「省略を補う」ということ

二重敬語のような言い方になるが、あるワンシーンを考えてみる。英文法の穴埋め問題。設問は4択の中から適切な語句を選ぶ場合もあれば、直接単語を記入する場合もある。

例えばこんな感じ。
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[例題1]
A man is known(  )the company he keeps.

① with ② to ③ for ④ by
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この諺を知っている人ならば、選ぶまでもないはずだ。なぜなら、自然と頭にその単語が浮かんで( )を埋めるという思考そのものが消え失せるからだ。中3の学生で成績がそこそこいい者は「be known to 〜」という表現を連想して②を選ぶかもしれないが、ここでは「問題が解けるかどうか」ということそれ自体は問題にしていないのでとりあえず話を進めよう。

言うまでもないが、[例題1]のような問題においては「選択肢を( )に1つ1つ当てはめて解く」という方法論はない。(英文法を勉強している学生諸君の中で、万一このような解き方をしていた人がいたら要注意!)「反応すべきところに反応し、手が自動的に動く」というような勉強をしないと英文法は永遠に身に付かず、実践(=本番の試験)では役に立たないだろう。

ここでわざわざ英文法の穴埋め問題を提示したのは、何もそれが「省略を補うこと」の隠喩的な例示に留まっているわけではないからだ。

「間を埋める」という行為を連続的に行えば、数学でいうε-N論法ではないが、不連続点はその度に現れる。(例えば、本を読んでいて「なぜ筆者はこの人の言葉をその箇所(文脈)で引用したのか?」を知るためにその書籍を読んでから再度考えてみても、またさらに別の疑問が出てくる場合など。)
そのため、どこかで折り合いをつけなければならないと言えば確かにそうなのだが、「間を埋めようとした」のかどうかは自分の脳内に軌跡的に残る。
そして「省略を補う」ことを日々意識的に行なっていれば、必ずどこかで「隙間に気づき、その間を埋める」方法が何となく”体で“わかってくる。
ここで重要なのは”体で“という体感的な要素である。
それは「間を埋めようとした」者にしか受益されず、しかもその方法が「事後的に」分かる。
「事後的に」というのは、継続的に省略を補わんとしているうちに“そんな方法があるとは知らなかった”ようなものが身体的な帰結として(結果として)感知されるということである。
このプロセスは、ある種の修業に近いかもしれない。

「省略を補う」のは、日々の訓練であり、習慣である。

どのように省略を補うか。これは、

・具体的にはどこに反応するのか?
・また、その適切な形(英文法の穴埋め問題ならば、品詞や時制、単数複数、文脈などを考慮した語句)として、自分だったら何を入れるか?

を考え、手を動かすということである。

確かめ算(=問題を解いた後の答え合わせでのチェック)ができる場合は、そこに至るまでのプロセスや思考過程そのものを推敲するという姿勢が重要になるだろう。英文法の穴埋め問題ならば、答え合わせをする前に問題文全体を通してその答えが「合っている」と答えを見ずに確信できるような見方ができて、そのまま「グルっと赤で⭕️をしたくなるような衝動に駆られる」のが望ましい。(指導を受けた子なら分かるよね?)

【ここからは余談?(ちょっと脱線してるかも)】
他の内容を投稿しても他の言葉を使ってもよかったのだ。では、なぜその投稿が行われるのか?そこには多少の主観的なでこぼこはあるけれど、その時に言語化された状態を反映している。「これを口に出さなくもいいんだけど、言いたい」という状態を。私たちはそこから出てきた言葉で武装し、内省的な観点で見れば、そこで意識的あるいは無意識的に出てきた言葉から「自分は一体何を考えているのか?(あるいは、自分は何に反応しているのか?)」を考える。もしくは脳内で「その糸口をつかもうともがく」プロセスが先行している。

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