1章(3);翌朝の話


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あるところで出会った、かわいらしいおんなのことかわいらしいおとこのこは
いつしか仲良しになり
いっしょの時間をすごすことになりました。
夜はいっしょにねむりについて、
朝になると、いっしょにごはんをたべました。


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コーヒーのにおいがして、美咲は目を覚ました。
まぶしい。
窓から差し込んでいるらしい陽の光をさけようと枕に顔を押し付けると、
あまりかいだことのない男のにおいがした。

(……ここどこだっけ)

馴染みは無いけれど、心地いいにおいだ。

きぃ、と軋んだ音が聞こえた。
まだうとうととしていたい気持ちを堪え瞼をあけて、音のするほうに顔を向ける。
安そうなスウェットのズボンに、安さとシンプルさとが売りの、インナーで有名な某店にでも並んでいそうなシャツを羽織っただけの
ほとんど半裸の男の後ろ姿がそこにあった。
色素の薄い髪が朝日にあたって綺麗に茶色く見える。
男が少し身じろぎしただけで、椅子は音を上げた。
カップを片手に、美咲に背を見せて机に向かっている彼は、
どうやら何か仕事をしているらしく、パソコンの画面に目を落としている。

安そうな服。
安そうな椅子。机。
男の、せっかくの綺麗な形が少しもったいない。

(あー……ここ、真崎さんの部屋だ)

「おはよー」

美咲が身体を起こして声をかけると
「うわ、おはようございます」
勢いよくマサキが振り返った。

「……とりあえず、何か、羽織ってください」

「自分だって半裸じゃん」

そう答えた美咲自身は、けれど半裸どころか、全裸でシーツにくるまっているだけだ。
脱いだ洋服を探すのが面倒でそのままぼーっとしていると、
マサキがクローゼットからTシャツとパーカーとを出してきて差し出した。
大人しくそれらを身につけてから、下半身はシーツの下にしまったまま、
美咲は取り急ぎといった風に下着を探す。
見つかった下着を身につける間、マサキはずっと後ろを向いていた。
美咲自身は気にしていないのに、
だいたい昨夜すでに裸なんて十分に見せ合っているというのに、律儀な男だなと思う。

「お腹すいてませんか?
 あの、スープとか、目玉焼きとかトーストとか、
 あとはチャーハンくらいだったらすぐに作れますけど……」

「え、朝ご飯ご馳走になっちゃっていいの?」

もちろんです、とばかりにマサキは頷く。
なんだか忠実な犬のようだ。

「……じゃあ、目玉焼きとトースト。
 ハムかベーコンあったら、私作るよ?」

「え」と一言発したまま、
マサキがなぜか顔を赤くして固まった。
どうしてそんなことになったのかはわからないけれど、可愛いなと思った。

「じゃあ……」

美咲がベッドから起き上がると、コーヒーのカップを持ったままマサキは美咲を案内する。
キッチンは1階、カフェフロアのカウンター奥にある。
カフェの厨房と一緒になっているのだ。

カーテンの開けられたカフェフロアは明るい。
一面全部が窓のようになった壁面があって、窓からは中庭が見える。
寒そうだけれど、外はよく晴れている。
夜のうちに降った雪が、葉の先や隣家との境の塀などのちょっとしたところにつもっていて、
日の光を反射していてまぶしい。

「入っちゃっていいの?」

マサキの飲みかけのコーヒーをもらいながら訊ねると、
「本当はダメですけど、なんかもう、今は、いいです」と言われた。
何それ、とケンカごしにマサキの顔を仰ぎ見たけれど、
マサキはどこか嬉しそうだったから、美咲も大人しく後に続くことにした。

「真崎さん、早起きなんだね。私まだ眠いよ」

綺麗に整頓されたキッチンで、どこに何が置いてあるのかを確認しながら言うと
「あ、美咲さんだだ大丈夫ですか?」と、なぜか焦った声で聞かれる。
「何が?」と振り返ると、携帯の画面を見せられた。

「うぁ、もうこんな時間か」

あと1時間もせず昼時になってしまう。
そんなに長い時間寝ていたのかと不思議な気持ちになった。
深い眠りにつくのは自分の家であっても苦手で、いつも微かな物音で目を覚ましてしまうのだ。

