2章(2);彼女の呪いの話

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あるところにすんでいたかわいらしいおんなのこは、
まるで自分は呪われたような体質だと思っていました。
おんなのこがそのことに気づいたとき、
彼女はまだ、ほんのちいさなこどもでした。

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目の前の男は、心底不思議そうな顔をした。

「そんなに驚くこと?」

「いや、そりゃそうだろ。
 だって美咲、誰かと付き合うとかしない主義つってたじゃん。
 え、あ、じゃあそいつ美咲の初めての彼氏ってことか!」

「はじめてにこだわんのやめなよ気持ち悪い」

目の前の男、雄大は、美咲の関係している相手の1人だ。
一番付き合いが長く、一番付き合いやすい相手。
もう3年ほどになる。
雄大は彼女持ちだが、大抵は半年ほどで相手を変えている。相手を変える頻度は美咲と近い。
そんな中、3年も関係を続けているのだから、お互いに腐れ縁のようなものを感じていた。

雄大は世間的には、あまりよくない意味で「性行動が活発」と呼ばれるような存在だったけれど、
そこさえ除けば、たいそうできた男だと思っている。
そしてそのポイントを美咲は全く気にしていないのだから、
美咲にとっては純粋な、ただのたいそうできた男だ。

「でね、そんなわけなので、これからうちらどうしていこうかと思って。
 相談ていうか、話し合いしたくて呼んだのよ」

「話し合い?」

少し神妙な顔つきを作って美咲は頷く。

「私は相手が彼女持ちでも彼氏持ちでも関係ないじゃん、て
 今まで考えてやってきたけど。
 こうなってみると、ちょっと考えなきゃいけないのかと思って。
 要は、雄大は“彼氏持ち”を相手にしてもイヤじゃないかってことよ」

雄大以外の相手とは、すでにこの話し合いをすませていた。
どの相手も、「彼氏ができたなら」と言って、美咲との関係に終止符を打つことを望んだ。
なんだそりゃ、と拍子抜けする気持ちだった。
別に美咲の何が変わったわけでもなく、ただ「付き合う」という関係の相手ができただけだ。
どうして美咲自身でなく、「美咲の男」を考慮しての選択になるのだろうか。
文句を言うつもりもないけれど、少しがっかりしたのも本音だ。
あの終電事件の翌日の「いつの間にか既婚者」男の時と同様、
やはり自分は、あまり人を見る目がなかったのではないかと思えてくるほどだ。

「いや、美咲はどうなんだよ。
 その相手、えと、真崎氏はどう思ってるの?」

「……」

他の男がそんなんだったから、
雄大がとてもしっかりした人間に見えてくる。
そうだ、その言葉なのだ。自分が待っていたのは。
勝手に遠慮したり考慮したり決めつけないで、こうして聞いてほしかった。

「……それが、ちょっとわかんないのよね」

とはいえ、聞かれたら聞かれたで、
美咲は答えを持ってはいなかったのだけれど。

「私ね、やっぱよくわかんないの。
 彼氏だったら一般的には他に相手いたら気にするんだろうなとか想像はできるけど、
 私自身は真崎さんにそういう人いても、別にいいしさ」

「本人に聞いてないの? 彼氏さんはどう思ってるんだよ」

「……あんまりどうも思ってないかも。わっかんない」

「なんだそれ」

付き合うという関係を持ったことの無い美咲は、
いろいろとわからなすぎて、思いきって、本人に聞いてみたのだ。
少し配慮に欠ける質問かとも思ったけれど、
配慮のなさで言えばその問いかけは、
付き合うことを決めた段取りよりはまだマシなはずだった。

世間的な考え方を知らないわけではなかったから、
聞きづらい質問ではあった。
けれど付き合うと決めた以上、そこのところはハッキリさせておくべきだと思ったのだ。

もし、自分以外の人間とは関係をやめてくれと言われていたら。
「やはり自分とは合わない」と結論して、マサキと付き合うことはやめていただろう。
逆に「どうぞどうぞどうぞ」という感じであれば、
やはりむしろ他の男たちと同じように、「付き合う」というなんだか面倒そうな関係にしなくてもいいだろうと考えていただろう。
そして正直なところ美咲は、そのどちらかの反応になるだろうと思っていたのだ。

けれど返って来た言葉は
「美咲さんはどうしたいの?」というものだった。
美咲は答えられなかった。
自分から聞いたのに、自分の考えを整理できていなかった。
自分から「付き合おう」と言ったのに、そうしたくないかのような返答ばかり想定していた。
我がことながら、甘えていたなと思う。
そして雄大に話をしにきた今になっても、やはり今ひとつ、
自分の感情をつかみかねている。

「相手がいいって言ってんなら、別にいいんじゃないかと思うけど。
 でも、せっかくの“初めて”だしな。
 一回、彼氏以外とはやらない的な生活にしてみてもいいんじゃないか?
 で、それじゃやっぱイヤだってなったら
 それはそん時また考えればいいんじゃないかと。
 俺はそう思ったけど、どうよ」

