脳味噌破裂するような(20)
彼女が食器を下げてくれた。
「随分、あっちのノリに合わせた感じで話してましたね
……先程は」
なんてことを言いながら。
「うん」
椅子にそのまま、深く沈み込んだ。
「執拗いからね、あいつ……
一旦絡むと」
「そうなんですか」
「中々解放しないっていうか」
紅茶のお代わりを彼女は注いでくれた。
そうしている内、彼女の手が白く鮮やかに光を照り返すことに気付かされた。
……きっと逃亡生活やサバイバルは肌に悪いことだったのに違いない。乳液などでケアをしているのだろう。
「あいつ、洗脳なんて言ってましたけど、そういったことしたいんでしょうか?
願望が言葉になって出てきたみたいな」
「さぁ……」
――どうして?
洗脳なんて言い出したんだろう?
よく分からなかった。
「あの仮面って、あの仮面の男なんでしょうか?」
「知らないよ、どうだっていいじゃん
……僕には関係無い」
仮面の下の顔が誰かと入れ替わっていたとしても、そんなことは、……どうでもいい。
死んだか死んでいないかなんて、結局のところ、形而上学的な問題でしかないのだ。
テロリストから僕が解放されるのかどうかの方が、大きな問題だと思う。
「ねぇ、……いつまでメイドさんはメイドさんしているの?」
ふと、そんなことを尋ねてみたくなった。
その言葉を聞いて彼女は笑った。
「洗脳、ですかね」
彼女の方を見ると、
「そうですねぇ、楽しくなければそれまでですね」
と言った。
はぐらかすような答えだった。
「そんなに楽しいならたまには僕もしてみようかな、メイドさん」
それに対し、彼女はあまり良い顔をしなかった。
……あるときにはメイド服を着させられもしたんだけれどもな、僕は。そうして、彼女達と一緒に写真撮影をしたり、料理を作ったりした。意外な程料理作りというのは重労働であったけれども、手分けをしていると負担が分散化され、それほど大きな苦にはならなかった。
そうやって、彼女達はマネジメントをしているのだ。
その頃には彼女達は花を育てたり、菓子を作ったり、そういったことばかりをしていたのだ。それが流行っていたというか。その他にも、……漫画を読むこともあった。
彼女達がそういったものを持っていると、随分と様になった。これまでにない程有効的な漫画の活用の仕方だと思った。あの漫画はきっともう捨てられていることだろう。
ああいったものは消費物に過ぎない。
いずれは捨てられてしまうのだ。
高校時代、それまで自分が集めていたラノベをすべて、僕が捨ててしまったときのように。
マッチ箱は幾らもあったので、それを一掴みすると、オイルと共に、ザックに入れてラノベ達を運んだのだった。そうして海岸まで持ち出すとすべて燃やした。
紙の本は燃えにくかった。特に、あの、なめらかな材質で出来たカバーや挿し絵は燃えにくく、地の文の書かれた頁から消えていった。
まるで、自ら燃えようとしているかのように、段々頁が開き、それから火が点いてゆく。
そういったものをなるべく持たないように僕はしていたのだけれども、往々にして、サービスシーンと呼ばれるような挿し絵がついていて、そしてそれらが燃えるとき、何だか不思議な感慨を抱いた。
風が、塩っぽい臭いを運んできていた。捲られる頁らによりそれら風の一陣は可視化されていた。
それに呼応するかのようにざっと、雨粒が一頻り落ちてきてもいた。
誰かに咎められないように、曇りの日を選んでいたけれども、まったく海岸には人がいなかった。
ラノベ達は消し炭になっていった。
最後には、男子達がそれを見て騒いでいたような、色付きの、見開きのサービスシーンが燃えていく。
……昔は成人向けの本というと捨てるに捨てにくいとの理由で野外に不法投棄されていたらしいのだが、電子書籍が普及した為に、最近の男子達はそんな懸念など感じずにただデリートしているのだろう。その必要すら無く、ウィルスなど警戒することもなく、ただ保存し続けているのかも知れない。そうやって収集されたポルノというのは、彼以外には誰も見る者がいないし、それに大体、所有されるのでなくして、ただ消費されるだけのものなのかも知れない。半違法的な無料の動画サイトを利用し、動画を視聴して、それでお終いというような。基本的に痕跡は残らない。ツールを使えば明らかになるのだろうが。
それに、彼らはもっと、そう……、暴力的だった。
陰湿な……。
――仮面の男が思い浮かんだので、眼差しを上げた
あいつのことは忘れたい。
照明の光が睫毛を通じて目へと入り込もうとしていたが、それらをフィルターとして散乱し、朧な像を引き結んだ。ある夜、海岸で遊んでいた、パリピの人達が浮かんでいた。ライトを立て、サッカーボールを蹴りながら、自分達の絆やコミュニティーのつながりの強靭さを確認しているようだった若者ら。目つきがきつく、筋肉質で、大体茶色か金に髪を染めている。西野かなが大音量で流されていた。
彼らの場合、自分達ってイケてるよね、サッカーとか出来て、モテて、喧嘩が強くて、特別なんだよね、という特別性を確認する為に、そうしてまた裏切りを許さない為にそういった運動をしているようなところがあると思う。
……きっと学校の中ではカースト上位だったのだろうし、社会階層の上位者にはならなかったとしても、職場でも子分のようなものを見つけてわがままにしていたのだろう。
その、彼らは声をあげながらボールを蹴っていた。しばらく、それを見ていた。ある意味、彼らは目立とうとしているみたいだった。
写真を撮られでもしたいかのように……。あまりにもインスタ慣れし過ぎていたのだろう。