「な、何か用事とかありませんでした……?」

心底不安そうにきかれて「あぁ大丈夫、大丈夫」と急いで答えてやる。
時間に驚いただけで、今日は特に何の予定も入っていなかった。

ほっとしたらしい表情のマサキに、ちょうといいタイミングかなと、
美咲は自分の思いを伝えることにする。

「あのね、真崎さん。
 私、真崎さんに2つ伝えておきたいことがあるんだけど」

「は、はい、なんでしょう……?」

フライパンを火にかけながら美咲は言う。

「あのね、できたら、その喋り方やめて欲しいの。
 とりあえず敬語はやめてくれると嬉しいかな。
 だって真崎さん、私より年上じゃない。
 私にそんな丁寧な言葉使うことないよ。
 ……あ、むしろ私が敬語使った方がいいようだったら言ってね?」

電車で出会ったとき、マサキが体つきに似合わない童顔だったせいで、
美咲は彼を年下だと勘違いしていた。
まだ高校に入ったばかりくらいの、3つ4つ下の子どもだと。
そのため彼には最初から敬語を使っておらず、
だから「今さらちゃんとした敬語に変えるのも微妙」という思いがあり、
同年代を相手にするように、普通に話しかけているのだ。

「あ……う、ん。わかった。美咲さんも、敬語じゃなくて大丈夫」

「よかった。わかった」

マサキに応えを返すと「じゃあ2つめね」と美咲は言葉を続ける。
うすく油をひいて、まずはベーコンを落とした。
普段美咲が使っている安売りのものでなく、
差し出されたそれは少し厚みがあって、美味しそうだ。

「あのね、これよく言われることだから先に言っておくんだけど、
 私、やった責任とって付き合ってくれとか、そういうこと言うつもりないから。
 だから、安心して気にしないでいてね」

ガチャン、と音がして振り返ると、マサキが平皿を落としそうになっていた。
驚いた顔をしている。

「え、そ、そうなの?」

「え? 真崎さん私と付き合いたいの?」

むしろ美咲が驚いて聞き返した美咲が
卵を2つ落とし終えるだけの少しの間をあけて、それから真崎は首を横に振った。

「じゃあ、そういうことで。……なんで驚いた顔してるの?」

「いや、だって……。
 付き合えって言われても不思議じゃないなと思って、
 だから、そう言われる覚悟も僕、してたから……
 言われたらどうしようって、考えてたんだ。
 あ、あのもちろん、美咲さんが僕のこと好きになったとかそんな、
 そこまでうぬぼれたこと考えてたわけじゃないんだけど……」

本当に律儀な男だと思った。
落とした卵の焼け加減を見ながら、少量の水を入れてフライパンに蓋をした。
マサキも順調にトーストを焼いている。4枚切りの厚いものだ。

ふいに訪れた無言の時間のせいで、美咲は昨夜のことを思い出していた。

昨夜は、最低だった。

『カフェR』に来る前の時間、一緒に夜ご飯を食べようと約束をしていた男がいたのだ。
男には付き合っている彼女がいるのだけれど、もう1年ほど関係を続けていた。
一緒にご飯を食べて、ホテルか相手の部屋に行って、終電には帰る。
そういう関係だ。
好きとか付き合いたいとか、そういうわけではない。
だから相手に付き合っている相手がいてもいなくても、美咲は気にしないし、
相手も、美咲に付き合っている相手がいようといまいと気にしないはずだった。

「付き合っている彼女に悪い」とか「付き合っている彼女がどう思うか」とかは
相手の男が考えるべきことで、
そして何か、そちらの関係に問題が起きたのであれば
それは相手の男が解決するべきことで、
美咲がどうこうするものではない。
「彼女」のことを考えて美咲との関係をやめたいというなら、そうすればいいだけだ。
美咲はそうなったとしても、怒りも悲しみもしない。
美咲自身は、自身の主義で、特定の相手とは付き合っていない。

美咲からしてみれば、セックスは「スポーツ」だ。
安心・安全に心を配って、ルールとマナーを守って行うスポーツ。
それだけだ。
昨日の男以外にも、もう2人ほど、美咲には「スポーツ」の相手がいる。
その中の誰とも、それ以外の誰とも、美咲は付き合うという関係性をとっていないし、
それでいいと思っていた。
美咲がそう考えていることは相手にも伝えていたし、
基本的には、それで「いいね」と同意を得られた相手とだけ、美咲は「スポーツ」を楽しむことにしている。