「あー……そうだねぇ。それもそうかも。
 雄大はそれでいいの?」

その質問は心外だ、と言った顔で雄大は眉を寄せた。

「別に会わなくなるとか縁切るとか、そういうことじゃないんだろ?
 とりあえずヤリませんってだけで。それなら別にいいよ。
 セックスがなきゃ美咲といる意味ないとか、そういう関係でもないだろ」

「……そっか。そうだよね」

美咲はあらためて目の前の男を見つめる。
雄大に関してだけは少なくとも、自分の見る目は間違ってなかったなと思う。
イイヤツだ。
しばらくこのイイヤツとやれないのかと考えると惜しいような気もしたけれど、
せっかくもらったアドバイスだし、
自分にとってはせっかくのめずらしい機会なのだから、
「やっぱあんたとやれないの寂しいかも」と思ったことは伝えずにおいた。

「バレンタインのチョコくらいならあげるよ?」

「いらね。俺甘いもん苦手」

そんなこと、分かった上での提案だった。
だって、なんだか少し寂しかったのだ。
ただの感傷だ。

まぁこれからもよろしく、と言い合って、
なんとなく雄大には缶コーヒーを奢ってやって別れた。

たしかに、関係性が少し変わるだけで、会わないと決めたわけでもなくて、
けれど今まで美咲と雄大とが顔を合わせある機会と言えば
大抵は夕食の後の行為とセットだったりもしたから、
しばらくは会う機会をつくるのに苦労しそうだと、1人歩きながら美咲は考える。

雄大は、貴重な「男」だ。
彼以外の、美咲にとっての多くの「男」は、ほとんど例外なく、
「女」である美咲に対しての欲ばかり持っている存在だった。
物心ついた時からそうだ。
だから、人口のおおよそ半分はいる「男」と何らかの付き合いを持つということは、
美咲にとっては「身体の関係を持つ」ということとほとんど同義だった。
屈折しているような気もするけれど、
そうとしか認識できないのだから、仕方がない。

美咲は自分のことを、呪われたような体質を持っている人間だと思っている。
自分だけがそうなのか、
みんなは気づいていないだけで全ての「女」がそうなのか、
もしくは気づいていて、けれどそれを表に出さずにやっていっているだけなのか、
それはまだ美咲の中で判断をつけきれていない。

美咲が初めて痴漢にあったのは、まだ幼稚園の頃のことだ。
思い当たる被害は2つある。
当時通っていた体操の幼児教室の先生か、
もしくは、母親の買い物の最中時間をつぶしていた本屋で遭遇した男か。
覚えている限りではそのどちらかだとは思うのだけれど、
昔のことすぎてもう、よくは思い出せない。

おそらく初めての被害にあったとき、
美咲にはまだ、それが「どういうこと」なのか、わからなかった。
ただ「何かがおかしい」という強い危機感を抱えた鼓動の高鳴りを感じたことだけは覚えている。
しかし嫌悪感を覚えたのは、
本屋で、幼い美咲の顔に股間を押し付けて来た痴漢に対してだけだ。
体操の先生のことを、美咲は好きだったのだ。

とてもおもしろい先生で、いつも教室に通うのが楽しみだった。
その先生に、二の腕や太ももにつけられたキスマークは
風呂に入るころには消えてしまうような薄いものばかりで、
だからしばらくは、当時は一緒に風呂に入っていた母親も、
そのことに気づきはしなかったのだ。
けれど当時の美咲は、意味もわからないままに、
母親に、先生のその行為について話してしまった。
「こんなこともしてくれるんだよ、おもしろい先生なんだよ」という気持ちで。
「おもしろい先生ねぇ」と、笑ってくれると思っていたのに、
聞いた母親は、一瞬にして顔色を悪くした。
その母親の表情の変化は美咲には予想外のもので、とても怖かった。
先生によってされた事柄を入念に訊ねられて、
そうしてその数週間後、先生は教室から姿を消してしまった。
どうしてその先生がいなくなってしまったのか、美咲にはわからなかった。
理由はわからないけれど
自分が話したことのせいで、その先生はいなくなってしまったのだと思った。
だから母親に、どうしてそうなってしまったのか、繰り返し訊ねたのだけれど、
母親は「もうあの先生のことは忘れなさい」というばかりだった。
そのうち美咲自身も気持ちがのらなくなってしまって、
幼児教室は期間をあけずにやめてしまった。

小学校に入る少し前、東京から関東圏の別の県に引っ越しをした。
しばらくは「東京弁」とからかわれることもあったけれど、
美咲は明るい性格だったし、
特に困った事態になることもなく、随分と楽しく過ごしていた。

そのころ、近所に出るという「変質者」の話を担任から聞いたりして、
気をつけるようにと繰り返し言われ、
世の中にはそういう「変な人」がいるのだと知った。
けれど、幼稚園の時に出会った男たちがそういう存在なのだとは思わなかった。
担任から聞いたのは「おしりを触ってくる人」「車に連れ込んで誘拐していくような人」「裸や局部を見せつけて来る人」の話だったから、
美咲の中では繋がった話ではなく、全く別のものとして認識されていたのだ。

そうした「変な人」に遭遇することが、美咲は非常に多かった。
股間を露出して歩く人や、
公園の茂みから遊ぶ美咲たちの姿を見ている人。
いろんな人がいて、怖いとは思っていたけれど、
「イヤなものを見た」という、単に運の悪い経験をしてしまったな、という程度のものだった。

