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観音と猟師

臨済宗獨鈷抛山千手寺 現地の説明板
 大同二年(八〇七)弘法大師空海により開創された千手寺の縁起によると、弘法大師が渡唐の途上、暴風雨で難破しそうになった時、観音菩薩に立願し、大望成就したならば尊像を刻すると誓い、無事唐に着きました。

 さらに恵果和尚から密教法儀の伝授を受けて帰朝に当たり、「密教流布相応の勝地にとどまるべし」と言って独鈷杵を投げると、宙に消えました。
 帰朝後、奈良春日大社に参籠して独鈷の行方を尋ねたところ、春日明神が示現し、「丹波国山内荘の北峰、娑婆山の松の枝にある。道を教えるからその地に千手観音を造立せよ」と告げました。
 このお告げに従い大師が麓まで来ると、春日明神の使いである白鹿がこの地の松にかかっている所まで導き、谷に消えました。
 以後この地を鹿谷、山号を獨鈷抛山と呼ぶようになりました。
 また、大師は、香木を用いて一刀三礼して千手観音を刻み、安置したことが千手寺の始まりです。

 その後、戦火により廃寺となりましたが、応永十年(一四〇三)、鎌倉建長寺の蘭渓道隆の法孫、止菱和尚が来住して、臨済宗寺院として中興されました。

 また、地元の猟師が霊場の峰に毎夜怪光が現れるのを、狐狸の仕業と疑いこれを射たところ手ごたえを感じ、翌朝、血の跡をたどると矢は千手観音の左目に立っていました。
 猟師は、罪を憶悔して末代まで弓矢を捨てることを誓いました。

 以後この千手観音は、眼病に御利益があるとされ、四月十七日、七月十七日の縁日には、には、多くの善男善女の参指が絶えません。



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