脳味噌破裂するような(10)
足を踏み出そうとする度、何か膜のようなものに圧されているようにも僕は感じる、……あいつに近付こうとしないかのように。
近付きたくないと思っているかのように。
――それは何故……?
あいつの穢れた身体を、その機能を停止させられる、終わりにさせられるんだ……。僕を閉じ込め、拘束していたあの男を。
あるときには肌に触れてこようなぞした、仮面の男……、気持ち悪い。僕は同性愛者じゃないと断ったけれども、何故か妙な笑いを彼はしていた。彼自身同性愛者だとは聞いていなかったし、そういった趣味があるのか知らないが、それでもやめていた。
それを嫌に思ったのだろうか、僕がその手を払った後に、彼は銃で人を殺していた。……それからまた間を置いて、矢張り殺していた。
何度も何度も、エンドレスに殺害行為を続けるかのような彼。それは殺戮や虐殺といったものと何が違うのだろう。
穏当にしていれば殺されないかと言えばそうではなく、却って彼を詰った者を生かしていたこともあるくらいで、そうしてまったくランダムに殺しているようにも見える、……そういったことをする。
”大災禍”の後、あの荒れ果てた町で性的暴行が異様に増えたが、その犯罪をした男を殺す男もまた増えた。……被害者が血縁者であったり、恋人や友達であったりしたからと。
そうした破壊と暴動が蔓延してゆくのを愉快気に彼は見ていた。
「ただ、少しナイフを突き立てればいい」
と彼は言っていた。そこから亀裂が走るのだから。すべてが音を立てて崩壊してゆくのだから。
……そうだ、ビルも橋も何もかも、あるものすべてが壊されていった。窃盗や傷害行為が横行した。デマやフェイクニュースが拡散され、あらゆる者が破壊へと駆り立てられ、そうして殺されていった。放火事件もよく起きた。自殺事件も多発した。ジープの上、何もかも殺してしまえと謡うように呟く彼は、確かにあらゆる者をポテトキャノンとかパンプキンキャノンで殺していった。野菜を凶器に人を殺す犯罪者はきっと彼が初めてだったろう、それもあんなに沢山の人を……。
とても愉快げに彼は殺していった。どうしてこれ程までと思えるくらい、僕を隣に居させていた彼は真っ赤に人体を炸裂させていったのだった。内臓も筋肉も骨も弾けていった。それに媚薬や興奮剤を配るのも好きだった、大麻を撒いて”腐敗”を進めようとかしていた。そうして大人も子供も狂ったようになって殺し合いを始めていたのだった。……どうしてなのだろう、どうしてそういったことをしていたのだろう?
もしかすると特殊なガスが霧散されていたのではないかとさえ、思う。しかしながらそれは、どうやら彼らが自主的に始めたことだったらしいのだ。どうしてそういったことをしていたのか、それは若しかしたら彼らにも分からないのではないかと、どこかで思っていたようなところがあったけれども。
血に染まりゆく町を眺めさせて何をしたかったのだろう? 殺すとかして、何が楽しかったんだろう? どうして”同志”達をあんなに遊ばせていたのだろう。
僕を殺そうとか脅しているようにも感じられて凄く嫌だったけど、彼は解放しなかった。却って介抱しているみたいにして僕を放そうとしなかった。どうして僕を……? 何でなんだろう? 彼が破壊行為をしていない間は、ずっと手を握りながら僕の傍にいた。
その手が震えているようにも感じられて、どこか、それが、しかしながらそれでもそれは温かみを帯びてもいたのだ。
「悲しい物語をもう終わりにしよう……っ」
そんなことを彼は言ったことがあった。
社会に矛盾は存在する。それによって社会が成り立っているんだとも言っていた。そうだ、でも、そんな話聞きたくなかった。偉そうに何を言ってるんだろう? 偉そうに……。
「社会に矛盾が存在しなくなれば政治家も科学者も要らなくなるよ、何も解決すべき問題がないのだから
我々はただ遊んで暮らすばかりだ、そのときに人間の精神がどうやら荒廃してしまうらしいことは歴史が証明しているがね」
何も、言わない方がいいのではないかとさえ思った、僕は。
「矛盾があるから、解決すべき問題があるから我々は経済活動を行うことが出来るんだ、……それはこの宇宙間における普遍的な法則なんだよ
考えてもみたことがあるかい? 公平なコインを投げれば詰まり、それは大凡二回に一回は表が出、それ以外は裏が出るといったお決まりのフレーズで表されるコインだが、延々と表ばかりが出続ける可能性だって否定は出来ないんだよ、とは言え何度も賭けを繰り返せば裏が出るときは必ず来るのだがね
世の中には病気の子がいて貧しい子がいて、そうして虐待された子がいて、恵まれない者達がいるがね、……しかし、そういったものは日頃経済活動が成り立っていることの裏返しなんだよ、どうしても存在してしまう、謂わばコインの裏なんだ
それを知らないで平均、普通なんて言葉を軽々しく使う者達はね、一度コインの理不尽さを味わったらいいんだ、それは詰まり公平なコインの理不尽だね
それというのは我々のコントロールの効かないもの、何も物が無い空中にボールを置けばそれが落下してしまうくらいには当たり前のことなんだ
結局、世の中の物事は一切管理不可能で我々の手の及ばないところにあるんだ、コインと実存と意思とを関連させてみる向きもあるようだがね、……そこには我々にとってはどうにもならないものが潜んでいる
それだからこそ、よりよく知るからこそ我々は物を上手く操れるのだが、……、科学というのはただ恩恵を齎すものではないのだよ、黙っていれば雨を齎してくれるといった類のものではね」
――彼は銃を取り出した
「虫歯になる人がいるから歯医者が儲かり、犯罪に巻き込まれた人がいるから弁護士が活躍する、……そうして戦争があるから国は儲かる、いいか、病人や犯罪者や戦争を起こす国家はすべて確率的に発生する事柄なんだ、そうして外れがあるから、矛盾があるからこそ、それらを解決する仕事があるんだよ
不公平と破壊こそが経済の主体なんだ」
そうして、弾を撃ち放つ。
「理解しがたい……、かなぁ」
――弾を込める
「そうだ、俺はそういった人間を殺してきた
いつも待っていた、殺したくて、殺したくて」
狙いを定め、撃つ。そうしている間も、手を握っていた。……どうして?