けれど美咲が小学6年の時、
運が悪かった、程度ではすまない出来事に遭遇してしまった。

学校からの帰り道のことだ。
通りで、何かの作業員のような格好をした男に道を聞かれ、
車の中に地図があるから教えてくれと言われ、美咲は男についていった。
子どもを車に連れ込むような「変質者」がいる、ということは知っていたから、
男の車が止まっているという駐車場の奥まではついていったけれど、
男の車自体には近づかなかった。
警戒する美咲に、男は笑った。

そうして近づいて行った先で、
美咲は腕を掴まれ、「写真を撮らせてくれ」と言われた。
男の力は強かった。
大きな声を出すべきだろうとか、どうにかして逃げなければとか、
そんなことを冷静に考えることはできなかった。
視界が狭まって感じられるほど。
何も考えられなくなるほど。
そのとき美咲を塗りつぶした感情が「恐怖」だったのだと自覚したのは、
全てが終わってからのことだ。

結論から言ってしまえば、レイプされたわけではなかった。
基本的にはただ、写真をとられただけだ。
立っているだけの写真。
それから服の裾に手をかけている写真。
服を少しまくりあげた写真。
さらにまくりあげて、おへそが見えているような写真。
少しずつ露出した部分の増えて行く、
パラパラ漫画のコマのように変化して行く写真だ。
撮影は、美咲の胸のふくらみの下半分が見えたあたりで止まった。

それから男は服の下に手を入れてきて、
自分で触るのでも痛みのあるふくらみかけの美咲の胸に指をはわせてきた。
そんな時間がおそらく、数分続いて、
あとは美咲の服の乱れを男は綺麗になおしてしまって、
それで終わった。
男はやっぱり笑っていた。

デジカメなどまだない時代だ。
緑色の使い捨てのインスタントカメラだった。
「忘れたい」と何年も思っていたせいか、
今では思い出そうとしてももう、男の顔も声も、よくは思い出せない。
けれどインスタントカメラの緑色と、
黒いレンズと、
シャッターの音と、
笑う男の少しひげののびた口元と、
胸を這った濡れたような冷えた指の感触と……
そういった断片的な記憶は、たしかに美咲の中に残っている。

そのときのことを、美咲は誰にも言わなかった。
言えなかった。恐ろしすぎて。
帰宅して風呂場の鏡で見てみると、
掴まれた腕には赤黒い痣ができていた。
それはしばらく消えなくて、見るたび恐怖に襲われた。

何か、とりかえしのつかないことになってしまったと思った。
それが何で、どうとりかえしがつかないのか、
ハッキリと言葉にしては考えられなかったけれど、
それでも「終わった」と美咲に思わせるのには十分だった。

とんでもない出来事だ。
とても自分の中には抱えきれない、
制御しきれない、何か大きな、これは事件だ。
こんな大きな何かを外に出してしまったら、もう取り返しのつかないことになってしまう気がする。
外に出してしまったら、美咲には制御できないのだから、きっとどうにもできなくなってしまう。
そう思って、言えなかった。

美咲を苛んだものはまだいくつもあった。

学校で性教育というものを受けたとき。
「女」である自分が「男」から受けたそれが、どういう類のものだったのか。
「変質者」と呼ばれる人たちのせいで行われてきた注意喚起。
幼稚園の時に自分の身に起きたこと。
それらが全て、ひとつに繋がった。

女生徒だけが集められた多目的ホールで、教師は言った。
そういった性的な行為は、
「愛する男女」だけがお互いの信頼の元で行うべきことで、
軽はずみに行ってはいけないことで、
愛のないそれは一生消えない傷を負わされることにもなり得ることで、
だから十分に気をつけなければならないのだ、と。

怒りにも似た希望のなさを感じた。
どうして、もっと早く教えてくれなかったのだろう。
どうしてこんなに何年も経った後で、幼い頃の経験のその意味を知らなければなかったのだろう。
当時知っていれば、気をつけていれば、とれる対処もあったかもしれないのに。
少なくとも、
こんなにも、大きなショックは受けずにすんだだろうと思う。
自分だけが知らず、自分だけがわからなかったのだ。その行為の意味を。
自分の身体なのに、自分だけが。

けれど、知っていてもどうしようもなかっただろうと思ったのも事実だ。
「これは変だ、何かおかしい」と思っていても、
写真を撮られている間、掴まれた腕から相手の手が離れても、
自分は結局、逃げることも抵抗して戦うこともできなかったのだから。
いくら「気をつけろ」と言われても、
どれだけ気をつけたって仕方がないのではないか。
何もできないのではないか。
そう思った。

授業の後には、オレンジ色のプラスチックでできた防犯ブザーが配られた。
それが本当に役に立つかどうかはともかくとして、
美咲にとっては、全てが遅く、手遅れだった。
教師の言っていた「一生消えない傷」というものを、
おそらく自分はすでに負ってしまっている。そう思った。

テレビが嫌いになった。
自分が“そういう目”にあってから、どんなアンテナが働くようになったのか、
自分と同じような被害を受ける人間が一定数、世間の中にいるのだと気づいた。