夜の海岸というと、危険な同性愛者も多いので、引き返した覚えがある。実際、ざっ、と音を立てて、群れを為しながら、フォーメーションを組みながら、どこか慣れた風に、こちらの方へと近付きもしていたのだった。
あれらには関わり合いになりたくない。
そこからしばらく歩いた先にある公園に、シンガーポールから来ているという女性達がいたので、幾らか話しもしたのだが、そうしている内、男達がどこからかやってきて小言を言ってきたので、結局、その夜は何もしていない。
何とはなしに駅の方へと向かい、程ほどに長い道途を経た先で、居酒屋帰りらしい女性達に声を掛けられるなんてこともあったけれども。
あれは何もない夜のことだった。
と、そう、言うだろう。男友達に問い掛けられたのなら。しかし、問うような者はもう、いない。荒廃した町には、いないのだ……。あれはあれで平和な時代の話だった。
酒臭い息を吐きかけてきた彼女らは、アルコールに取り憑かれているのだとでも言いたげに半乱暴的に僕のことを、持ち帰ろうとしていたのだった。目はすでに潤んでいたし、何なら鋭くなってもいた。その昔、爆音でミュージックを鳴らし続ける車の中へとパリピの女性達に引き込まれそうになったことがあったけれども、それとは質の違う誘引だった。
髪の色は明るかったけれども、彼女達は商社で事務でもしていそうな人達だったから。あるいは看護師だったかも知れない。素性は知れない、知ったとして、本当かどうかなんて分からない。
すげない、ある意味においては。彼女らはすでに一夜限りの相手を求めて、夜道を彷徨うことを決めていたのであり、その決定を覆すことはしがたかった。
非常に獲物的に――。
メイドさんの吐く息がかかり、そちらへと顔を向けた。
その服から露わになっている胸元へと目がいった。
それは美しい、乳白色の肌だった。
――彼女はそこに滴ってゆく汗をすくい、視線を誘導しようとするかのように、そうして、その指をエプロンで拭い、僕に声を掛けた
実際、彼女はタイミングをはかろうとしているかのようだった。何の? でも、何の?
つい、といつの間にか絡んでいたらしい指を解いた。
風呂に入れるらしいので、食器を下げて貰っている間、そちらの方へと僕は向かった。
簡易式のシャワー、バスタブ、どこかで見たようなことがあるような景色。
お湯を電気で沸かしているらしい。湯と水の量を調節し、温度を変えてゆく。
……何となく、汚いけれども、これでも、かなりマシな方だろう。既に破壊された町にあっては、こういったものを使うなどということはどうしても出来ないだろうから。
頭にお湯をかけていった。石鹸の臭いがする。牛乳石鹸。シャンプーもボディソープも、随分高級化されていたし、……大抵は海外に輸出されていった。
じっと、しばらく、お湯を浴びていた。
仮面の男と一緒にいた分、身を清めた。
それまでいた部屋が僕の部屋として宛がわれていたようだったのだが、相変わらず菓子やパンといったものが置かれていたのだった。冷蔵庫の中にはフルーツもあった。
電気のある生活にあいつはこだわっているらしかった。
しばらく、眠れなかった。
ふかふかのベッドでないせいもあったのだろうけれども、……それは仕方ないことなのだろう。
眠る……、きっと、サバイバル的な生活を送っていたせいだ。
ずっと、眠れない。
しばらくすると、メイドさんが入ってきて、ヴァイオリンを静かに弾いていった。
ただ、静かに。
僕は何も言わなかった。ただベッドに横たわっていた。
彼女はこちらの方にやってきた。
おやすみを言う為だろうか。
次の日の昼頃、起きた。
メイドさん以外、……誰もいなかった。
誰も。
誰かが声をかけてくることすらない。
何となく、歯を磨いた。
水が冷たかった。
しばらくアジトを巡っていると、工場だったらしいところの二階に、仮面の男がいた。
巨大なファンが影を作り、そうしてまた光を通していた。ゆっくりと、この上なくゆっくりと回転している。
声をかける、こちらへ振り返ってきた。
そうして、仮面の奥から言葉を出した。
「あぁ、例のあの男達、武装カルトと仲良かった男達」
「男達……?」
誰だろう、それ。
「セックス原理主義者、……死んだよ」
「死んだ?」
それ、問題なのだろうか?
「取引で得たんだ、あいつら、訊きたいことあったし
カルト宗団を深追いせずに、捕獲したんだよ
それこそ探検隊みたいに、網にかけてさ」
喉の奥で、彼は笑いを立てる。
「毒かな? 捕虜になっていたのに、どうして、死んだんだろう?
もう少し、見ておくべきだったかな
医者に診せるとか……? 自殺した者もいて、どうやら洗脳でもされていたみたいだ
洗脳自殺なんてない筈なんだけれども」
「へぇ……」
と言っておく。
「今日はもう、することない」
「すること……?」
そういえば、色々することがあるとか、言っていただろうか?
「ひょっとして、見せたかったものって?」
「そうだよ、彼らだった。カルトの奴らってどんなの、とか訊きたかったし……
どうせ、あいつらのことは答えなかっただろうし、何か口封じの為に処置を施されてもいただろうから、頭を開いて、脳に直接棒を突っ込むとか、してみたかったんだよな
脳を開いて食べるとか、他にも」
彼の足元にはペンチなどがあった。
随分古いのか、錆びついていた。
「殺されたか……」
残念そうな声、それがやけに耳障りだった。
気障ったらしい台詞も、彼は言わなかった。
ただ、仮面の口あたりの隙間から、何かを吐き出した。
粘液に塗れたそれは恐らく、そいつらの爪だった。