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【ミッドサマー】個のない閉じられた共同体

 やりたいことがたくさんあるのに身体が着いてこず、ただ消耗していくだけの日々を送っていました。そういえばアマプラに入っていた!アマプラにミッドサマー来ていた!と、気分転換に見てみました!

ラスト、ダニーと笑った。

 フォークホラーというジャンルは初めてでした。“フォーク”とは民族というよりも、民俗を指していると思われます。民族とは文化を共にする共同体のことで、民俗は古くから続いてきた民間での習俗や行為のことです。ややこしくも、同じ読み方でも意味が少し違っていて、私もよく頭の中で混ざります。不幸にもホルガ村に呼び寄せられてしまった大学生たちの中にも、民俗学を研究する学生がいましたね。

 村に伝わる因習や、それに伴う来訪者たちの惨死よりも、村の共同体のあり方に恐怖しました。学友たちを村にただならぬ意味で招いたペレは、村人たちを“家族”と例えます。その言葉そのままに、村人たちも来訪者たちも一つの建物の中で寝泊まりして、食事も全員が一緒です。

極めつけは中盤のアレコレのシーン。2人だけで秘めておきたい“行い”も皆一緒!笑 ここらへんで「この映画、応援上映に向くのでは…!」と思ったら、ネット上に同じことを考える人が多くて笑いました。老若男女皆で喘ごう。

個人的にはここが怖い

 彼氏(一応)の決定的な裏切りを前にして、主人公のダニーは崩れ落ちます。それまでに少しずつ「二人の仲はもうだめかもしれない…いや、勘違いかも…、いや…?」と怪しいシーンが積み重なっていましたが、キメた彼氏がそのまま一線を越えちゃった…さよなら。泣き叫ぶダニーに寄り添った村人たちは、ダニーと一緒に泣き転げてくれます。

 ここで、72歳の儀式のシーンも納得できました。例のおじいさんが死に損ねた時、村人たちが一斉に嘆き悲しみます。村人たちは儀式の失敗による何らかの不幸を恐れたのかと思いましたが、これも感情の共有(おじいさんの苦しみに対する)だったのでしょう。そして、おじいさんにとどめを刺した後はぴたりとそれらが止むことから、確信します。

 村人たちに個は無く、ホルガ村という一つの生命体の、うち一細胞にすぎないようなあり方をしています。72歳になったら名前を次の世代に継承させて自ら命を絶つというのも、死に対して機械的でそこに感情はなく、あたかも村の新陳代謝のようです。死すらも村の共同体の中で掌握されており、自由はありません。その閉鎖的で密接すぎる村の共同体に、村外の人間の感性的にはリアルな嫌悪感を抱かざるを得ません。プライバシーなぞ存在しねぇ!しかし村人たちにとっては当たり前の価値観であり、常時キメているのもあってかそこに疑問を抱く者はいないのでしょう。

逆の逆で逆にハッピーエンド

 村の儀式は滞りなく進行するし、ダニーは新たな“家族”を見つけてハッピー!わ、ハッピーエンドだこれ!

しかし思い出すと、意味ありげに映った過去メイクイーンたちの写真やメイクイーンが何やらナイフで己を刺してる壁画。そして、過去にメイクイーンをやったであろう人間が全く登場しないこと。暗雲どころか真っ黒です。九日間の夏至のうちの全てが映画に収められているわけではないので、きっとこの笑顔のシーンの先に…。でも主人公たちの描写が並べていけ好かなかったので、あまりそこに悲壮感がありませんでした笑 体感、娯楽映画でした。