「一生消えない傷」という言葉は多く聞かれた。
加害者を責める文脈で言われていた言葉だったけれど、聞くたびに
自分の被害は、傷は、一生消えないのだろうと思わされた。
人通りのない夜道を歩いていただとか、スカートの丈がどうだとか、職業がどうだとか、
被害者の落ち度について語っているコメンテーターも多くいた。
自分が被害にあったのは、人通りはたしかに多くはなかったけれど、
登下校でいつも通っている普通の道で、夜でもなくて、はいていたのはスカートではなかった。職になどついていない、強いて言うなら「児童」だ。
「コメンテーターの言っていることは嘘だ」という気持ちと、
やはり自分は「可哀想なレアケース」なのかという気持ちとが沸き上がった。
そして同時に、
例えば自分が大人で、あれが夜の人通りのない道で起きた出来事で、スカートをはいていて、ついている職業によっては、
あれは美咲が悪かったと言われるようになるのだろうか、という気持ちにも襲われた。
随分と無茶な話だと思った。
見る人によっては、美咲の場合でも、気をつけていなかったのが悪いのだと責めるかもしれない。
そう考えると、ますます誰にも言えなくなった。
今でさえ、自分に何か落ち度があったせいなのではないかと、こんなにも考えてしまっているというのに。
絶対にバレてはいけない。そう思った。

レイプされなかった。
それが世間的には「運がいい」「マシ」と言われるようなことだとも知って、
美咲はわからなくなった。
こんなに「終わった」と思っているのに、これが、運のいいことなのか? マシなことなのか?
レイプされていれば哀れな被害者で、そうでなければ取るに足らないものだということなのだろうか。
哀れとも思われたくなかったけれど、
どうでもいいような軽いことのように扱われるのも辛かった。

「被害者が可愛かったから」
「被害にあうだけその女性に魅力があったということだ」
そういった言葉もたくさん聞いた。
幼いころから、美咲は「可愛い」と言われて育って来ていて、
それは親戚たちのひいき目ももちろんあっただろうけれど、
実際、自分はたしかに「可愛い」方だろうという自覚もあった。
それがいけなかったというのだろうか。
そんなのは生まれつきのもので、美咲自身の力でどうにかできるものではないのに。

季節が変わって、胸の膨らみがどんどんと育って行くと、
胸の大きさも、女性として「欲」を感じさせるものなのだと知った。
友人たちからは羨ましがられた。
言われるたび、美咲は笑って過ごしてみせたけれど、胸など削ぎ落としてミンチにして捨ててしまいたかった。

これは呪いだ。そう思った。
生まれつき持ってしまった「可愛い」と言われる顔も、大きく膨らんだ胸も、全て。
羨ましがられはするけれど、それで得をしたことなどない。
嫌なことばかりで、不便なことばかりで、リスクにまみれている。
自分は呪われているのだ。

もっと時が経って、被害に遭う人間は必ずしも
世間一般的な基準で「可愛い」「美人」な人ばかりでなく、
胸の大小も関係ないのだとは知ったけれど、
自分は呪われていると感じたその時の気持ちを、美咲は拭い去ることができないでいる。

美咲を苛んでいたものは、まだある。
「写真」だ。
自分の映されたその写真が、どんな風に使われるかわからなかった。
もし、アレが人手に渡って、
クラスメイトやクラスメイトの親や、自分の親に見られてしまったら。
そのことを考えると、文字通り眠れない夜が続いた。
誰にも知られたくない。
けれど、いつ、誰にその写真が見られてしまうかわからない。
いてもたってもいられない気持ちだったけれど、
美咲にできることは何もなかった。
もし、あれが道端や何かの店で売られたら。使われたら。
雑誌やスポーツ新聞に投稿されたら。
どこで誰の目に触れるかわからない。
もしそうならなかったとしても、じゃあ、あの写真はナニに使われるのか。
あの男が1人、見ているのだろうか。ナニに使われているのだろうか。
数日、数週間、数ヶ月、そして1年以上の時が過ぎてやっと、
アレが公開されることはないかもしれない。その可能性が見えて来た。
少しだけ安心した。
けれど自分の写真が、自分の与り知らぬところでナニかに使われているかもしれない。
その気持ち悪さと嫌悪感は消えなかった。

その事件以来、変わってしまったことがあった。
大きくわければ2つ。
ひとつは、美咲の行動だ。
それまでは、人前に立つことや授業中に手を挙げて意見を言うことなど、
何の苦でもなかった。
けれど、それができなくなってしまった。
注目されること。見られること。
それが何かとても恐ろしいことのように感じられるようになった。
小学校の高学年と言えば、不真面目な態度をとりたくなったり、
ちょっと斜に構えた態度を取ったりし出す生徒も多かったから、
美咲のこの変化は、そういった行動の一環だろうと思われたようだった。
写真に映されることも極力さけるようになったけれど、
もともと写真をとる機会など、そうそうあるものではなかったから、
これにも大した疑問はもたれなかった。

