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思い込みによる価値感と、そうでない価値感のぶつかり合い

 世の中で起きている様々な事柄について、私達の判断の根拠が、極めて自分勝手なことが良くあります。

 話は飛んでしまいますが、言論の自由がある「自由主義社会」で生きる人々と、言論統制されている「独裁国家」の中で生きる人々では、与えられている自由も情報量も、またその正確さも格段に違います。そうした中で、体制の異なる国で生きる人々同士では、正しいとか、正論(せいろん)とか言っても何の意味もなさない状況になっています。

 代表的な例では、日韓関係。韓国は独裁国家ではありませんが、この国の人々は、戦後の韓国政府の行って来た反日教育の中で、国民全体に嘘の歴史を刷り込むことが日常化し、嘘と真実の区別さえ付かない状況になっているようです。是れでは、議論は成り立たない。

 世界には、国家体制や歴史的経緯の中で、歪な意識が醸成されてしまった人々もあれば、独裁体制の下で自由のない悲惨な環境に置かれている人々もいます。

 そうした中で、ある国の人々は、情報入手に制限をかけられたり意図的に歪められた情報を与えられ続ける。一方で、溢れんばかりの情報に接することが出来る人々もいる。そうすると、良かれ悪しかれ、それぞれが置かれた環境下で、正しいか正しくないかは別にして、それなりの価値観が培われてくるわけです。独裁国家に拠る洗脳教育、宗教による洗脳、更には個人崇拝による自己洗脳。

洗脳からぬけだすことは容易ではないといわれているように、思い込みによる価値感と、とそうでない価値感がぶつかり合ったところで、答えは出ません。

 今回の東京オリンピックの選手村で、韓国選手団が反日活動とも言える政治的アッピールを行ったことも、日本人としては納得できませんが、彼らにとっては、別の感情から動いてしまうのでしょう。

難しい問題、時間の経過が解決するのでしょうか。