美咲には、もう1つ守っているルールがあった。
それは「既婚者は相手にしない」ということだ。
「スポーツ」を楽しむのはいい。相手に、付き合っている相手がいてもいなくても。
けれど「スポーツ」にはいろいろなリスクがつきまとっていて、
美咲は女だから、病気の他にも、妊娠という可能性があるのだ。
病気にせよ妊娠にせよ、何か正式に動かなければならなくなったとき。
相手が既婚者では、とれる対応の幅が変わってきてしまう。
付き合っているだけの「彼女」ならまだしも、結婚しているとなれば、
下手をすれば、「妻」に訴えられてしまうかもしれないのだ。
そんなのはゴメンだ。
そんなリスクは負いたくない。

第一、美咲は結婚を約束だと思っている。
それなのに自分を相手にするだなんて、男は、重大な契約違反をおかしたことになる。そう、美咲は考える。
さすがに「妻」に悪いと思うし、そんな契約違反の片棒を担ぐのも嫌だった。

そのことを、美咲は、ちゃんと伝えていたのに。

気づいたのは食事の最中だった。
最初は「あれ、今日指輪してないんだ」と思った。
けれどそのすぐ次の瞬間、
指輪を嵌める手が変わったのだと気づいた。
右手の薬指から、左手の薬指に。

その意味がわからないわけがない。

婚約でもしたのかと聞けば、
婚約どころか、すでに婚姻届は提出済みだと言う。
美咲は怒った。

「なにそれ。そんな話聞いてないよ。
 私帰る。で、もうあなたには会わない。じゃあね。今まで楽しかった」

結婚している相手とは付き合わない。
最初から、また、折に触れて、伝えていたはずのことだ。
それをどうして無視するのだろう。

殴ることも水をかけることもせずに帰ろうとしたのは、
しかも「今まで楽しかった」とまで言ったのは、美咲の精一杯のサービスだった。
だと言うのに男は、心底から驚いていた。

男は勘違いしていた。
美咲が怒っているのは、自分が結婚してしまったことへの嫉妬なのだと。
「結婚してたって、今まで通り付き合ってやるから」と、そういうつもりでいたのだ。
まさか振られるとは思いつきもしなかったようで、驚き、怒る美咲をなだめ、
それでも美咲の意思が変わらないようだとみると憤慨しだした。

なぜ自分が憤慨される側なのか。
美咲には当然、納得のいかない話だった。
最初から決めていた「ルール」を勝手に、相談もせずに破っておいて、
しかもなぜだか「今まで通り付き合ってやる」と偉そうで、
それを拒めば「理解ができない」と言われる。

男には随分と食い下がられた。
しまいの方には「だから彼氏のいない女は嫌なんだ」とまで言われた。
嫌ならやはり別れるってことでいいじゃないかと美咲は思うのだけれど、
男の理論では、そういう話ではないようだった。
妻持ちの自分と特定の相手を定めていない美咲では、
抱えている想いも見えている景色も違うから、
「だからお前はわかってない、ダメなんだ」ということらしい。
特定の誰かと付き合うという選択を一度もとっていない、という自分の主義のせいで
自分の視野が狭くなっている可能性がないとも言い切れない。
自分で選んでいることではあるけれど、それは小さな、美咲の弱みだ。
けれど。

満足に食事もとらないまま、喧嘩ばかりで時間は過ぎて、
疲れた美咲はとうとう折れた。
下げる必要など一切感じていない頭を下げて、男に別れてもらった。
しかも「男が美咲を振った」という形にして。
男はそれで、やっと満足したようだった。

別れて、一人先に店を出て駅までの道を歩きながら。
情けない気持ちに襲われてしまって、たまらなかった。
それは「別れた」ことに対するものではなく、
自分の男を見る目が曇っていた、ということに対してだ。

どうしてあんなバカみたいな男と付き合っていたのだろう。
どうして今まで気づかなかったのだろう。
そのことが情けなく、そして腹立たしくて仕方がなかった。

マサキに返す鞄を抱えて、痴漢に遭ったばかりの電車に身を滑らせると
やっとで美咲は、店に傘を忘れていたことに気がついた。
髪の先まで濡れていた。
なんだかいろいろなことが面倒になってしまっていて、
濡れるくらいもうどうでもいいような気がした。
試験期間まであと一週間ほどの余裕もあったし、風邪くらいひいたって、どうせ何の問題もないと思った。