もうひとつは、家族関係だ。
自分が「女」であることを意識してしまってから、
両親と会話ができなくなってしまった。
父親に関しては、自分が「女」で父親は「男」という性を持った存在であるという、
その事実だけでもう、ダメだった。
父親が美咲に欲をもつようなことはなかったけれど、
それは美咲にもわかっていたけれど、もうそういった次元の話ではなくなってしまっていた。
それに、性別を意識するようになってから、父親の態度には疑問を持つようになってしまったのだ。
「男」である父親の態度は、「女」である母親に対して、どうにも強すぎるような気がした。
そして「女」である自分に、そういった考えや姿勢を植え付けようとしている。そんな抑圧のようなものを感じたのだ。

自然、反抗的な態度をとることが増えた。
おさえつけようとしてくる父親にも、父親に従う従者のような態度の母親にも。
以前感じていたような親しみや、
決して傷つけられることなく守られているような安心感や、
信頼感のようなもの。
それを、美咲はもう感じられなかった。
所詮父親は「男」で、「女」であることを押し付けようとしているのだ。
こんなに呪われているというのに。
自分はもう、父親が望んでいるような娘ではなく、傷物なのに。

家族に関しても「終わったな」と思った。
父親と母親とが「男」であり「女」であると、
ひねくれて見えてしまうようになった時点で、もう無理なのだと思った。
少なくとも、そのときの美咲には無理だった。
同じ家に住んでいる、よく知っているはずの、けれど決してわかりあえることのない他人。
美咲と親との関係は、そういったものになってしまった。

いろいろなことがあって、
その溝は深まったり埋められる努力がとられたりもしたけれど、
基本的には今も変わっていない。

「……」

雄大と別れて、美咲の足は『カフェR』に向かっていた。
マサキとの約束の時間までには、まだ間がある。
けれど、今日の行き先は『カフェR』なのだ。
時間までマサキは仕事中だろうけれど、だったらそれまで、
美咲は客としてコーヒーを楽しんでいればいいのだ。

外は寒かった。
早く温かい店内に行って、温かいものを飲みたい。

そんなこんなで、
美咲の中学時代はガタガタだった。
美咲はもう「男」という存在自体が苦手になってしまって、
目立つことはおろか、
活発に誰かと遊んだり話したりすることにも躊躇するようになってしまった。
特定の、差し障りの無い関係をとれる女子とばかり話していた日々だ。
生徒は全員が部活か委員会かのどちらかに所属しなければならなかったので、
部員数が少なく、担当教師も女性であった図書委員になった。
教師も他のメンバーもあまり参加することなく、
週に1度の定期的な清掃の時間がある以外は、これといった活動はなかった。

この委員になったことは、美咲にはとても大きな意味があった。
一人きり、誰もいない図書館で、
誰に煩わされることも、誰と話すこともなく耽ることのできる本の世界は、
美咲には貴重だった。
このころ周りの女子たちにはオシャレを楽しむ子が増えていて、
教師達に注意されながら、それにもめげず
ファッション雑誌の回し読みやメイクの練習などが教室でよく行われるようになった。
コンタクトレンズもはやりだしていたのだけれど、美咲は眼鏡を通した。
視界が広がれば、それだけ、見たくないいろいろな情報が目に入って来てしまう。
「せっかく可愛い顔してるんだから」と美咲も誘われもしたのだけれど、
そんな“呪い”を自ら近寄せるようなことをする気持ちにはどうしてもなれなかった。
そして、誰かとつくる人間関係というものに、基本的に美咲はもう、なんの期待も持てなくなっていた。

「終わった」と思ったその日から、
美咲にとっての毎日は余生だった。
もう、何をすることも、何に期待することも、何を楽しみにすることもない。
ただただ静かに暮らしていたい。
そうして誰に看取られることも、深く悲しまれることもせず、1人消えてしまいたい。
そう思っていた。
できれば心穏やかに。
できれば、もうあんなイヤな事件には巻き込まれることのないように。
それだけだ。

今から思えば、随分と枯れた中学生だったと思う。
毎日を、楽しいこともない代わりにひどく嫌なことも起きないように、怯え、注意深く息を潜め、淡々と過ごしていた。
そうした日々を送ることに必死で、
あまりにも必死すぎて、
まだそれほど昔のことではないはずなのに、
当時のことはもう、よくは覚えていないのだ。
それほどに必死だったのだろうとは思うから、
「まぁ、お疲れさまでした」程度には労いの気持ちは持っているけれど。

美咲の生活が一変したのは、高校生になってからだ。

まず大きかったのは、「環境が変わった」ことだと思う。
高校は、電車で40分ほどかかる距離の県立に通った。
自由な校風で、学力的には無理もなく低くもない、美咲の成績からすればと「無難」なところだった。
美咲と同じ中学校の生徒は、そこには誰も入学しなかった。
それが大きかった。
中学は、小学校から変わらないメンツが多かった。
高校に入って、
美咲を知る人は誰もいなくて、適度な距離のあいているココなら、
自分のあの写真がたとえどこかで流通してしまっても、バレないのではないかと思った。
地元でたとえ、あの写真たちが明るみに出てしまっても、ここなら関係ない。
そう思った。
今から思えば、雑誌やスポーツ新聞等に載ってしまえば距離などそれほどの関係はないのだけれど、
当時の美咲にはそこまでの考えはなかった。

