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『月の沙漠の曽我兄弟(1)』

 まだ肌寒さが残る四月、眼前に聳える八階建ての大きなビルを見上げると、スカイラインを掠めた朝日が曾我純一の瞳を刺した。

 大学を卒業した純一は、印刷業界の大手である源田印刷への就職を決め、この日、入社式に臨むところだった。腕にはおろしたばかりのトレンチコートを掛けている。

「やっと、ここまできた……」

 純一は陽光の眩しさに目を細めながら、そう呟いた。

 自動ドアを抜けて、源田印刷のビルに入ると、エアコンの効いた乾いた空気が純一を包んだ。視線を泳がせて受付を見つけると、その傍らに「入社式ご案内」という張り紙を見つけた。その周辺には、リクルートスーツを身に付けた何人かの同年代の男女を見つけることができた。

「新入社員の方ですか?」

 受付にいた女性が、椅子から立ち上がって純一に向かって言った。

 胸に付けられた名札には「芝川虎子」と書かれていた。純一は珍しい名前だと思い、名札と彼女の顔を見比べた。どう見ても獰猛な虎というより、飼い慣らされた猫と言った方がいい、愛らしい顔をしていた。

「はい」
「みなさんご一緒にご案内しますので、このままロビーでお待ち下さい」

 芝川虎子はそう言って、ほんの数日前まで学生だった若者たちが立ち話している辺りを、小さな手で指し示した。

 純一の実家は、祖父である伊東祐一が創業した『伊東パッケージ』という包装紙やショッピングバッグを扱う小さな会社を営んでいた。祖父が社長の座を退くと、婿養子として迎え、副社長となっていた父親の河津三郎が継いだ。そこに長男として生まれ育った純一は、物心がつくと、やがて自分も父親の後を継ぐのだろうと感じていた。

 だが、ある日を境に、会社の業績は急激に悪化し、瞬く間に倒産してしまった。

 伊東パッケージに仕事を下ろしていたのは、当時、業界最大手だった平井プリントだった。平井プリントには伊東祐一の従兄弟にあたる工藤祐介が在籍していたが、唐突に出向という形で親類に当たる祖父の会社にやってきた。なぜ従叙祖父が祖父の会社に天下ってきたのか、倒産するまで祖父も父親も理由を話してはくれなかったが、会社が倒産し、それまで金策に奔走した三郎があっけなく他界してしまうと、その墓前で、母親がそっといきさつを語ってくれた。

「工藤はね、平井さんのところで横領を繰り返していたの。それが発覚して、解雇になったんだけど、おじいちゃんが工藤を庇って、拾ってあげたのよ」

 傍らには祖父の祐一も佇んでいたが、唇を真一文字に引いて、何も言わなかった。

 高校生になったばかりだった純一は、母親の告白に驚き、見る見ると胸の内に憤りを募らせた。何故なら、父親を死に追いやった原因は、工藤の寝返りだったからだ。

 平井プリントで不祥事を起こした工藤を義理で拾ってやったものの、工藤は伊東パッケージのノウハウをすっかり盗むと、そのデータやデザインを源田印刷での高待遇を引き換えに、言葉巧みに平井プリントのライバル会社であった源田印刷に鞍替えしてしまった。恐らく、祐一が引退した後、自分が新社長になるものとばかり思っていた工藤は、その座を婿養子の三郎に奪われたのが不服だったのだろう。

 すると、源田印刷はすぐさまパッケージの分野にも事業を広げ、ライバルである平井プリントを凌駕し、工藤も幹部の椅子に胡坐をかいていた。

 そのおかげで、伊東パッケージの仕事は殆ど源田印刷に奪われ、月々の支払いが滞り、抵当にしていた家と工場を銀行にとられてしまったのだった。同じ冷や飯を食わされた平井プリントも何かと手を尽くしてくれたが、源田印刷の攻勢に立ち向かうのが精いっぱいで、伊東パッケージの負債を補てんすることは叶わなかった。それでも、解雇しなければならなかった従業員を平井プリントで引き取ってくれただけでも、有難いことだった。