店の位置は電車の中で確認した。
『カフェR』は、駅前の大通りを5分ほど歩き、2回小道を曲がればいいだけの場所にある。
道のりはすぐに覚えられた。
コンビニを探して傘を買うことも考えたけれど、それももう面倒だった。

散々な気持ちでたどり着いた『カフェR』は、戸建てばかりの並ぶ住宅地の中にあり、
すでに灯りを落としている家も多い中、優しくあたたかくみえた。
よく見なければ看板すら見落としてしまいそうな『カフェR』の外観は
やはり周りの戸建てと大きな差は見当たらず、
けれど敷地面積だけは周囲よりも倍以上広く、
暗い中でも、綺麗に造られた中庭のような空間が見えた。

オレンジ色に近いやさしい灯りに、少しだけ気持ちを落ち着けられて
美咲は店に入って行った。
ドアの内側も、ほとんど通常の民家のようだ。
普通の玄関があり、左手に階段、正面にはごく短い廊下とドア、
そして右手には、どうやらカフェフロアに繋がっているらしい、全面にガラスの貼られた木製のドアがあった。
間接照明と、強すぎない白色の壁とウッドベースの内装は、美咲のささくれた気持ちを沈めて行く。
温かいコーヒーのにおい。

木製のガラスドアの先、カフェフロアの一番奥にカウンターが見えた。
カウンターの向こうには、たしかに真崎真の姿が見える。
白シャツに黒いズボンとエプロン。
カフェにありがちなスタイルで立つ真崎真の姿は綺麗だと思った。
店の雰囲気に、よくあっている。
まだ距離があるせいで、彼の童顔が見えないからイイのかもしれない。
そんな風にも考えた。

フロアに入ると、美咲を見るなりマサキは固まってしまって、
昨夜同様、そのおどおどとした態度に美咲は苛々としたのだけれど、
食ってかかるには美咲は疲れすぎていた。

入れてもらったコーヒーは美味しかった。
認識していたよりもレベルの低かった男のことも、
おどおどとしたマサキの態度も、とりあえず気にならなくなってしまうくらい、その1杯は滲みた。

「だからかな」と美咲は考える。
だからきっと、帰りたくなくなってしまったのだ。

傘を持っていなかったのも、
美味しいとはいえ空きっ腹に入れたコーヒーのせいでタクシーでは酔ってしまう可能性があったのも、本当だ。
それらがひどく美咲を億劫な気持ちにしていたのも。
けれど、あんなに言ってまで泊まる必要なんて、落ち着いて考えてみれば一切なかった。

さらに言えば。
マサキと寝たのは、言ってみればストレス発散のようなものだったと思う。
意地をはるようにして、あんなに自分から迫ってまでする必要なんてなかった。
一昨日の車内で、いつもの癖で想像した通り
マサキの身体は見ていてうっとりするほど綺麗な形をしていたし、
実際に触ってみれば
すっきりとついた筋肉の触り心地は非常によかった。
行為自体も。
だから美咲自身は、昨夜のことに関しては全く後悔していないのだけれど、
マサキには少し悪いことをしたと思う気持ちがある。

同意と言えば同意だった。
けれどたぶん、昨夜の自分は強引すぎたし、
今朝、今になって話したようなことは、する前にしておくべき話だった。
反省だ。

「……真崎さん、ゴメンね?」

そう考えて美咲は素直に謝ってみたのだが、当のマサキは
「え? な、なにが」と、逆に謝ってごめんと謝りたくなるほど困惑しているから、どうしていいのかわからない。
まぁ、きっと別に問題なかったってことだよね。
そう納得しておくことにする。

ベーコンエッグにトースト。
それにマサキはコーヒーを、美咲は、最近マサキがハマっているというコーンクリームスープをつけた。
トーストにはバターを薄くのばして、蜂蜜をたっぷりとかける。
そうして2人は、カウンターに並んで朝食をとった。
美味しい。

このとき、時計はすでにオープンまであと10分のあたりをさしていた。

「ね、開店の準備しなくて大丈夫なの?」

なぜか照れたように、ふわりと笑ってマサキは言う。

「美咲さんが寝ている間に、一通り終えちゃった。
 店長たち帰ってくるまでは、料理も、乾きものばかり出すことにしているし。
 だからあとは、看板出すだけなんだ」

マサキの喋り方はゆっくりだ。
このとき美咲はおそらく初めて、マサキがつっかえたようにならずに話すのを聞いた。
低すぎない、耳にやさしい声。
これで彼の顔が童顔でさえなければいい感じなのにと、
もったいない気持ちになる。