高校で美咲には一人、親しい友人が出来た。
ユウキという、活発な女子だ。
はじめてクラスに入ったその日、ユウキは美咲の左隣の席に座っていて、
退屈そうに窓の外を眺めていた。
金色に近い薄い茶色に綺麗に髪を染めていて、耳には全部で5つのピアスが開いていた。
メイクは少し濃かったけれど、
それらはどれも自然で、彼女によく似合っていた。

彼女はとても目立つ生徒だった。
自由な校風とは言え、入学式の日からそんな派手な髪型やメイクの子はいなかったし、ピアスの穴も多いし、何より、
大きな声でよく笑う、自然と話題の中心に置かれるようなタイプの子だった。

中学までの美咲であれば、決して関わろうとはしなかったタイプの生徒だ。
一緒にいては目立ってしまう。それがイヤだった。
はじめ彼女は、機会をみつけては美咲に話しかけて来た。
もちろん、無視のようなことはしない。
けれど美咲が返すのは、
少しだけ困ったような曖昧な笑顔と、小さな声でのひとことふたことの返事だけだ。
そうするとみんな、特に活発な態度の目立つ子であればなおさら、
次第に美咲に話しかけることは少なくなって、あまり相手にしなくなるのだ。
それを美咲は知っていた。

だからユウキに対しても、美咲はそういう態度でのぞんでいた。
こんな目立つ生徒、親しくなっても困るだけだ。
明るく話題の中心近くに置かれて注目されてしまうことを美咲は望まなかったし、
彼女と親しくなることで、1人きりの静かな時間が持てなくなってしまうのも嫌だった。
いつもそうしてきた。
彼女もすぐに今までの者達のようになるだろうと、美咲は高をくくっていた。

けれど、ユウキはめげなかった。
ことあるごとに美咲に話しかけ、笑いかけた。
そしてユウキは、おそらくとても頭のいい生徒だった。
空気を感じ取るのがうまい、と言った方が正しいかもしれない。

美咲が目立つのを嫌っていること、
1人きりで過ごす、大抵の場合は本を読んでいる時間を大事にしていることに、
すぐに気づいた。
そして、それを尊重した。

そのことに美咲が気づいたのは、すでに季節が秋を迎える頃のことだ。
文化祭の準備で盛り上がる中、
美咲が静かに取り組んでいる作業に割って入ることを、ユウキは決してしなかった。
集中して取り組んでいるそれが終わるのを待って、
そうしたタイミングを見計らって、
少しボリュームをおさえた声で話しかけてくる。
あまりにスムーズだった。
それで、そのときやっと、美咲も彼女のことに気づけたのだ。

美咲はユウキを好ましく思った。
尊敬や憧れにも似た気持ちで、彼女の聡明さに好意を持った。
それ以来美咲とユウキとは、多くの時間を一緒に過ごすようになる。
美咲に、久しぶりに「友だち」と呼べる人間ができた。

美咲がユウキに与えられた影響は大きかった。
ユウキは活発な少女だった。
友人との遊びに関しても、勉強や学校行事に関しても。
性行動に関しても、ユウキは“最後まで”と言われるような行為まで、
すでに中学の時に行っていたらしかった。
尊敬し憧れるユウキの影響で、美咲の価値観に変化がうまれた。

自身が経験したことを、美咲はユウキにも話してはいない。
過ごす時間が多くなればなるほど、話してしまいたいような気持ちは増した。
けれど怖くて、結局言えなかった。
言ってもユウキは気にしないだろう。
美咲を思って、
怒ったり、悲しんだり、あえて大げさにはしないようにしたりしただろうし、
もしくは本当に、そんなことは気にしなかったかもしれない。
いずれにしてもユウキなら、美咲を不用意に傷つけるようなことはしないだろう。
そのことは、美咲自身にもわかっていた。
それでも言えなかった。

言えないながらに、
自分が「男」を苦手としていること、
自分の顔や体つきを憎んでいること、
目立ったり注目されたりすることが苦手であることは伝えた。
高校2年の夏のことだ。
それだけを伝えるのにも、それだけの時間がかかった。

美咲の話を聞いて、ユウキは言った。

「ね、私、汚い?」

「……え?」

美咲の話を聞いてユウキの出した結論は、
「美咲は男との性行為を汚いものだと思っている」ということだった。

「私、もう何度もしたことあるし、最近だって普通に彼氏とやってるし。
 美咲から見て、私は汚い?」

そんなことを聞かれるとは思っていなかった。
美咲は全力で首を振った。
「でしょ?」と言って、ユウキは笑った。

「あのね、でも、汚いんだよ。
 経験したことがあってもなくても、男でも女でも、それは関係ないの。
 いくらちゃんと洗ってても、だって、あんなとこにあるものであんなことするんだよ。
 どうしたって汚いものなのよ。それはしょうがないの。
 だからそれで病気になったり、あと妊娠する気がないならしないように、
 気をつけるの。
 やるからには、それしかないんだよね。
 もちろんやらないのでもいいとは思うけど、そこは人によるけどさ、
 するのが好きな人には、そこ気をつけてでもする価値があったりするんだよね、不思議なことに」

笑って、なんでもないことのように話すユウキのその言葉の内容は、
まだ美咲にはよくわからないことだった。
けれどそれでも、
何か、自分にとって大事なことが言われているのだということは伝わった。

美咲はそのことを、正直に伝えた。
そしてユウキに提案されたのだ。
「……じゃあ、とりあえずやってみたら?」と。

相手は男がいいのか女がいいのか、と言ったことから聞かれて、
外見や性格の好み、趣味や年齢の好みまでたずねられた。
美咲の言った希望にあいそうな相手を、
ユウキが自分の携帯の中から探し出し、紹介してくれるというのだ。

(……本気?)