 純一には二つ年下の大吾という弟がいたが、その当時、まだ中学生だったにもかかわらず、大吾は長男である純一よりも憤慨していた。

 穏やかで理知的な純一に対して、大吾は奔放で血気盛んであった。中学生だから語彙も少ないし、短絡的であったから、大吾は三郎の墓前で、「ふくしゅうだ。ふくしゅうしてやる」と息巻いていた。

「そんな、乱暴なことは言わないで」

 母親は、大吾にすがるように言った。恐らく、大吾が怒れば怒るほど、そばで佇む祐一の身がつまされるのを慮ったのだと思う。

「もうすっかり会社はないし、お父さんもいないの。だから、あなたたちがこの仕事を無理して続ける必要もないのよ。どうせ、厳しくて儲からない仕事なんだし、あなたたちが社会人になる頃には、もっときれいで楽な仕事があるに違いないわ」

 その後、母親は三郎の仕事仲間だった北条出版から同業者であった曾我印刷の社長である曾我信也を紹介され、その後妻となった。純一も大吾も、河津という姓から曾我という姓に変わった。母親からは成人したら自分でどちらかの姓を選べるのだと教えられていたが、二人とも、新しい曾我という姓を名乗り続けた。

 まだ心の中に復讐の火を燃やし続けていた二人にとって、工藤に知られた河津という姓ではない方が、都合がよかったからだ。
 
 純一が大学へ通うために家を離れると、大吾は自分で学費を稼いで、デザインの専門学校に入学した。そして、ほとんど着の身着のままで家を出たのだった。それから大吾は、母親とも純一とも、すっかり音信不通になってしまった。
 
 ロビーに集まった新入社員たちには、真白なヘルメットが配られ、手荷物は芝川の他にいたもう一人の受付の女性社員に預けるよう指示された。源田印刷では入社式の前に、会社の心臓部である印刷工場を見学するのが習わしだった。

 工場に入ると、さっそく大きなドイツ製の印刷機が目に飛び込んできた。父親の会社にも名刺や箸袋を刷るくらいの小さな印刷機はあったが、目の前の印刷機は、とてもそれと比べ物にならない大きさだった。その印刷機は長年の風雨で浸食された渓谷を彷彿とさせた。

 工場内を巡るうちに、時折純一は自分を射るように見る視線に気付いた。ふとそちらを見ると、もしも生きていれば自分の父親もそれぐらいの年になっていただろうと思わせる五十代半ばの年齢と見受けられる男がいた。男は純一と視線を合わせると、しっかりと純一の視線を受け止めて、やさしく微笑んだ。
 
「いかがでした?」

 入社式の会場となっている会議室に向かう道のりで、純一は後ろから追いかけてきた芝川虎子に声をかけられた。

「ああ……。とても、大きな機械で、驚きました」

 純一は謎の社員の視線に気をとられ、工場の情景や説明を曖昧にしか記憶できなかったので、一番印象に残ったドイツ製の印刷機のことを語った。

「そうですよね!あれはまだ日本に数台しかないんですって」

 芝川虎子は、今夜のおかずは何だろうと想像するお腹をすかした子供のように、巨大なドイツ製の印刷機を空想してうっとりとしていた。

「あのう……」
「なんでしょう?」

 純一の呼びかけに、芝川虎子が振り向いた。

「僕らの集団のあとを、社員の方がついてきたような気がするのですが、研修に関係する方なのでしょうか?」

 芝川が、きょとんとした瞳で純一を見た。

「あの方は人事部長の畠山さんです。今年の新規採用を統括しているので、気になって見に来られたのでしょう。この後、入社式で訓辞を述べられますよ」
「そうですか……」

 そう頷いては見たものの、純一は今一つ腑に落ちなかった。

 まさか、自分の心の内に秘めている工藤への復讐心を見透かして、その謀略を妨害、あるいは密告しようと企てている工藤の手先の者かもしれないと思い、純一は身震いした。

 会議室の入口で、芝川がそれぞれに渡したヘルメットを回収した。

 部屋に入ると長机に二席ずつ椅子が置かれ、その卓上にストラップがついた名札が置かれていた。自分の名前が書かれたストラップを探し当てると、その席に純一の荷物と真新しいトレンチコートが畳まれて置かれていた。