話し方もゆっくりだけれど、
マサキは食事をとるのもゆっくりだった。
昨夜の行為はどうだったかと美咲は思い出そうとするけれど、
それは結局、他の男と彼とを比べる行為になってしまうので途中でやめた。

トーストを少し残したまま、マサキは看板を出しに一度席を外した。
その後フロアには入らず、玄関から続く廊下の奥にある脱衣所で
白シャツと黒ズボン・エプロンという格好になった。
その格好になるとマサキは、少し背筋がのびたように見える。
マサキの様子を見て、そろそろ忙しくなってくるのかと美咲は考えたけれど、
「あの、すぐにはお客さん、たぶん来ないから」と
マサキはまたすぐに戻って来て、食べかけだったトーストに手を伸ばす。
ただし今度は、美咲の隣ではなくカウンターの向こうに入った。

「その格好、似合ってるね」

別にほめたわけではなく、ただ事実を言っただけだ。
けれどマサキは本当に嬉しそうに、
そしてやっぱり、照れたように笑ってみせた。
そして「よかったら」とコーヒーを出してくれる。
客に出す用のものではなく、少し前まで奥の厨房にあったインスタントのものだ。
美咲には、はにかんだようなその様子はとても新鮮なものだった。
ちりちりと身体の奥の方を撫でられるような、懐かしさのような感情がわいてくる。
それからなにか、たまらないような気持ち。
顔がにやけてしまいそうな。
もしかしたら、これが「萌え」という気持ちなのかもしれない。
わからないけれど、芽生えた感情に美咲はそう名付けることにした。

遅いブランチを終えてしまうと、マサキは提供する品物ストックの最終チェックに入ったようだった。
作業を進める手つきは意外にも速い。忙しそうだ。

「何か手伝おうか?」

「あ、いや、えと、もうオープンしてる時間だし、その、
 カウンターの中には、お客さんは入れられないから。ごめん」

「あーそっか、そりゃそうだよね。私こそごめんなさい」

手持ち無沙汰になった。
別にこのまま、「じゃあ」と言って帰ってもよかった。
けれどカフェのオープンの様子を見るのは初めてで美咲には新鮮だったし、
せっかくの休日、もう少しゆっくりとした時間を楽しみたかった。
無言で見つめている美咲の様子にマサキも気づいていて、
最初はそれになぜか緊張しているようで身体を固くしていたけれど、
その様子も、作業を進めるうちにほぐれていっていた。

窓の外の、雪のせいでキラキラしている景色を眺めながらしばらくそうしていると、
ちりん、と小さな音がなった。
入り口からだ。誰か客が入って来たらしい。

「マサキさーん、おはよー」

笑顔で入ってきたのは、短い黒髪の長身の男だった。
細いつり目のせいで柄の悪そうな印象を受けたけれど、マサキに向けられた笑顔は明るかった。

「あぁ、ヒロキ、おはよう」

「ってあれ、今日俺、一番乗りじゃないの? めずらしいな」

自分を見て向けられた言葉だということがわかったから、
美咲も振り向いて、無言のままだったけれど、一応ぺこりと頭を下げておいた。
怒ってはいないのだろうけれど、笑顔をひっこめたヒロキの顔は
やはり少し怖かった。

「……」

ヒロキは無言のままカウンターに歩み寄り、一番端の席に座った。
美咲との間には、一人分の席を挟んでいる。
彼の座り方はなんだか慣れていて、おそらくその位置は彼の所定席なのだろうと思った。

妙に落ち着き払った様子で席に着いたヒロキは、美咲の正面あたりに置かれたままになっていた
トーストとベーコンエッグ、そしてコーンスープとコーヒーの空き皿を見つけて
ガタン、と音を立てて立ち上がった。
彼が自分の方を見ているから、美咲も視線を向け返した。

「何か?」

「この人、マサキさんの彼女?」

美咲の方を見たままだったけれど、ヒロキの言葉はマサキに向けられている。
言われたマサキの方は、磨いていたスプーンをガチャガチャと取り落とした。
「あー、あーしまった!」
焦ってそれらを拾っているマサキに配慮して、ヒロキの問いには美咲が答える。