スピーディーなユウキの行動についていけないまま、相手が選ばれた。

「別に付き合えとかそういうことじゃないよ」と、ユウキは前置きした。

「それにね、やっぱヤダーとかだったら、
 私の顔たててとか相手に遠慮してとかそういうこと考えなくていいから、
 ちゃんとイヤって言うんだよ。
 だいじょうぶ、そういうのちゃんときいてくれるヤツにしたから!」

この時に知り合ったのが雄大だ。
第一印象で、するっとした、柔らかそうな印象を受けた。
これがもっとゴツゴツしたり勢いがあったりするタイプの人間だったら、
というより、紹介されたのが雄大でなければ、
おそらく美咲のとった行動は変わっていただろう。

「あ、ども。雄大です」

あまりにもさらっと挨拶されたものだから、
美咲も「あ、美咲です」と、普通に答えてしまっていた。
身構えることなしに「男」と話したのは数年ぶりだった。
美咲のその様子を見て、ユウキはその場で帰宅してしまった。
「美咲泣かせたらガチでつぶすよ?」と、雄大に釘だけさした上で。

電車で繁華街まで行って、
とりあえずファストフードでお腹を満たして、
ユウキや雄大が時々利用するというホテルを教えてもらって、一緒に入った。
雄大は、どこまでも自然だった。
どうして自分が突然こんな誘いをユウキから受けることになったのかとか、
美咲がどんな人間なのかとか、
どうして美咲がそんなことをユウキに頼むことになったのかとか、
一切、雄大から聞かれることはなかった。

美咲も、大したことは聞かなかった。
学校のことや部活のこと、趣味のこと、好きな音楽やマンガや映画や、
そんな会話ばかりだった。
けれど美咲には、それが大事だった。
雄大は、全くもって大人しい人間ではなかったけれど、
どこか落ち着いた印象を与える人間だ。
後からそう感じた理由を考えてみたのだけれど、
それはおそらく、彼が「会話」を大事にしていたからだろうと思った。

彼は聞いてくれた。
“はじめて”である美咲の気持ちを。
どういうリスクがあって、
その場合はどう対処できるか、できないか。
クラスメイトの話の中では「萎える」と言われているような内容のアレコレを
雄大は丁寧に話し、美咲に確認した。
その多くは、知識として美咲も知っているものではあったし、
ムードも盛り上がりもなかったけれど、
その代わりに“安心感”がうまれた。

それらの話を一通り終えて、
行為へのお互いの同意を最後にもう一度確認しあって、
それからやっとでベッドに入った。

この日のことは、
後から思い出すと、おかしくてたまらない。
ユウキとも雄大とも、時々話題に出して笑い合う。
懐かしさと、幼い中での精一杯の誠実さを持とうとした証だ。
おかしくて愛おしくてたまらない。
ユウキと雄大のおかげだ。とてもいい思い出でができた。

「スポーツみたいなもんだ」と美咲に言ったのも雄大だった。
ルールがあって、マナーがあって、安心と安全に気をつけて行うスポーツ。
本当にそうだなと、美咲は今でも思っている。
それくらいがいいな、とも。

この日を境に、美咲の中で少しだけ、何かが変わった。

基本的には「男」が嫌いで、
自分は「女」として産まれた時点でひどい呪いをかけられてしまっていて、
その呪いを晒すことも望まないし、
カメラのレンズもシャッター音も嫌いだ。
両親との仲はすでに修復できないだろうところまできてしまっていたし、
テレビや電車の中吊り広告にはすぐに不愉快を感じ、
不愉快どころか、当時の感情や感触や感覚を思い出してしまって、
呼吸ができなくなるような想いに苛まれることもあった。
それでも変わった。

はじめはユウキと。
回数を重ねて行くうちに、雄大とも。
それから少しずつ、他の女子とも。
女性教師、級友の男子たち、男性教師、先輩や後輩達。
近所の人たち。
町中ですれ違う見知らぬ人たち。男も女もそうでない人たちも。
一緒の空間にいて、一緒の空気を吸っていても、
消えてしまいたいような強い想いを感じることが少なくなった。
そして両親とも、顔を見て会話をすることができるようになった。

初めて性行為を行ってみて、
それは美咲の考えていたものよりも誠実さに溢れた行為で、
美咲は思ったのだ。
「なんだ、こんなものなのか」と。

思っていたほど、
自分があんなにショックを受けるほど、
そんなに大層なものではなかったのかもしれない。
そう思った。
この程度の欲求のために自分があれほど嫌な想いをさせられたのかと考えれば
どうしようもない無力感にも襲われたけれど、
その無力感は、部分的には美咲を落ち着けた。