 やがて、会議室にさきほど印刷工場で見かけた畠山という人事部長がやってきた。印刷工場ではヘルメットを被っていて分からなかったが、ごま塩頭ではありながら頭髪は縄文杉の根に共生した苔のようにしっかりと生えていた。背丈は180センチある純一よりも幾らか低いが、背筋がしっかり伸びているので大きな体躯に見えた。

 畠山部長は会社の概要を説明したり、新入社員の心得を説いた。純一を含めて総勢で八人ばかりの新入社員たちは、背筋を伸ばして椅子に座り、畠山の話にじっと耳を傾けていた。

 畠山はあらかたの話を終えると、大きく一息ついて、大袈裟に腕を持ちあげて、そこにはめられている腕時計を見た。それに合わせて、純一も会議室の正面に掲げられている壁時計を見上げた。時刻は午前十一時半だった。

「君たちもずっと緊張しっぱなしで疲れただろう。オレの長っぱなしはこのへんで終えて、既に知らせてある行程のとおり、食堂で会食をしよう。そこには、先輩社員もやってくる。そこで、ざっくばらんにいろんなことを尋ねていいぞ。これは、わが社の社風でもある。オレもほんとはそう言うところで君たちと語り合いたい。あんまり人事部長って肩書は好きじゃねぇんだ」

 そういって、肩のコリをほぐすように、肘を曲げた腕を大袈裟にグルグルと回しながら、畠山は気さくに言った。

 会議室にようやく、和やかな笑い声が響き渡った。

「君は、三郎さんの息子だろ?」

 食堂で隣に座った畠山人事部長におもむろにそう言われ、純一は今まさに飲み込もうとしていたブロッコリーを喉に詰まらせてしまうところだった。

「おかあさんから、内密に連絡をもらっていたんだよ」

 押し黙ったまま目を丸くして自分を見ている純一の瞳が(なぜ曾我という姓なのにバレたのか?)と訴えていたのを察した畠山が、穏やかな面持ちで囁いた。

「三郎さんは、残念なことをした。まじめで誠実な人だったから、何から何まで自分で背負っちまったんだな」
「では、父の葬儀のときにも……」
「ああ、行かせてもらったよ。そんときは君も高校生ながら歯を食いしばって施主を務めていたっけな」
「そう、でしたか……」

 母親の庇護のもとから飛び出して一人前になったつもりでいたが、こうして母親の配慮はどこまでも追いかけてきてしまうのだと、純一は脱力した。しかし、それは落胆であると共に、どこか安堵を感じさせた。そうした庇護を、純一が心のどこかで期待していたからだろう。

 しかし、河津三郎の息子が源田印刷に入社したことが人事部長であり、三郎の旧友の耳に入っているということは、父の敵である工藤祐介の脅威はないのだろうか。

「すると、もうここには工藤はいないのですか?」

 純一がそう言うと、さっきまで柔和だった畠山の面持ちが、キッと厳しくなった。

「おい、軽々しくその名前を呼び捨てになどするな」そう低く怒鳴られて、純一は居住まいを正した。「工藤はまだ取締役として、この会社に君臨しているよ。ただし、曾我純一という新入社員が入社したことは知っていても、君が河津三郎の息子だとは知らないはずだ。何しろ、あの人は金に対する嗅覚は敏感でも、人に対する嗅覚は鈍感だからな」

 畠山のその言葉を聞いて、純一は安心した。

 それは、父の敵である工藤祐介がまだ手中にあることが分かっただけでなく、自分が社会に飛びだし、父親の無念を晴らすためにこれから奮闘しようとしている時に、そばに母や畠山の守護があるように感じたからだった。

『月の沙漠の曽我兄弟(2)』につづく…。

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