「違いますよ。彼女じゃないし、友だちでもないし。知り合ったばかりです」

しかしヒロキは、その回答には納得していないようだった。

「じゃあ、それなに」

指差された先にあるのは空き皿たち。

「今この店、そんな料理っぽいもの出してないだろ。
 コーヒーが残ってる方のカップ、それマサキさんのだけど、
 普段奥で使っててフロアに出して来たりしないヤツじゃん。なんで出てんの」

「あぁ、そうなんだ」

このヒロキという男、随分と詳しいなと思う。
美咲は単純に「へーすごいよく知ってますね」と言うけれど、
その物言いがヒロキは気に食わなかったらしい。

「つかね、俺が一番のりじゃないとか、めずらしすぎてそれも驚いてるんだけど。
 あんたさ、もしかして、店開く前からここいたんじゃないの?」

怒ったように言われた。
その言い方、私に失礼じゃない?
そう感じた美咲の口調もやや荒くなる。

「だったら何?」

言われたヒロキは、細い目をさらに細くして椅子に座り直した。

「あんた、マサキさんのファン?
 店開く前からいたって、泊まったってことだよね?
 ハッキリ聞くけど、マサキさんとやった?」

「おい!」

聞いていたマサキが仲裁するような形で怒った声を出したけれど、美咲は意に介さない。

「ファンてなによ。違うし。ホレてもないし。
 泊まったし、やったけど、だから、だったら何なんです?」

「店長たちがいないのをいいことに、あがりこみやがって!
 マサキさんになにしてくれてんだ!」

「お前関係ないだろ!」
「あんたに何か関係あんの?」

マサキと美咲とは同時に言うけれど、
「関係ないとか言うなバカ!」とヒロキの方がよっぽど怒ってマサキに言い返した。

「……あんた真崎さんのこと好きなの?」

「大好きだよ。だから俺はマサキさんに変な虫がつかないかどうか心配で心配で」

「保護者みたいな言い方すんな!」

マサキは「関係ない」と言ったことを謝りつつも、ヒロキへの突っ込みは忘れない。
「大好きだ」とキッパリと言い切ったこのヒロキという男、
真崎のことが大好きだというのは間違いないようだが、
それが真崎にホレているのか、
それとも本当に家族だか保護者だかのような気持ちなのだかは、
美咲にはいまひとつ判別がつかない。

「なんで? ファンじゃなくて、ホレてなくて、
 それでなんでマサキさんと寝るとかそういうことになってるわけ?」

判別はつかなかったけれど、
失礼な物言いも「大事な人」を大事に想う気持ち故なのだ、と考えれば
少しは怒りもおさまる。

第一、昨夜のことに関しては美咲にはやはり少し、負い目に思う気持ちがある。

「えと、……ちょっと嫌なことあって、ストレス発散、的な……」

付き合わせちゃってちょっと申し訳なかったかな、とは思っているのだと付け加えれば
「僕の合意の上なんだから申し訳ないとか思う必要ないよ」とマサキが庇いに入ってくる。

その様子を見て、どんなことを思ったのか、
少しは落ち着いた様子でヒロキは席についた。

「……あのさ、ちょっと嫌なことあったとか、ストレス発散とか、
 したいときもあるよな。で、セックスとかまぁ、手っ取り早いよな。
 それはわかった。つーか、わかる」

「あ、わかる?」

「わかるよ。うまいもん食って、うまい酒飲んで、
 ぜーんぶ愚痴って吐き出して、で、最後に一発やってスッキリ! みたいな」

そう。そうしたくなるようなことが、美咲の生活の中にはたくさんあるのだ。

「わかったから、でもそれにマサキさんを使うのはやめてくれない?
 スッキリしたくなったら、俺のこと使ってくれてもいいからさ」

「お前やめろ!」

そうマサキは言うけれど、ヒロキは続けた。

「俺ね、そういう仕事してんの。
 エロ方面って話じゃなくて、ストレス発散したくなった時に付き合ってやるみたいな仕事。
 エロ的な仕事になることも多い訳だけど」

「へー!」

そんな仕事があるのかと、美咲は興味津々だ。

「そんな仕事あるんだ。あなたいくつ? 私とあんまり変わらないと思うんだけどなー。
 どこで見つけた仕事? そんな面倒そうな仕事してるなんて、あなたしっかりしてるんだね」