意思の確認なく、許可なく、
リスクも、それがどういうものかも何もわかっていなかった幼い自分にされた過去の行為。
それは決して許されるものではないし、
今のところは到底、
受け入れることも、乗り越えることも癒すこともできなさそうだ。
夢見が悪いのも変わらないし、
恐怖感も嫌悪感も消えはしないし、
時折、突如として襲われるそれらに対しての吐き気もおさえきれない。

けれど、
もしかしたら、大丈夫なのかもしれないと、少しだけ思えた。
「一生消えない傷」だなんて、誰が決めたのだろう。
少なくとも美咲自身ではないし、美咲自身はまだ、自分にその結論を出した訳ではないのに。

正直なところ、たしかに汚いとも思った。
けれどそれはお互い様で、
そしてあんなもの、自分が決めて許した相手の発したものなのであれば、
汗や唾液や、そんなものと同じような汚さだ。
人間なんて、もともと汚いところだらけなのだ。
性に関することに限った話ではない。当たり前のことだ。
そう思った。

その行為を、自分で選んでしたこと。
それは美咲にとって大きな意味を持っていて、
当時の美咲には、たしかに救いだった。

だから雄大だけでなく、いろいろな相手を探した。
雄大で感じたその感情が「本物」で「確かに間違っていない」ものであると、確認するために。
最初はユウキの知り合いから。
その後は、その知り合いから紹介された知り合い、
そうしてそのまた別の知り合い、といった具合だ。

雄大とも関係は続けた。
ユウキは見守ってくれていて、
「クラスメイトとか部活の人とか、そういうところから探すのはやめた方がいいよー後で面倒だったりするから」とアドバイスをくれたりもして、
ただ、自身を安売りしないようにと、それだけはしつこく言われた。

そうして美咲は、雄大との関係をのぞけば
常時3人程度、半年前後のスパンで、行為の相手を探すことになった。
その生活スタイルは、
高校を卒業し、地元に残ることになったユウキと離れた今まで続いていた。
雄大も美咲と同じく東京に出てくると知って、ユウキは随分と安心してくれていた。
春休みには、雄大も一緒にあの地元に帰る予定だ。
ユウキとは今も頻繁に連絡をとりあっている。

誰かと付き合いたいと感じたことはなかった。
美咲にとっての性行為は「スポーツ」で、
「大丈夫だ」ということを確認する、ただそれだけのためにある。
「付き合う」という枠でくくらなくても、信用できる関係性はつくれる。
「付き合う」というくくりがあったとしても、そうした関係性を作れていない人たちもいるのだ。
だったら、そんなくくりは無意味なはずだ。
だったら自分は、そんなくくりに身を委ねることで
自分の意思や行動を阻害されるリスクをとりたくない。
そう思った。

「……」

そう、思っていたのだ。
少し前まで。
それがどうして、自分から「付き合おう」だなんて言ってしまったのか。

自分のことながら、あれはただの流れだったと思う。
実際、全てはあの「いつの間にか既婚者」男のせいなのだ。
あの男のせいで美咲は、つい、マサキとしてしまい、
つい、マサキに交際を申し込んでしまった。

「……まぁ、いいんだけどさ」

けれどこうして思い返してみると、
自分の人生はいつでも感情優先で、
その時々で「そうかじゃあとりあえずその方針でいこう」という、
ざっくりと決めた方法や方向にしか進んで来ていない。
前向きのものにせよ、後ろ向きのものにせよ。

きっと自分は、こういう性格なのだろう。
どうしようもないなぁとも思うけれど、そうなのだから仕方が無い。

小学生のあの日の、あの事件よりも前。
そのころの「本当の自分」と今の自分とでは、随分と性格が変わってしまっている気がした。
「本当の自分」は、もっといい子だったような気がするのだ。
素直で、まっすぐで、自分にももっと正直だった。おそらく。
けれどそんな自分は、もうあの日に死んでしまった。

美咲は一度死んだのだ。小学生のあの日に。
今は、羨望さえされる、自分では欠片も望んだことのない呪いをひきつれて、
吐き捨てるように残された余生を過ごしている。

だったらせめて、できることなら、好きなようにやってみよう。
そうも思った。
成功か失敗か、そのどちらでもないただの気まぐれで終わるか、
それはわからないけれど、別にどちらでもいい。
好きにやって、やりたいようにやって、
ダメだったらまたやりなおせばいい。
やりなおせないほどの何かに出会ってしまったら、その時は、
その時こそ、終わればいい。

タイミングが少し遅くなっただけだ。
怖がることなんてない。

ポケットに入れておいたのに冷えてしまった手を、
少しこすってあたためる。
早くあのコーヒーが飲みたい。

白く息を吐く美咲の視線の先に、『カフェR』が見えて来た。
夕暮れの中、淡く灯りが浮かんでいる。

風にのって香るコーヒーのにおいに少し笑顔を浮かべながら、
美咲は店のドアを開けた。

今では聞き慣れたベルの音が、ちりん、と小さく響いた。

(to be continued...)

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