「割れ窓理論、なんだろうが……
経済主体足る我々が有限的資源を燃料に熱機関として経済活動を行う以上、経済活動は消耗と消費に他ならない、謂わば破壊はそれの前提なんだ
俺がしているのはそういったことなのかもなぁ」
どうでもよかった。……経済もそういった話も、僕には関係無いように思えた。
それがどうしたって言うんだろう?
悲鳴が谺していた。どこかの誰か、知らない人達が苦しむ声が響いていた。
夜になれば性の営みを遂行する声々が聞こえてもいた。そうやって人間達は何も変わらない生活を送ろうとしているようだった、自分達は何とかなると信じているみたいだった。
自分達には関係ないみたいな。
「それ、バン」
まるでリア充とかカップルに恨みがあるみたいにそういった人間達を優先的に彼は殺していった。
何でそんなことをしたのだろう? 僕には理解しがたいのだけれども、それは彼なりには理屈や筋の通ったことみたいだった。そうでなければ自己正当化するような論説を打ち、人を殺すとかしないもの。”同志”を増やして殺戮の波を広げようとかしないもの。
どうしてそういったことをしていたのだろう?
分からない。けれども、僕の前を歩く彼は朧気に揺れ、まるで実在と非-実在の境を揺れ動くかのようであったのだ。しかし、それをどうすることも僕には出来なかった。……そのまま足を取られて倒れるのではないかと思っていた、だがどうしてそんなことが期待出来るだろう? それを望んでいただけではなかったのか?
咳が、出た。
過度のストレスがかかった為だろう。喘息の症状。どうしても僕は咳をしてしまう。
そういうときには、死んでしまうのではないかと心配されることもままあったものだった。彼もまた心配してくれた一人だった。
しかし、どうしてあれ程経済的なるものに執着しているのだろう? 超々々高度より質量攻撃作戦を実行するときも、実のところその標的をテレビ局より何より、株の取引をしていたり、仮想通貨のやり取りをしている場所としていたらしいことからも、彼の執着性のようなものが窺えるようだった。
どうしてそうなったのだろう?
――あの、いつもきれいにしていた男が思い浮かんだ、いつも僕に女の子のことを教えてくれた、あの男性……
何故だろう? 意味も無く。
ただ地方の町をぶらついて、ショッピングセンターに入ったというだけで中学生女子に声を掛けられ、それで彼はそのまま仲良くなったとか言っていた……。そう、とだけ答えておいた。法律や条例に違反したとして逮捕や書類送検されることが怖くてなのか、そういった事については曖昧に濁した言葉しか彼は使わなかった。仲良くなったと言うが、実際には何をしていたのか、僕は知らない。
――仮面のあいつが、肩を震わせたように思える
はっ、と息が漏れる。なに? 銃? しかし、それは何でもない、ただ歩く為に手を振っているだけ、その誤差的な挙動だった、それだというのに……、僕は。
ただ、心臓は高鳴っていた。どうしてなのだろう、彼に近づこうとすればする度、それだけをしているだけなのに、どうしても、僕は……、気が昂ぶってしまうみたいだった。
歩を進める、進める、足よ進め、進め、と念じながら歩を繰り返してゆく。そうしていながら、僕はあいつよりも速くなろうとする。殺してしまおう、性交をしていた男女を笑いながら殺害した彼を、性の嫌いな僕にそのシーンを見せてつけてきた彼を……。
殺すことが好きなだけ、という訳でもないような。壊して、殺して、そういったことばかりして何をしたいのかという質問には答えないで、ただ処刑や殺戮を敢行していた彼……、ダンスを踊っているみたいにして死体の置かれた間にいてそれらを飽くことなく眺め続けた彼は……、もうすぐのところに在る。
僕に近いところに在る。