「19だよ」「あ、一緒だ」と、2人は急に意気投合し始める。

「……ヒロキ、たのむから、それはやめて」

「なんで?」

一転してヒロキはマサキに向けて目を細める。

「だいたい、俺がそういう仕事するといつも嫌がってんのマサキさんのほうじゃん。
 そのマサキさんがなんで俺とおんなじようなことしてるわけ?」

「だから、僕は仕事としてやったんじゃなくて合意だったんだってば」

「俺だっていつも合意だよ。違うのは仕事だってだけの話で」

2人が言い争いを始めてしまったので、美咲は冷めはじめてしまったコーヒーを口にする。

「お前、だってやりすぎなんだよいつも。
 仕事に一生懸命なのはいいけど、もう少し自分の身体くらい大事にして欲しい。
 で、美咲さんのことも巻き込むな。
 ついでに美咲さんのことも大事にしろ。都合よく客にすんな」

「自分大事にしろとか、それはお互い様!
 マサキさんだっていっつもクタクタになってんじゃん!
 あんなの自分大事にしてるって言わないじゃん!」

「僕のは疲れてるだけ!
 お前、だって時々すごいケガとかしてくるじゃんか!
 あのケガ見てるこっちの身にもなれって!」

「だから、それもお互い様!
 あんなぐったりしてるマサキさん見てるの心臓に悪いんだよ!
 だいたい、俺は大丈夫なんだ。マサキさんだって知ってるだろ」

「それにも限度があるって言ってるんだよ」

(なんでこんな痴話ゲンカ見せられなきゃいけないのよ……
 つか2人、何? どんなハードな仕事してるんだろ……)

冷めてしまったコーヒーは、あまり美味しくない。
なおも続く2人の言い合いを
「ね、真崎さんホットのカフェラテお願い。Sサイズで」
と言って遮って、美咲も割って入る。

「ねぇ、えと、ヒロキさん?」

「ん? あぁ、なんだよ」

「美咲です。よろしく。
 あのさ、ヒロキさんのそのお仕事って、頼んだら高い? お金かかるんでしょ?」

「あぁ、まぁ。
 死ねとか指落とせとかそういうんじゃなければ何でもやるし、
 それなりにもらうことにしてるよ」

「じゃあ、私ヒロキさんはいいや」

「美咲さん、あんまりお金ない人? つかタメだもんな。普通そんな大金ないか。
 いいよ、真崎さんの知り合い割引で安くしとくよ。90%割引くらい」

それは贔屓し過ぎだろうと思うけれど、本人がいいならまぁいいだろうと、そこは放っておく。

「お金はないのは本当なんだけど。
 何て言うか、別にお金払ってまでやる必要がないのよ。
 ……ね、ちょっと私のこと見てみてほしいんだけど」

言われてヒロキは、まっすぐに自分に向き直った美咲を見る。

「どう見える? とりあえずパッと見の感じ」

「えー? えーと、
 髪黒い。背ぇ小さい。ちょっとキツいけど目はでかい。肌綺麗。
 まぁ全体的に、ちまっとしてて可愛い感じ? 喋らなきゃ真面目そう」

「そうなの。で、胸大きいし、お尻の形もいいし、足も細いの。
 ついでに喋るとこれだから、もれなく“ギャップ萌え”つきなの」

「なんだ? 自慢か?」

「違うけど、そう思ってもらってもいいよ。
 つまり私さ、顔も身体もけっこういい感じなのね。モテるのよ。
 だからわざわざお金払わなくても、別に相手には困らないの」

あーなるほどなーと、ヒロキは納得したようだった。

「じゃあいいや、別に客になってくんなくても。
 でもマサキさんでストレス発散すんのはもうやめてほしいんだよなー。
 だってマサキさん、本当にいい人なんだよ。俺の恩人なの。
 マサキさんと相思相愛だとかって言うならまた違うけど」

「相手には困らないけど、私だって選びたいのよ。
 だって真崎さん、いい人そうだし、安心な感じするじゃない。実際そうだったし。
 見た目もいいし、気持ちいいし。
 っていうか、“相思相愛なら違う”って、やっぱ付き合ってればいいってことなの?」

「いや、付き合うくらいの覚悟を持ってやってくれって話。
 あんたがマサキさんと付き合いたいって言っても、
 本当にマサキさんに釣り合うかどうかってのはまた別だけどな」

「だから、お前僕の何なんだよ」

「付き合う覚悟」という言葉。
言われた美咲は、ふと、昨夜別れた男のことを思い出す。
付き合っている相手がいないから、自分は視野が狭いのだと言われた。
だから「わかっていない」のだと。

そうなのだろうか。
誰かと付き合ったら、何かわかるのだろうか。
何かかわるのだろうか。

(……これ、もしかして何かのタイミング?)

