は、政府にとっても寝耳に水のはずであった。
 それだから、政府に匿って貰っているということをテロリスト達に伏せつつ、またテロリスト達の情報を持っている人がいるとネットか何かで発信すること、詰まり矛盾を乗り越えながら、その二つの条件を達成することが、重要なことであるのに違いない。
――矛盾、ではあるが、しかし、テロリストの”同志”達もまた、仮面の男の死を知らない筈なのであった
  それが問題を解きほぐす鍵の一つではあるのだろう。
 しかし、矢張り情報を開示しても、こちらの身の安全を政府達は保障しないに違いないから、大分慎重になる必要があるだろう。……こちらの存在を国外の人々に知らせたにせよ、抹消される可能性は十分にあるからだ。
 ほとんど独裁国家とでも言えるような体制が整ってしまっていたとしたなら外聞なんて関係ないに違いない……。

 考えてもみれば、どうして必要な情報をあの仮面の男は渡さなかったのだろう。……無駄なことばかり喋るなんて。
 そんなこと、言ってみても、仕方ないか。
 あいつのことなんて、思い出したくもないし。

 結局、テロリスト達を上手く使い、且つ巧妙に日本から利益を吸い上げるのは諸外国で、彼らから、日本に働きかけて貰わなければならないのだろう。
 テロリスト達側にしてみても、後継者争いのようなことをするだろうから、仮面の男の後を引き継ぎたい者達にとっては、政府に情報を伝えたり、海外にある情報を発信したりこちらがすることは、有利に働くに違いない。
 ……どこかでマイナスになるところがあったとしても。
 それから、復興特需か。
「ふむ」
様々な団体に手を引かれているような状態になってしまった。
 均衡をしてはいないと思うが。……ずっとどちらかの方向へ引かれたり、押されたりしているのだろう。

 まぁ、矛盾のある線は矛盾のある線に過ぎない。

 彼女の方を見ると、すでに窓越しに空に見入っている様子だ。……そのまま寝入るのだろう。
 これから、どんな情報を発信し、それから回収をするのか、そういったことについては恐らく、そのときの彼女は考えていないのだろうと思われた。
 どちらにせよ、彼女が裏切ることだってあるのだろうし、嘘を吐いていることもあるのだろう。

「音楽を……」
そう声をかけると、AIが音楽をかけてくれた。
 静かな、楽器だけの曲が響く。声の無い、歌の入っていない曲を。
 生体認証により、基本的に僕以外、この車を操作することは出来ないはずだった。
  彼女は少しも動かない。
 音楽が流れ出したことに気付いているのだろうか?

 そう言えば、この車の色は、これ程黒に近かっただろうか? 車というと、幾台も用意されていたから、あまり覚えていないのだけれども。
 若しかすると、外装の色も変化するようになっているのかも知れない。……そんなことはないと思うけど。
 保護色のようなもので覆われているのだろうか? それだから、あまり目立たないで、誰かに捕まらないでいられるのかも知れない。
 そんなことは、ないのだろう、しかし。
 レーダーに探知されたり、衛星に捕捉されたりしない訳は、きっとない。それなら、何か、理由があるのだろう。……捕まらない理由が。
 何だろう、この違和感は。

 音楽が鳴り続けた。北海道に行こうと言ったり、ハワイに行こうと言ったり、彼女も随分、北と南で振れているのだということを思った。
 森の中、方位磁針も正確には方角を示さなかった。