気になったらとりあえず言う、やってみる、というのを信条にしている美咲は、
自分の思いつきを大事にしていた。
今まで、よくわからなすぎてあえて選ぶのを避けていた“誰かと付き合う”ということ。
それに関する話題が、考える契機が、昨夜から溢れている。
これは、この感じは、
人生で一度くらいそういう経験してみるのもいいのではないか、という、
そういうことなのだろうか。

そういうことのような気がした。

「……ねぇ真崎さん。
 急なんだけど、私と付き合わない?」

「……え?」
「はぁ?」

ヒロキは再び目を細めて睨みつけて来たが、美咲は気にしなかった。

「ね、今おつきあいしている人、いないんでしょ?
 私と付き合ってみるとかどう?
 意外と楽しいと思うんだけど、どうだろう」

「え、だ、美咲さん付き合う気ないって言ってたじゃん」

「うん。なかったんだけど、気が変わったの。
 マサキさん、私のこと嫌い?」

「嫌いではない、けどそんな、本当に急な話……
 っていうか美咲さんだって、別に僕のこと好きな訳じゃないでしょう」

「うん、そうなんだけど。
 でも付き合ってからお互いを好きになっていくっていうのも、なんかいいよね」

「それはそうだけど」

昨夜からのこの数時間で美咲は、
どのような言い方をすればマサキが弱くなるのか、わかってきていた。

「私、誰かに付き合ってくださいって告白するの初めてなんだ。
 あー、すごく緊張する」

「うそつけお前緊張とかしてないだろ!
 ふざけんな誘うならせめて俺にしとけよ!」
ヒロキの言葉は無視した。
別にヒロキでもよかったのだけれど、
美咲は「勝負するなら勝ちにいきたい」タイプだ。
マサキの方が、自分には適している気がしたのだ。

「断られたら悲しいな。
 もう、断られるのが怖くて恋愛とかできなくなっちゃうかもしれないな。
 ダメだったらどうしよう。
 ねぇ真崎さん、どうかな? 私なんかと付き合うなんてできない?
 やっぱり、付き合ってもいない相手とやっちゃうような子はイヤ?」

言い方というよりは、脅迫の仕方、と言ったほうが正しい。
それは美咲も自覚していた。
けれど、経験はないけれど、自分と付き合ったらきっと、彼も楽しんでくれるだろう。
不思議とそんな自信もあった。

ともかくは「誰かと付き合う」という経験を、今、自分はしてみたいと思っているわけだし、
その相手として、マサキは最適なような気がした。
楽しくなかったり、不都合が生じたり、マサキが本心から別れることを望んだなら、
そのときはキッパリと別れればいい。
それだけの話だ。

「美咲さんお前卑怯だ……」
ヒロキはそう言ったけれど、「あんたは黙ってて」の一言ですました。

マサキは泣きそうに困った顔をしていた。
こんな顔をさせて悪いなと思う気持ちと、
この人可愛いなぁと想う気持ちとがわきあがる。
そして美咲の中では、後者の気持ちの方が強い。

「ね、真崎さん。どうかな。
 ううんお願い。私とお付き合いしてください!」

そうして手を差し出すと、
しばらくの間、マサキは固まっていた。
美咲もさすがに自信をなくしかけ、不安になってきたころ
ようやく、彼は手を差し出した。

「……はい。よろしくお願いします」

水作業もしていたせいで冷えていたけれど、
美咲の手をすっかり包み込んでしまうマサキの大きな手は心地よかった。


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仲良しになったかわいらしいおんなのことかわいらしいおとこのこは
これから先、もっともっと仲良しになっていこうと約束しました。
2人、いっしょに手をつないで。
それから2人は、季節がぐるっと一周するあいだだけ、たのしい時間を過ごします。
その後には別れの時間が訪れますが、
それはまだ、もう少しだけ、先のお話です。


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(to be continued...)

#小説

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